「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫ プナタラン・クロンチョン寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その一:プナタラン・クロンチョン寺院



1998年、元旦。
熱帯の太陽が、草、花、木々を眠りから醒ましてゆく。
わたしにとって、バリで迎える8度目の新しい年の夜明けだ。
新年は年に1度、自由に使いなさいと、すべての人に同じ条件で配られる真新しい1枚の白い布だ。無垢な白い布をどう使うかはその人しだいというわけだ。
バリ人は、バリの伝統的な暦に基づいて生活している。210日を1年とするウク暦と、月のない夜ティルム(tilem=暗月)から始まり、つぎのティルムまでを1ヶ月とし、12ヶ月を1年とするサカ暦のふたつだ。
バリ人にとっての新年は、ウク暦の祖霊が還ってくるガルンガンの祭礼や、サカ暦の静寂の日と呼ばれるニュピだろう。彼らにとって西洋暦の新年は、まったく関係ないものと言ってもよい。
1年の計は元旦にありなんてあらたまった気持ちになろうにも、まわりのバリ人が普段と少しも変わらない生活を送っていてはとてもそんな気分になれない。
それでもなんとか正月気分を味わおうと、長期滞在の仲間が集まってバリで用意できる食材でおせち料理もどきを作ってみたり、おとそ代わりに日本酒を飲んでみたりと試みる。ところが、外は椰子の木に強い陽差しがガンガンと照りつける風景だ。これでは焼け石に水で、いっこうに雰囲気がでない。わたしの正月は、こたつに足を投げいれ、みかんの皮を剥きながらと相場は決まっている。寒くない正月なんて、富士山の頂に雪がなくなったような風情のないものだ。
そんな味気ない正月を向かえ、年末年始にかけて1年に1度、故郷に帰省するかのようにウブドを訪れる友人たちの対応で、わたしは慌ただしい日々を過ごす。
正月3が日も過ぎると台風一過、旅行者が去りはじめる。


                   


ウブドに静けさが戻ってきたある日、久しぶりにアノムから電話があった。
「イトサン、オダラン(寺院祭礼は、これからオダランと書きます)でスマラ・ラティが奉納芸能するから、一緒に踊らないか?」
奉納舞踊の誘いだ。
わたしは、初々しい新入社員のような素直なふたつ返事で承諾した。
踊りを習っているといっても、しょせんはよそ者。そんなよそ者に、オダランの奉納舞踊の誘いなんてめったにないことだ。おまけに、今年初の奉納舞踊がスマラ・ラティだなんて、自称スマラ・ラティ・ファンの会会長のわたしにとっては、幸先の良い、初夢が叶ったような話だ。
アノムから誘いがあったのは、パダンテガル村のプナタラン・クロンチョン寺院のオダランだ。ここは普段、バリ舞踊の定期公演会場になっている。
スマラ・ラティの今夜の演目は、チャロナラン劇だ。
わたしの出番は、チャロナラン劇がはじまる前。踊りは、トペン・ムニエ−ル。
チャロナラン劇の開演は、たいていが夜10時頃になる。
夜10時から深夜2時は、悪霊たちが徘徊する時間だ。特に、深夜0時をまたぐ時間には外を出歩かないほうがよいと言われる。チャロナラン劇は、深夜0時が近づくと盛りあがり、さらに深夜2時頃まで続く。
アノムは「夜8時の開演だ」と言っていた。
チャロナラン劇にしては、早い開演だ。ちかごろ、明日の仕事にさしつかえるという理由から早めにはじめて深夜0時頃には終わってしまうという村も増えてきている。パダンテガル村も、そうなったのか。
それはそうとして、わたしのようなおじゃま虫は、少なくとも開演30分前には寺院でスタンバイしていたい。
今年初の奉納舞踊ということもあって、わたしは沐浴場で身を浄めることにした。
Tシャツにカマン(腰布)、バスタオルを首に巻き、バイクにまたがってモンキー・フォレストの沐浴場に出かけた。モンキー・フォレストは、名前の通り野生の猿が棲息する森で、ウブドの数少ない観光名所のひとつだ。
