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■魔法使いダドン



ダドン


ある日のセンゴール(ナイト・マーケット)でのこと。アグン・ライが営むワルン(屋台)の常連客であるY子が、腰痛で困っていた。ワルンの長椅子に腰掛けるだけで「痛い〜っ」とうなっている。持病がひどくなったようだ。
見かねたアグン・ライがバトゥアン村に腕のいいマッサージ師がいると教えると、彼女はワラをも掴む思いで「連れて行って欲しい」とお願いした。
ちょうどその場に居合わせた四郎は、アグン・ライとともにバトゥアン村へ彼女を治療につれていく約束をした。

次の日。2人は、彼女が滞在しているホーム・ステイに迎えにいった。
テラスにある竹製の椅子に腰掛けて待っていると、しばらくして、彼女が部屋から出てきたので、四郎とアグン・ライは「それでは出発しようか」と腰を上げた。
彼女が腰痛を気使いながら、扉に鍵をかけようとした時だった。
ひとりの老婆が、中庭の向こうから彼女の部屋を目指して真っ直ぐに歩み寄って来た。
薄汚れた上着とサロン姿。束ねた長い白髪の裾は乱れ、歯も口の中もシリー・タバコで赤黒く染まっている。シワ深い顔に、鋭く光る眼がある。
「こ、この人物は、いったい何者なんだ?」
タダモノではなさそうだが、風貌からは乞食にも見える。四郎とアグン・ライ、そしてY子の三人は、異次元の物でも見たように互いに顔を見合わせた。
老婆は誰にも、ひとことも声をかけずにテラスに上がると、呆気にとられているY子の腕をいきなり掴んで部屋の中に連れ込んだ。


部屋の扉が閉められた。
四郎とアグン・ライは、わけのわからないまま、無言で椅子に腰を戻した。
深々と椅子に腰を落とした四郎は、これはアグン・ライが彼女の様態を気遣いマッサージ師に出張してもらったのだろうと考えていた。「黙っていて脅かしてやろう」とジョーク好きなアグン・ライが考えそうなことだ。実際、Y子は歩くのさえたいへんな様子だった。四郎はアグン・ライの心配りに感心していた。
ほどなくして扉が開き、老婆がテラスに出てきた。
老婆が大声で何やら怒鳴ると、ホームステイの家主が何ごとかと駆けつけてきた。老婆は家主に「彼女にマッサージをするので油を持ってこい」とジェスチャーで示した。「アーアー、ウーウー」としか声を発しないところをみると、おそらく身体が不自由なのだろう。
家主は顔に当惑のシワを寄せながら、老婆の頭から足の先までジロジロといぶかしげに見つめたあと、あまり気乗りのしない表情でうなずいた。
老婆は、家主から椰子油の入った椰子殻のお椀を受け取ると部屋に戻り再び扉を閉めた。

1時間ほどして、老婆は部屋から出て来た。
老婆はアグン・ライの顔も見ず、もちろん四郎の顔も見ないでホームステイをあとにした。すでに約束があったように、堂々と現れ堂々と帰っていった。
あの老婆は何者だったのか、そして、約1時間、部屋の中で何がおこなわれていたのか。ここにY子の証言を再現してみよう。
『何が何だかわからないまま部屋に引っ張り込まれたけれど、このおばあさんは本当にマッサージ師なんだろうか? まだ半信半疑の私におばあさんは「裸になってベッドに横になるように」と命令しました。命令するといっても、おばあさんは「アー、ウー」としかしゃべれないし、こちらが怖々声をかけても反応がないので、私はますます恐ろしくなりました。
でも、このジェスチャーからすると、私にマッサージをいしてくれるということだとはわかりました。私が渋々服を脱ぎはじめると、おばあさんは前歯の欠けた歯をむき出してニターッと笑うのですが、その口が吸血鬼のようで、思わず身体が縮まってしまいそうでした』
老婆が噛んでいるシリー・タバコは、キンマと呼ばれる葉に粉末の石灰とビンローをくるんだものである。少々覚醒作用があるらしい。噛んで出た唾液は飲み込まないように、吐き出す。ピューと飛ばした唾液は血のように赤い。
『私は、この腰の痛みを癒してくれるのなら誰でもいいと思って、正体不明の老婆に身を任せることにしました。それに、この老婆には逆らえない何かがあるような気がして・・・。私は、痛い腰に顔をゆがめながらベッドに横になりました』
老婆は部屋の片隅にある机の上に線香の袋があるのをめざとく見つけ、中から3本取り出すと、そこにあったマッチで火をつけた。
3筋の紫煙をともなった線香を胸から額へ額から胸へと3度ほど繰り返し、口もとではぶつぶつと念仏でも唱えているようだった。これがマッサージをはじめる前の、老婆の儀式のようだった。
椰子油を掌に移し取ると、うつ伏せになるようにY子に命じた。首筋から脊髄へと猛烈な力が加えられた。
数分して・・・・突然、老婆の手が止まった。患部を見つけたようだ。
〈ここが痛いのだろう〉と言わんばかりに「ウーン、ムムムーッ」と叫んでいる。
教えてもいないのに、どうして腰の痛いのがわかったのだろう。こういう能力を持った人がいるとは聞いていたが、この老婆もそうなのか。それとも、バリの呪術師バリアンなのかもしれない。
老婆はていねいに患部をマッサージしたあと〈ここを触ってみろ〉とY子の手を持っていった。指先に、豆粒大の小さなしこりを感じたとY子は言う。


