「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


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■第一章 バリ舞踊に挑戦



1993年、ウブドに滞在を始めて3年が過ぎた。
なんの予備知識もなくバリを訪れウブドに長期滞在をはじめ、まったく無知だったバリの宗教、習慣、芸能などが、おぼろげではあるが理解できるようになってきていた。
この3年間わたしは、彼らバリ人を少しでも理解しようとつとめてきた。その方法は、彼らの生活習慣をマネすることだった。
はじめは、素手(右手)での食事だった。
不潔だと考えていた素手での食事も、良く洗えば、箸やフォークより清潔かもしれないと思うようになった。それに、食べ物を直接掴む指先に、かすかに味が感じられるような気がするのが嬉しかった。決して上品な食べ方とは思えないが、わたしはこのダイナミックな食べ方が気に入っている。
そして、素手(左手)でのトイレの後始末もマネした。
これには、少し勇気がいった。慣れとは恐ろしいもので、今では素手でないと安心できない。紙を使うより清潔で、なおかつ、お尻に優しいなんて考えるようになった。
バリ人男性の最大の娯楽だろうと思われる闘鶏にも顔を出した。
ギャンブルの才覚のまったくないわたしは、2〜3度バリ人の友人につれられていった程度で、闘鶏にはまったく興味を持たなかった。
子供の誕生日、削歯儀礼、結婚儀礼などの通過儀礼から、火葬儀礼寺院祭礼まで、機会があるたびにすすんで参加した。バリらしい風変わりで独特な慣習が展開するのは、これらの儀礼だ。
マネはしてみたものの、しょせんマネはマネに過ぎず、虚しいものであった。もっともっとバリ人の立場から見たバリを知りたいと、強く思うようになった。外国人旅行者の視点だけでは物足りない。バリ人と同じ視点に立つ必要もないだろうが、彼らの視点に近づくことはできないだろうか。
バリを理解するということは、バリ人を理解することと、わたしは考えている。バリ人の生活は宗教、習慣、芸能が一体となっている。どれひとつ欠けても、バリを理解することはできない。
生活習慣は、これからもマネを続けるとして、あとのふたつ、宗教と芸能を理解するのはどうすればよいのだろう。
芸能を、観客として鑑賞するだけではだめだ。舞踊を習っても充分じゃない。
宗教と舞踊を同時に学ぶとしたら、奉納舞踊に出演するしかないだろう。そうすれば、彼らの人生感が見えてくるかもしれない。
踊りを習うことは容易だろう。だが、踊りが出来るようになったからといって、ヒンドゥー教徒でもない外国人がバリ人の生活に切り離すことのできない神聖な寺院祭礼に紛れこんで、踊ってよいものだろうか。それが心配だ。
わたしは幾人かのバリ人に、寺院祭礼で外国人が奉納舞踊していいものかと訊いてみた。その、ほとんどの答えが「(ン)ガヤ(=ngayah)だからいいんだよ」だった。
(ン)ガヤとはバリ語で、寺院や王宮にたいする奉仕のことで、舞踊の奉納も(ン)ガヤのひとつだと教えてくれた。それ以外の奉仕活動は、ゴトンロヨンと言って使いわけられているらしい。
「寺院祭礼に、(ン)ガヤすることは素晴らしいことだ。それがたとえ外国人であっても、バリの宗教や芸能を理解しようとする人が踊って悪いわけがない。しっかり踊って、神々はもちろん村人たちも楽しませてやってください」
そんな暖かい言葉に勇気づけられて、わたしは寺院祭礼で奉納舞踊するという突拍子もない夢を描いて、バリ舞踊を習うことにした。