旅行者が森に入るには、入場料が必要だ。わたしは、料金徴収場の小さな建物の前にバイクを止め、受付の青年に「マンディ(水浴び)!」と告げて通り過ぎる。そう、マンディに来た人は入場無料なのだ。
森は、静寂に包まれている。
猿の親子が、眼の前を横切っていく。
人間の祖先は猿だといわれているが、森のあちこちでふざけ合っている猿が人間になるとは、わたしにはとても考えられない。ある種類だけが人間になったとすれば、突然変異なのか。この突然変異の連続を進化だとしたら、進化し続けるのは人類だけだ。
イルカはイルカのままだし、猫は猫から進化していない。進化しないことは悪いことではない。自然が一番だ。
長期滞在で脳天気になってしまったわたしの頭脳は、自然の空間で解き放され、こんなたわいもないことを考えている。
わたしの心身はリラックスしている。これを森林浴というのか。
沐浴場の入り口にある巨樹を目印に、森の奥へと入っていく。
巨樹は、バリ語でビンギン、インドネシア語ではブリンギンと呼ばれる。ガジュマルの一種でヒンドゥー教の聖木だ。横に伸びた枝から、気根が幾筋も地面を目指して垂れ下がる。地面に到達した気根は、やがて、成長して幹のように太くなってゆく。
枝がたわむほどの豊富な葉は、太陽の陽射しを遮ぎり、ビンギンの樹の下は昼でも薄暗い。森を吹き抜ける風に、枝々は葉の重さに耐えかねるように揺れる。樹には精霊が宿るといわれるが、揺れる姿は悪霊が手招きしているとしか思えないほど、無気味だ。
ビンギンの向こう側は、小さな渓谷になっていて、沐浴場はそこにある。
モンキー・フォレストのビンギンは、垂れさがった太い気根を利用して、渓谷に吊り橋が造られるほど鬱蒼としている。足もとが隙間だらけの吊り橋を渡ると、右手5メートルほどのところに苔むした祠がある。祠と川の間にある細い土道を、奥に進んでゆくと、すぐに岩場が見える。このあたりが沐浴場だ。
浸食された岩に足をとられそうになりながら、沐浴場に下りる。夕方になると村人たちで賑わう沐浴場も、少し時間が早いのか誰もいない。今は、わたしひとりで独占だ。
5メートルもある柿の種のような形をした岩の上にTシャツとカマンを脱ぎ捨て、せせらぎに身を浸す。水は、肌に刺さるほど冷たい。岩間から流れ落ちる湧き水は、さらに冷たく身が引き締まる。
モンキー・フォレストの沐浴場は、浮き世から隔離された空間で瞑想的だ。濃い緑の木々に覆い隠された自然に抱かれて、人間性を回復する癒しのスペース。
大きな深呼吸をして、胸いっぱいに自然の空気を吸いこんだ。心も引き締まり、奉納舞踊への意気ごみも高まってくる。
眼の前を、大きな赤いくちばしに色鮮やかな青い翼を持つ鳥が、風車をつけた弾丸のように滑空していった。美しい姿のわりには、鳴き声はオウムのように忙しなかった。
マンディから戻り、踊りの衣裳をバッグにおさめ、正装に身を包んだ。
オダランの正装は、男性はカマンの上に、もう1枚サプッと呼ばれる黄色い布を巻き、スレンダン(腰紐)で締める。上着は、白い襟つきシャツ。最後に、白い鉢巻き(ウドゥン)を、オウムの尖ったとさかのように額で結ぶと、男なら誰でも引き締まった凛々しい姿に急変する。
女性は、カマンにクバヤと呼ばれるブラウスを着る。クバヤのうえから、やはりスレンダンを締める。ハレの衣裳を着た女性たちは、一段と美しい。寺院は、色とりどりのクバヤを着た女性たちで、まるで満開の花園のように華やぐ。
こんな正装になったのは最近のこと。それまで、決められた服装はなかったようだ。女性には形式的に、胸から胴にかけて布を巻くことがあったようだが、古い写真を見ると、男女とも、バリ人の普段着であるカマンを腰に巻いただけの上半身裸でオダランに参加している。


準備はすべて整った。腕時計を見ると、7時ちょうどだ。今から出発すれば、7時半には寺院に到着できる。衣裳バッグを肩に担ぎ、サンダルに足をいれた。
こんな時にタイミング悪く、なんと、ダドンが現れてしまった。