老婆はマッサージを続けた。
しばらくして、今度はY子の手を膝の裏にもっていって当てさせた。なんと、先ほどのしこりが膝の裏に移動しているではないか。マッサージで、しこりをだんだんと足の下へおろしているようだ。
次に手を当てたところは、アキレス腱だ。またしても、しこりが移動していた。Y子はこれが何を意味するのか理解できず、ただただ、不気味なしこりが移動をすることが不思議だった。
老婆は次に、Y子のアキレス腱を親指と人差し指で挟むようにして何度もさすった。
そして、突然「ウンッ」と大声をあげた。
老婆は自信ありげな笑顔を見せて、Y子にアキレス腱を触ってみるように示した。
しこりはあとかたもなく消え去っていた。
〈もう、悪いものは外へ捨てた〉と身振りで老婆は説明した。と言っても、外へ出したしこりは眼には見えない。
そのあと整体まがいの治療をし、背骨をねじられ、ボキボキ音をさせて治療を終わらせた。
老婆はY子の身体にサロン布を掛けると、起きあがってみなさいと伝えた。
老婆に支えられて、恐る恐るベッドで上体を起こしてみた。Y子は、驚きのあまり声が出なかった。腰の痛みがまったくなくなっていたのだ。
日本で何度も医者に通い治療をしても、まったく治らなかった椎間板ヘルニアの痛みが、今、突然に消えてしまった。腰痛は老婆の手によってしこりと化し、体内から抽出されたのだ。
『これは奇跡だわ! おばあさん、すごい!!』
Y子は、思わず喜びの声をあげた。
老婆は、足を床につけないようにベッドの端に腰掛けるようにと身振りで伝えた。
新しい線香に火がつけられた。老婆は線香を彼女の身体のまわりと足もとにかざした。清めの儀式のようだ。Y子に合掌するように示すと、老婆はその手を両手で包み、お祈りをした。
儀式は終わった。
幾らかのお金を渡すと、老婆は何事もなかったかのように扉を開けて出ていった。


Y子がテラスに現れた。
「魔法のように治ってしまったわ。ところであのおばあさんは誰が呼んでくれたの?」
四郎とアグン・ライは、お互いの顔を覗いた。
アグン・ライは今の今まで、四郎が呼んだマッサージ師だと思っていた。
「信じられない」3人が同時に思った。
突然現れた老婆に、どうして彼女が病気だとわかったのだろう。そもそも、なぜここにやって来たのだろう。見るからに、老婆は彼女の部屋を目指して自信をもって中庭を歩いて来た。
信じられないことが実際に起こった。これは神からの使いとしか考えられないほど、不可思議な事実だ。
アグン・ライが連れて行くことになっていた、バトゥアン村のマッサージ師との約束は反故になったが、何はともあれY子の腰痛は完治した。
この時からY子にとって、この老婆は魔法使いダドン(ダドンはスードラ階層のバリ語でおばあちゃんのこと)となった。
2007年12月6日死去、享年98才?。



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