いざ習うといっても、先生を探す方法を知らない。文化教室があるわけでもなし、州都デンパサールにアスティ(ASTI、その後STSIに、さらにISIと変名)といわれる芸術アカデミーがあるが、そんな大それたところに入学して学ぶほどの根性もない。踊り手は、教えることを職業としていないので、電話帳の職業覧には載っていないだろう。もっとも電話帳も存在しないが。
個人的に教えている踊り手がいるとは聞いているが、家の前に舞踊教室という看板を掲げているわけでもない。おまけに、公演では圧倒的に女性の踊り手が多く、男の先生を見つけるのは大変だ。公演で見て気に入った踊り手に直接声を掛ければいいとは思うのだが、インドネシア語はもちろんのこと、片言の英語も話すことができないわたしには、それもままならない。
情報がまったくないまま、数日が過ぎたある日、卒業論文のために踊りを習っている日本人女性と知り合った。
わたしが踊りを習いたがっていることがわかると、彼女は先生を探してくれると言ってくれた。そして、彼女から紹介されたのは、パダンテガル村に住む、笑顔の優しいワヤン先生だった。
時々、こめかみにしわをよせ神経質そうに右眼をしばたかせる癖がある中肉中背の先生だ。バリ人は小柄で、平均身長は1メートル65センチ前後といったところだ。ワヤン先生は、まさにその典型だ。
先生は、アスティの舞踊科を卒業し、幾度かヨーロッパにも公演に行っている踊り手で、踊りのほかにも、ガムランと竹の鍵盤打楽器ティンクレックを教えている。
ワヤン先生が英語を話せるからか、生徒のほとんどが欧米人旅行者の、それも女性が多い。女性は女性の先生につくのが普通だが、ワヤン先生は女性に女踊りも教えている。
どことなく、女っぽい仕草をするワヤン先生のことを、紹介してくれた友人女性は「男性の踊り手も、ひととおり女踊りを習うのよ。だから、どことなく女っぽくなってしまうのよ」と分析する。
欧米人の女性に、指導しているところを見学したことがある。こういっては失礼だが、ワヤン先生のほうが彼女より女性っぽく見えたのがおかしかった。
わたしの練習は週2回、夜の6時から2時間ほど、ワヤン先生の家ですることになった。


ナタラジャ
ワヤン先生の舞踊教室の看板
[Nataraja Balinese Dance&Music School]
今(2011年8月)でも、当時のままの看板がある


そして、今日は練習初日。
今、わたしはワヤン先生の家の前に立っている。6時には、まだ5分ほどある。わたしは、日本からの習慣で待ち合わせには必ず時間より少し前に着くようにしている。特に、教えを請う場合は、生徒が先生を待つことと決めている。
わたしは生まれて初めての習いごとに、未知の世界に踏みいる小学校の入学式にも似た、期待と不安の交錯した面持ちで、ワヤン先生の家の朽ちた土の門をくぐった。
門の近くでバイクを修理しているワヤン先生がいた。「スラマット・マラム=今晩は」と挨拶をすると、「わたしはワヤンの弟です」と言われた。わたしは、てっきりワヤン先生はバイクの修理を職業にしているのだと思った。それにしても、そっくりだった。
ワヤン先生を紹介してくれた友人が、目に入った。
彼女は、ワヤン先生の家にホーム・スティして踊りを習っている。練習初日の今日は、わたしが不安がっているのを知って、立ち合ってくれる約束で待っていてくれたのだ。
彼女は、わたしの先に立って練習場へ案内してくれた。練習場に、薄暗い明かりの裸電球がひとつ灯っている。彼女とわたしは、隅にある竹の椅子に腰をおろして、ワヤン先生が来るのを待つことにした。
しばらくして、ワヤン先生にうりふたつの女性が、厚手のグラスののったお盆を運んできた。年格好からすると、ワヤン先生のお母さんだろう。ここの家族はみんな顔が似ているのだろうか。
お母さんはグラスをテーブルに置くと、わたしにすすめるようにと、友人に目配せして去っていった。グラスの中身は、インドネシアの紅茶だ。
ちょっとぬるくて、かなり甘い紅茶をすすりながら、友人からワヤン先生の家族の話を聞いた。ワヤン先生の家族はガムラン奏者が多いようだ。奥さんの信仰する宗教は、ハリ・クリシュナだそうだ。クリシュナもヒンドゥーの神だが、バリのヒンドゥー教とはあまり関係がないので、村人から疎まれているそうだ。そんなことがお父さんの悩みの種だと、友人が教えてくれた。
友人がわたしの頭越しに、暗闇を凝視した。
わたしは振り返った。
白いランニング・シャツにスラックス姿のワヤン先生が、暗闇から現れるところだった。わたしは椅子から腰を浮かした。裸電球の灯りがワヤン先生を顔を照らした。わたしは「よろしくお願いします」という意味で頭をさげた。
生真面目そうな先生は、挨拶もそこそこに練習を開始した。
踊りは、バリス・トゥンガルを習うことにしている。決して、アノムのように踊りたいなんて、大それたことを考えているわけではない。
バリスは男性の踊りの基本で、初心者はまずこれを習う。ちなみに、女性の基本は、パニャンブラフマという歓迎の踊りだそうだ。
練習は、基礎の基礎である、アガムと呼ばれる姿勢からはじまった。
まず、両手を水平に開く。そして、掌が前にいくように肘を直角に折る。掌は指先をうえに向け、手首も直角に曲げる。通せんぼの格好だ。この時、指先と肘が同じ高さになるようにする。
もっとも基本的なかまえだが、これがバリ舞踊のすべてを支配し、できていないとまったくさまにならない。そして、この基礎である姿勢が、なかなか決まらないのだ。見かねた先生が、両腕を背中から羽交い締めにした。
次は足だ。
直立不動の姿勢から、かかとをつけたまま、つま先を180度に開く。両足が一直線になるようにするのだ。次に、その状態から両足を肩幅よりやや広めに開く。そして、重心を中腰になるまでおろしていく。その時、膝もつま先と同じように180度近く開くようにする。この姿勢は、膝がねじれてかなり痛い。痛いのを我慢して開いてゆくと、今度は上体が前のめになったりうしろにいったりと、ふらふらしてバランスがとれない。わたしは、膝のねじれを少しゆるめぎみにして、かろうじて立った。
ワヤン先生が、アガムに中腰の姿勢で前に進むようにと指示した。
わたしは、前には進んだ。どう見ても、カエルが相撲のつっぱりをしているとしか思えない滑稽な格好だ。これが、感動したアノムの踊りと同じものとは、まったく想像のできないぶざまな姿だ。
途中、15分間の休憩があった。インドネシア語も英語も満足に話せないわたしは、ワヤン先生と雑談もできない。先生は、ただひたすら練習を繰り返した。
練習は休憩を挟んで2時間。練習初日は、ほとんど、カエルのつっぱりで終わった。
ワヤン先生は、「それでは」とでも言うように右手をあげて闇の中へ消えていった。闇の奥にワヤン先生の住まいがあるのだろう。ワヤン先生の住まいと思われる部屋の壁に、クリシュナの肖像画が豆電球の明かりに照らし出されていた。
Tシャツは、絞ることができるほど汗でびっしょりだ。今まであまり使うことのなかった肩と膝の筋が引っ張られて、身体中が筋肉痛になっている。
友人も「お疲れさま」と言って闇の中へ消えていった。
わたしは彼女の背中に向かって「有り難うございました」とお礼を言った。