ダドンとは、スードラ階層でおばあちゃんのことだ。バリにはカースト制度の名残があり、平民階層をスードラと呼ぶ。わたしのところへ現れるダドンは、耳が不自由だ。だから、言葉がしゃべれない。白髪に皺だらけの顔や手。60歳は越えているだろうが、100歳と言っても信じてしまうほど年齢不詳だ。バリの妖術使いレヤックがいるとすれば、きっとこんな風貌だろうと思ってしまうほど、凄みのあるおばあちゃんだ。
バリの暦で霊力が強いといわれる日に、ダドンはわたしの作業場に供物を持って現れる。狭い庭にある小さな祠や部屋の中、庭の隅々に供物を捧げお祈りをしてゆく。お祈りをしてくれることには、たいへん感謝している。時々、日を間違って来ることもあるが、ダドンの暦では、それでいいのだろう。これも愛嬌。ティダ・アパ・アパ(問題ない)で許せてしまう。
わたしが病気も事故もなく、楽しいバリ生活を送っていられるのは、ダドンのお陰だと思っている。
困るのは、人に有無を言わせず命令するところだ。わたしが手を離せない状態であっても、あれやこれやと手伝いをさせる。わたしは心からダドンに感謝しているので、命令されると従ってしまう。時には、作業場を訪れた友人たちが、わたしの代わりに命令されることもある。そんな時は「ダドンはわたしのドン(首領)だから、許してください」とダジャレで謝る。
誰だって、自分の言うことを聞いてくれ、わがままのできる場所が楽しいに決まっている。老人のダドンは、家に居るより、わたしの作業場の方が落ち着くのだろう。
案の定ダドンは、今からプンゴセカン村の寺院へお祈りへ行くから、わたしも一緒に来るように、とウーウー、オーオーと命令調の手振りで伝える。
わたしの作業場はプンゴセカン村にあり、何かと世話になっている村だ。それに、すでに寺院に供物が奉納してあると言われては、断るわけにはいかない。不謹慎だとは思うが、急いで済ませば夜8時の開演には間に合うだろう。
衣裳バッグをバイクのハンドルと座席の間に挟み、ダドンをうしろの席に乗せてプンゴセカン村の寺院へ出発した。
オダランは、コンピアン家の斜め前にあるムランティン寺院でおこなわれていた。
デワ・ウィシュヌ(豊穣の神)とその妻デウィ・スリ(農業の女神)との間に生まれた種子、庭園の女神デウィ・ムランティンが祀られている市場の寺院だ。
インドネシア語で神のことはトゥハンだが、バリ人はヒンドゥー語のデワ(男神)、デウィ(女神)を使っている。バリのヒンドゥー教は元々インドのヒンドゥー教と同じように多神教だが、インドネシアは多神教が認められず、バリ人は神々の頂点に最高神サン・ヤン・ウイディを配して、一神教として国の宗教として認められている。
ムランティン寺院前には、境内に入り切れない人々で溢れていた。境内では、すでにお祈りがはじまっている。
お祈りが終わるのを待つとなれば、遅くなる。奉納舞踊の開演時間に遅れては、アノムやほかの出演者に申しわけない。わたしは、だんだんと気が急いてきた。できることなら、今すぐこの場を失礼してパダンテガル村の寺院へ向かいたい。
思いがけず、お祈りは早く終わった。
お祈りを終えた村人たちと入れ変わりに寺院に入り、境内に坐り込んだ。
あらたに、お祈りがはじまった。
こうなったら観念しよう。わたしは、腕時計を外して上着のポケットにしまった。


お祈りをすませダドンを探すと、境内の隅で婦人たちと談笑しているダドンの姿が見えた。言葉のできないダドンは、婦人たちとどんな方法でコミュニケーションをとっているのだろう。村人が好意的に接していることは確かだ。
ダドンに「踊りに行く」と手振りで伝え寺院を出た。バイクに跨ぎアクセルをふかし、パダンテガル村のプナタラン・クロンチン寺院へと急いだ。
寺院の前で、正装姿のアノムが腕組みをして立っていた。バリ人はうしろ手を組むことはあっても、腰に手を当てたり腕組みをすることはめったにない。怒っていたり、生意気そうに見えるからだ。アノムは、遅くなったわたしを怒っているかもしれない。
それにしても、アノムの正装姿は惚れ惚れする。正装ベスト・ドレッサー・コンテストがあれば、必ず、トップに選ばれるだろう。