練習2日目は、踊りの振付けにはいった。
練習は、ワヤン先生の踊るのをうしろについてマネるのだ。
筋肉痛の残る身体に、自ら鞭を打ってワヤン先生の振りをマネる。不思議なことに、筋肉痛は踊っているうちにほぐれてゆく。
ワヤン先生は、インドネシア語でサトゥ(1)ドゥア(2)ティガ(3)ウンパッ(4)と拍子を数えていく。踊りは8拍子で、このあと、リマ(5)ナム(6)トゥジュ(7)ドゥラパン(8)と続いていく。
恥ずかしい話だが、わたしは滞在3年にもなって、まだリマからの数をしっかりと覚えていない。かといってサトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッ、ご、ろく、しち、はち、と数えるわけにもいかない。しかたがないので、はじめから、いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、と口の中で日本語で数えていく。
ところが、バリ舞踊に日本語の数え方が合わないのか、どうも調子が合わない。リマから数えられないのを承知で、サトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッとワヤン先生について数える。が、そのあとが続かない。ウンパッのあとが、ナムになったりトゥジュになってしまうのだ。
語呂が好きで、なまじドゥラパンだけが言えてしまうから、なお始末が悪い。拍子足らずのドゥラパンで、寸足らずの踊りになってしまう。
数を数えるのに気を取られて、踊りが覚えられない。
取り合えず、ドゥラパンまでの数を徹底的に覚えようと心に決めて、2日目の練習を終えた。


通いはじめて3日目のこと。練習場の床が気になりだした。
床はコンクリートの打ちっ放しで、表面が紙ヤスリのようにザラザラだ。振付けで片足立ちして1回転するところがある。軟弱に育ったわたしの足の裏は、たちまちのうちに笹むけになってしまった。素足の生活の長い彼らの足の裏は強く、こんな紙ヤスリのような床でもへいちゃらだ。
笹むけをかばうようにして練習するわたしを見かねたのか、つぎの練習日には赤いカーペットが床に敷かれていた。残念なことにカーペットは小さくて、肝心のまわる場面ではすでにはみ出してしまう。痛さを我慢しているうちに5日目には笹むけは治り、皮が厚くなっていた。
普通の指導方法は、振付けを教え終わると先生は椅子に坐って指導するらしい。そして、補充的に踊ってみせるのだ、と友人は教えてくれた。わたしのような物覚えの悪い生徒の場合、先生はいつまでたっても全曲踊らなくてはならない。それではもうしわけない、と、わたしは宿に帰り復習することにした。しかし、カセット・テープをまわすが、出だしから思い出せない。
ひととおり振付けを教わった6日目に、床はタイル張りになっていた。わたしのためにしてくれたわけではないと思うが、ありがたい配慮だ。
タイルの床はつるつる滑り、面白いほどよくまわる。2回まわりも可能なほどだ。といってもモダン・バレーじゃあるまいし、2回まわりをする必要もないのだが。
習いはじめて1週間近くなるというのに、まったく振付けを覚えていない。ワヤン先生のうしろについて踊っている時はよいのだが、いざひとりで踊るとなるとまったく覚えていないのだ。
物覚えの悪いのは、インドネシア語の数を数えられないことでよくわかっている。しかし、それは語学力のことで、踊りは別ものだと思っていた。ところが、踊りも覚えられないとなると、これはもう頭が悪いのを証明したようなものだ。自分の馬鹿さが嫌になる。
ワヤン先生にもうしわけないのと恥ずかしさのダブル・パンチで、登校拒否ならず練習拒否したい暗い気分だ。