バイクを路肩に寄せながら、眉をちょっとあげるバリ式合図をアノムに送った。アノムも、それに気づいて眉を動かした。手を振るわけでも声をかけるわけでない、この眉だけの挨拶は、人混みの中でも急のすれ違いでもとっさにできて便利だ。はじめ、ぎこちなかったが眉の動きは、練習の成果で、今ではスムーズにできるようになった。
ワンティラン(集会場。闘鶏場にもなる)から、ガムランの軽快な金属音が聴こえている。8時をまわり、スマラ・ラティの演奏がはじまったようだ。
待っていてくれたアノムに、すまない気持ちでワンティランに飛び込んだ。
幕の裏では、チャロナラン劇で魔女ランダの弟子シシアンを演じるスマラ・ラティの踊り子たちが着替えていた。わたしも、急いで衣裳を着替えはじめた。
衣裳替えは、幕で仕切られただけの楽屋。道路からは丸見えの衆目の中だ。
女性の踊り手も、男性と同じ場所で人眼に晒されながら着替える。女性の場合は、男性のエッチな視線を浴びながらだから、さぞかし気を遣うことだろう。
踊り手に付き人はいない。着付けは自分ひとりでできないと駄目だ。まわりの踊り手を煩わせることはよくないが、たまには、ちょっと手を借りることもある。
寺院前を覗くと、相変わらずアノムは腕組みをしたまま道端に立っていた。待っていたのは、わたしじゃなかったのか。よく考えれば、アノムがわたしごときを待つわけがないのだ。わたしひとりがいなくたって、今夜の演目になんの支障もないのだから。待っているのは、チャロナラン劇のメインの踊り手たちだろう。こういうのを、思いあがり勘違いというのだ。


                   


奉納舞踊で踊るようになったはじめの頃、わたしは着付けの順序がわからなくてコンピアンに手伝ってもらっていた。それも最初の2、3度。そして、ある日、着付けがひとりでできるようになった。正確には、ひとり立ちさせられたと言うべきだ。
忘れもしない、それはタガス・カンギナン村の大きなビンギンのあるダラム寺院のオダランだった。それはそれは、心細い限りのひとり立ちだった。
恥をしのんで告白しよう。
衣裳バッグを肩に、わたしはダラム寺院の境内に足を踏み入れた。
右手にある吹き抜けの建物に、ガムランが演奏者の来るのを待っている。そのまわりには、正装の男たちが数人たむろしていた。どこでも見られる、オダランの風景だ。
この日の奉納舞踊は、この村の友人であるリノから誘われた。わたしはこの村が所有する、優しく雅やかな音を奏でるスマル・プグリンガンと呼ばれるガムランで踊りたくて奉納舞踊を承諾した。
わたしは建物の隅に衣裳バッグを下ろし、知った顔はないかとあたりを見渡した。誰ひとりとして知った顔はなかった。
リノは踊らないが、それでも奉納舞踊がはじまれば来るだろう。
ガムランの前に、ひとりふたりと演奏者たちと思われる男たちが坐りはじめた。
境内の村人も増えてきたが、相変わらず、誰ひとりとして知った顔はない。そして、誰もわたしに声をかけてこない。まだ、なんの打ち合わせもしていない。本当にわたしは、踊ってよいのだろうか。
演奏者が揃い、そろそろ演奏が始まるようだ。
コンピアンはまだ来ていないし、打ち合わせもない。わたしは不安になってきた。
身のおきどころのない1メートル80センチ近い身長をふたつに折るようにして、ガムランのうしろで小さくなった。場違いなところへ紛れこんでしまった醜いアヒルの子の心境だ。深い孤独感と疎外感が押しよせてくる。
大きな籠を手にした人物が、ガムランの前に坐った。大きな籠は、トペンの入った籠だということをわたしは知っている。彼が、今日の主役であるトペンの踊り手だろう。
トペンの踊り手と一緒に境内に入ってきた男性が、わたしに話かけてきた。
今夜の奉納芸能はトペン・パジェガンで、踊り手はトゥンクラ村から来ていると教えてくれた。
わたしが踊るとなれば、もちろん前座だ。彼は、わたしが踊ることをトペンの踊り手に告げてくれた。
トゥンクラ村からきた踊り手が、衣裳替えをはじめた。
わたしも着替えなくてはいけないが、まだ、コンピアンがきていない。わたしは、これまで1度もひとりで着替えたことがない。衣裳替えは、コンピアンが手伝ってくれる約束になっている。リノでも来れば、手伝ってくれるのに。