足かせをはめられたような重い足を引きずって出かけた、練習7日目。
「今日は、ひとりで踊ってみてください」
ワヤン先生は、右眼を痙攣させながらつぶやくように言った。
この言葉に愕然としたわたしは、怯えるように身体が硬直してしまった。いきなりそんなことを言われても。ひょっとするとワヤン先生は、覚えの悪いわたしに腹を立てているのではないだろうか。何か言わなくてはと焦るのだが、口をパクパクさせるだけで、まったく言葉が出てこない。
わたしの動揺を知ってか知らずか、ワヤン先生の人差し指はしなやかに動き、テープ・デッキのボタンを無慈悲にも叩いた。死んでも絶対しないと誓ったバンジー・ジャンプで、心の準備もないまま、背中を無理矢理押されたような思いがけない展開だ。
スピーカーからバリス・トゥンガルの曲が流れ出した。
大好きな曲も、聴き手のおかれた状況によっては、人を脅かす道具になるのをはじめて知った。日頃は困る停電だが、この時ほど、停電になってくれと願ったことはない。いっそのこと、熱でも出して倒れてしまいたいとも思った。
曲はイントロが終わり、踊りのパートにはいった。
わたしは、アガムの姿勢から。重心をおろしていった。
・・・踊っている。
・・・わたしは踊っている。
・・・なんで・・・なんで・・・なんと踊っているではないか。
なんと、覚えている。これは奇跡だ。突然、踊れるようになっている。
すっかり自信を無くし、何度も習うのを止めようと思った。けれど、もう大丈夫だ。身体で覚えたのだから。一曲踊り終えた。快い疲れが体を包んだ。満足感で感動している。
しかし、やっと振付けを覚えただけのことだ。巧く踊るには、あと何年もかかるだろう。アノムの踊りの素晴らしさを、今、つくづく痛感させられた。
かなりあとになってからアノムに訊いたところによると、獅子舞のように前とうしろにひとりづつ入って演じるバロン・ケケは、重くて体力は使うが、疲れるという点に関して言えば、バリス・トゥンガルのほうが疲れるのだと言う。
アノムでさえ、疲れるというバリス・トゥンガル。これは、かなり基礎体力がなくては踊れない踊りのようだ。わたしの踊りに安定感がないのは、テクニック以前に体力が不足しているからだろう。
このあと、ワヤン先生の練習場には数回かよった。ところが、天性の怠け癖が顔を出て、足が遠のき、しばらくして練習は自然消滅してしまった。


                  


パダンテガル村の南隣に、プンゴセカン村がある。日本的な花鳥風月スタイルの絵描きが多い村としてガイドブックに紹介されている村だ。ウブドの中心から3キロほどしか離れていないが村だが、訪れる旅行者は少ない。宿は、ホーム・ステイが1軒あるだけ。
その唯一のホーム・ステイに、日本人女性が長期滞在していた。東欧旅行のあとバリに立ち寄り、バリ絵画を習っている。はじめて会った時に「ウブドはポーランドのプラハより物価が高いので住みにくい」といきなりぼやかれた。ウブドのことをけなされるのが嫌いなわたしにとっては、あまり会いたくない人物だ。
その彼女が、ひょこっとわたしの宿を訪ねて来た。会いたくない人物ではあるが、ウブドの日本人長期滞在者は10数人ほどで、狭い村のこと滞在者同士の交流はおのずと密になっていた。
プンゴセカン村での生活を近況報告に来た彼女のうしろに、小柄で華奢な少年の姿が見えた。彼女が絵を習っている先生の長男で、グスティ・コンピアンだと紹介された。少年だと思ったが、歳を聞くと20歳だと答えた。もう立派な青年だ。
彼女たちが帰ったあと、その時、遊びにきていた友人女性が「可愛い彼氏をつれて、羨ましい」としきりと悔しがっていた。確かに、笑顔の清々しい好青年だった。
その後、コンピアンは、わたしの宿をたびたび訪ねるようになった。
親しくなってゆくうちに、コンピアンが踊り手であることを知った。
数ヶ月がたったある日、これまで忘れていた踊りのことが浮かんだ。コンピアンなら友達感覚で踊りが習えるかもしれない。気弱なわたしは、厳格な先生より楽しい雰囲気で習うことのできる先生を探していたのかもしれない。折角、覚えた踊りだ、コンピアンの力を借りて、奉納舞踊に向けて初志貫徹してみようという希望が沸いてきた。
もう一度頑張ってみようと、コンピアンから踊りを習うことにした。習う踊りは、もちろんバリス・トゥンガルだ。
ワヤン先生のところへ行かなくなって、6ヶ月が過ぎていた。
コンピアンを紹介してくれた彼女は、あのあと2ヶ月ほど滞在してバリを離れた。どうやらバリが肌に合わなかったようだ。彼女とわたしも肌が合わなかったが、コンピアンを紹介してくれことには感謝している。