そのうちコンピアンも来るだろうと、わたしも着替えをはじめることにした。
トゥンクラ村の踊り手は、早々と着替えを終えた。
わたしは記憶を手探りにゆっくりと、そして、たどたどしく着替えている。誰も手伝ってくれる人はいない。焦ったせいで裏に着てしまい、やり直しだ。
「みんな、どうしてそんなに冷たいのだ!」
声を出してひとり言をつぶやいている。極度の不安から、感傷的になっているのだ。早く来てくれコンピアン。さりげない風を装っているが、内心は、かなり狼狽している。自分の臆病さをつくづく感じる。
ガムランが旋律を奏ではじめた。
トゥンクラ村の踊り手が境内に下りていった。踊りはトペン・パテだ。
衣裳はなんとか着た。しかし、これでよいのか心許ない。どこかちぐはぐで着心地が悪い。踊る前から、すでに気疲れしている。
まだ、わたしの出番を訊いていない。
トペン・パテが終わった。
演奏者全員が「次は、お前の番だ」とでも言うように、わたしの顔を見た。
わたしは慌てて、ムニエールのトペンを演奏者に見えるようにかかげ「これを踊りたいのですが、大丈夫ですか?」と身振りで訊いた。
先ほどから演奏に加わった、グループのリーダーである友人のランティルが、大丈夫だという顔でうなずいた。
わたしは、ムニエールのお面をつけ境内に下りた。
村人は、四方にぱらぱらと坐っている。
孤独感の中で心は萎縮してしまい、つらくて長い踊りだった。折角、テガス村のスマル・プグリンガンで踊ることができたというのに、踊りはまったくガムランと協調しなかった。
結局、最後まで、コンピアンは来なかった。そして、リノも顔を見せなかった。
衣裳バッグを抱えて、わたしは重い心を引きずって家路についた。
この辛い洗礼を受けたあと、わたしは早くひとりで衣裳替えができるようにならなくてはと、オダランでトペン舞踊があると聞きつけては出かけていった。楽屋へ直行し、トペンの踊り手を穴のあくほど見つめて着付けを覚えていった。


                   


アノムの姿が、さきほどの場所から見えなくなった。メインの踊り手さんたちが到着したのだろうか。
村人たちが、幕の裏を覗いては通り過ぎていく。なかには立ちつくして見つめている人もいる。
いつもこの寺院の前で定期公演のチケットを売っているおばちゃんや、友人の経営するブティックの店員さんなどの知った顔がわたしを見つけては「えっ、お前、踊るのか?」「えっ、お前、踊れるのか?」と驚いた顔や、よしよし、お前は奉納舞踊するほどバリが好きなんだ、とでも言いたそうな表情をして通り過ぎて行く。
わたしも、そんな彼らの表情を見て嬉しかった。
衣裳替えの途中でガムランの音が止んだ。
演奏曲が終わり、いよいよ本番だ。
幕の裏には、わたしのほかにスマラ・ラティの踊り子4人しかいないが、大丈夫なのだろうか。それに、いくらわたしが前座でいてもいなくてもどちらでもよい踊り手(少しいじけている)だと言ったって、なんの打ち合わせなしにはじまってしまうのはどうかと思う。
前座は、チャロナラン劇がはじまる前に踊る。ということは、次にガムラン演奏がはじまれば、わたしの出番かもしれない。今は、そんなことに驚かないほど経験をつんでいる。打ち合わせはしていないが、自分の踊る曲はイントロでわかる。イントロが流れれば出るだけだ。しかし、衣裳替えが終わっていなくては踊ることはできない。
演奏者たちが、ノソノソと立ちあがった。そして、寺院の方へ歩いて行く。ついには、全員が寺院の奥へ消えていってしまった。どうやら休憩のようだ。
それにしても、心配させてくれるものだ。これは、心臓に悪い。とは言うものの、また、いつはじまるかわからない。模範的初心者としては、とにかく、着替えを早くすませて楽屋で待機しているのに限る。
着替えながら、今夜の舞台はどんな登場のしかたをしようか、今から踊る踊りをシュミレーションしてみる。わたしは踊る前に、必ず頭の中でひととおり踊っている姿を描くことにしている。
「そうだ!」面白い登場のしかたを思いついた。
アノムが、着替えを見ている人垣のうしろから「踊る場所は、寺院の前だ」と告げて背中を見せた。
えっ、ここじゃなかったの。
幕のある屋内の舞台と、幕のない屋外の舞台では、条件が違う。今、考えついた振付けに無駄の羽がついて、ヒラヒラと夜空に舞っていった。わたしは、意気消沈してしまった。
トペン舞踊は、幕のすぐうしろで椅子に腰掛け、両手で幕をふたてに開けていくところからはじまる。
幕を開け、椅子に坐ったままの姿勢で踊ったあと、立ちあがり幕の前に出てゆく。ところが、舞台によっては幕はあっても椅子が用意されていなかったり、椅子どころか幕もないところもある。
椅子がないところでは立ったままの姿勢で幕を開け、坐って踊る部分を立ち姿勢で踊る。幕のない屋外では、舞台から少し離れたところから踊りはじめ出てゆく。衣裳を着替えている場所から、直接踊りはじめることもある。
そして肝心の舞台だが、これには、毎回のように面食らってしまう。
すごく狭い舞台だったり、逆に、とてつもなく広かったり、草の上だったり、砂利の上だったり、ジュータンは敷かれているが、その下はデコボコの土だったり、舞台が高いステージだったり、竹で組み立てられた仮設舞台はところどころ壊れていたり。と、それぞれ条件が違う。
だから、踊る前には必ず、舞台の状態を頭にいれるために下見をする。場数を踏んだベテランには必要のないことだが、わたしのような新米には舞台に出てから思いがけない事態に遭遇して慌てないためには、場所を把握しておく必要がある。
衣裳替えも終わり、出番前の緊張感をほぐそうと、わたしは背筋を伸ばして深呼吸をした。
「そろそろはじまるから、寺院の内で待っていろ」とアノムの声が聞こえた。
時計を見ると10時近くになっていた。やはり、開演は10時のようだ。
寺院の内で待つということは、もしかすると、踊り手は割れ門から出るということか。
割れ門はチャンディ・ブンタルと呼ばれる、石積みの祭壇を縦にふたつに切って人がすれ違えるほどに左右に押し広げた門のことだ。
困った。この寺院の割れ門には、長い階段がある。階段を踊りながら下りてゆくなんて芸当は、これまでに経験したことがない。おまけに、前座はわたしひとりのようだ。最初の意気込みも萎えて、今は、自信もなく心細くなってきている。
着替え終えた正装を衣裳バッグに収め、寺院内に移動した。
寺院内の建物のひとつが踊り手の控えの場として用意され、すでに、チャロナラン劇の役者が揃っていた。控えの場の建物は広いから、どこに坐ってもよいのだが、わたしは割れ門に近い片隅に腰をかけた。
役者さんたちの楽しげな話し声が、建物の中から聞こえてくる。
わたしは、踊りに意識を集中させるために眼を閉じた。
寺院内と同じように、わたしの頭の中も静寂を取り戻してゆく。


                   


静寂の片隅から、ふたつの木片を叩き合わせるカスタネットの音に似た、小気味よい音が聞こえてきた。
音は、割れ門の方角から聞こえてくる。この乾いた木の音は、聖獣バロンが口をパクパクさせて出している音だ。それは、バロンの踊り手が、舞台に出る準備の整ったことを演奏者に伝える合図だ。
バロンの踊りは、チャロナラン劇の幕開けでもある。
チャロナラン劇がはじまるということは、前座であるわたしの出番がなくなってしまうということだ。わたしは、うろたえた。踊るのも心細いが、踊らずにこのまま帰るのはもっと惨めだ。
誰も、何も教えてくれない。
どうなってしまうかわからないが、とにかく、わたしはすぐにでも舞台に出られる状態にしておくことにした。
長髪にクシをいれた。トペン・ムニエ−ルを踊る時は、カツラではなくウブドに滞在しはじめてからずっとのばしている自前の長髪で踊ることにしている。
鮮やかなヌガラ織りのウドゥンを縛め、トペンをつけた。踊った時にキラキラと揺らめくように金箔の花かんざしをウドゥンに止め、両耳に生花の花飾りを差した。これでいつでも踊れる。
踊れないにしても意志表示だけはしておこうと、わたしは立ち上がり、建物を離れてゆっくりと割れ門に近づいていった。
ガムランの演奏が聴こえている。バロンの曲ではない。聴き覚えのある曲だ。
雑踏の中から大切な人を見つけた時にも似た感覚で、曲が鮮明に浮き上がってきた。これは、わたしの踊るトペン・ムニエールの曲だ。
演奏者がわたしが踊ることを知っていて、バロンの合図を無視してくれたのだろう。
それにしても、これはいきなり過ぎる。わたしは動揺し、意識の集中が散漫になってしまった。あおられるように、脈拍が早くなってきた。
「どうにかなるさ」わたしは心の芯でささやいた。
今夜は、割れ門を境に寺院側が舞台裏で、割れ門の外の境内が観衆のいるハレの舞台だ。
光源の強いスポット・ライトが苔むした割れ門を明るく浮かびあがらせ、舞台の表裏を明確にしている。
わたしは割れ門に立った。
スポット・ライトの明かりと、開演を待ち焦がれる観衆の視線がいっせいにわたしの全身に浴びせられた。
広い境内には、300人以上はいるだろうと思われる正装の村人たちでいっぱいだ。最前列に坐っている、友人の顔が見えた。年に1度、この時期にバリを訪れる友人夫妻だ。知り合いのバリ人の顔もいくつか見える。
わたしは、そこに漂う宗教的で厳粛な緊張を呑みこもうと、顔を左から右へゆっくりと移動していった。
わたしのトペンを見て、観衆の顔が微笑んだ。みんなの眼差しが暖かい。
「しめた、観衆はなごんでいる」
わたしの心は、少し冷静さを取り戻した。そして、自分を勇気づけた。
演奏に合わせて、階段を一段一段と確実に踏みしめながらおりていった。
トペンをつけたわたしは、人格が変わったようにトペンのキャラクターになりきっている。まるで、自己陶酔だ。
境内に区切られた舞台のスペースは意外に広い。できるだけ、いっぱいに使って踊りたい。だが、あまりの広さで持てあまし気味だ。
観衆は、わたしのユニークな踊りに爆笑している。客席に入り込んで子供たちと戯れる場面では、大爆笑をもらった。
踊りが、終わりに近づいた。
スポット・ライトに照らし出された階段を、今度は1段1段と上る。わたしは、踊りの余韻を味わうようにゆっくりと階段を踏みしめるようにして上りつめた。
割れ門から寺院に入った。
長いようで短い、緊張の時間が終わった。背中に浴びていたスポット・ライトの明かりは今はない。
カタカタという音と、すれ違った。
チャロナラン劇のはじまりだ。
建物に腰を下ろすと、どっと汗が噴き出してきた。マンディから上がったばかりのように、玉の汗が流れ落ちる。
花飾りと花かんざしを取り、ウドゥンを解いた。トペンをはずし、タオルでていねいに汗を拭き、ねぎらいの言葉をかけて袋にしまった。長髪を輪ゴムでまとめた。
暑さに我慢できずに、1番上につけている衣裳をはずした。寺院内で肌を見せることは許されない。これ以上衣裳を脱ぐことはできないので、場所をワンティランに移して着替えることにした。
ワンティランはガムランもなく、幕も取り払われて静まりかえっていた。
村人たちは、今わたしが踊った場所ではじまったばかりのチャロナラン劇に観入っている。
誰もいなくなったワンティランに、ぽつんとひとり坐りこんで着替えはじめた。
衣裳を脱ぎ肩紐をはずずと、縛りつけられていた身体が解放され安堵した。衣裳をていねいにたたみ、ひとつひとつバッグ中に重ねてゆく。明日は、衣裳の虫干しだ。
最後に、大事な仕事をすませた充実感と一緒にトペンの袋をバッグに収め、ファスナーを閉じた。
正装に着替えたあと、わたしは最前列で観賞している友人夫妻の隣の席に割り込んだ。
「おつかれさんでした。踊りよかったよ」。夫妻はねぎらいの言葉をかけてくれた。
眼の前で演じられているチャロナラン劇と同じ舞台で、わたしは今踊ったのだ。
観光客は、外国人が踊ったことに気がついていないだろう。気がついたとしても素顔は知らない。怪傑ゾロにでもなったような痛快な気分だ。
バリでもっともバリらしいオダランの風景が、わたしは大好きだ。そんなオダランの奉納芸能に、わたしがほんのしばらく潜入したのは確かだ。
今年の初舞台をオダランの奉納舞踊で、それも、スマラ・ラティの演奏で飾ることができたことに感謝したい。




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