コンピアンの練習は、ワヤン先生よりも厳しかった。
疲れてさがってくる肘や前かがみになる背中に、愛の鉄拳が情け容赦なく飛んでくる。アガムの姿勢を覚えるのに、両腕と背中の間に竹棒が通される。中腰の姿勢は、ワヤン先生よりさらに低く、両腿が床と水平になるまでさげる。壁に向かい10センチほど壁から身体を離して中腰になり、膝がスムーズに開くための練習をする。コンピアンは、両腿の上に人に乗ってもらい、体力づくりをしたという。それを聞いて、わたしはマンディ(水浴び)時に、中腰の姿勢をして体力をつくった。
コンピアンのうしろについて習う時は、しばしば、わたしは手を抜いた。足も肩も抜かないと、2時間の練習は耐えられない。疲れた時はギブアップ宣言をして、ティー・タイムの小休止をとってもらう。
小休止はテラスに座りこみ、冷めた甘い紅茶を飲む。どうやらどこの踊りの先生も、生徒には紅茶を出しているようだ。日本でのわたしは、汗をかいたあとに咽を潤す飲み物は冷えたビールと決まっていた。ビールがなければ冷たい水でもかまわないが、ここでは出てこない。ビールが不謹慎な飲み物だとか、バリ人が冷たい飲み物が嫌いだとか、コンピアンの家がケチだというわけではない。バリの一般家庭は冷蔵庫が普及していないのが現状で、冷えた飲み物が出せないのだ。
はじめのうち、口の中がねちゃねちゃとして飲めなかった甘い紅茶も今では慣れ、汗をかいたあとの紅茶も格別だ、なんて思うようになっていた。
わたしは、タバコに火をつけた。
コンピアンから、バリの芸能について、のんびりと聞きながらの休憩だ。
疲れが取れると、わたしの「よし!」の復活宣言で練習再開だ。
こんな風にして、わたしの練習は、わたしの体調に合わせてもらっている。もちろん、練習日もわたしの予定に合わせてもらう。こんなわがままを許してくれる先生は、ほかにいないだろう。
わがままを聞いてくれるお礼として、後日、練習用の大きな鏡をプレゼントした。おかげで、先生のうしろにいてもわたしの姿が鏡に写ってしまい、手が抜けなくなってしまった。
2ヶ月もかよった頃だろうか、一向に上達しない踊りに、わたしは嫌気がさしてきた。
そして、重要なことに気がついた。バリス・トゥンガルは、踊り手の顔がまる見えなのだ。顔にはまったく自信はない。メーキャップを施すが、化粧をした顔はもっと自信がない。そんな自信のない顔を人前にさらして踊るなんて、考えただけでも穴があったら入りたい心境だ。
バリス・トゥンガルは、アノムのような力強い丸顔系がよく似合う。わたしのような面細は、もうひとつ似合わない。どことなく言い訳めいた考えだが、このことに早く気づいて、バリス・トゥンガルを習うのあきらめるべきだった。かと言って、奉納舞踊の計画はあきらめきれない。ひとつくらい、わたしに合う踊りがあるはずだ。わたしは、あきらめられずにコンピアンに訊ねた。
「バリス・トゥンガルを踊るのは、わたしには無理だ。ほかに、わたしに合う踊りはないだろうか?」
相談した末、コンピアンは、自分の得意な踊りであるジャウッはどうだ、と言ってきた。


 ジャウッ
ジャウッ


ジャウッは、祭りのように賑やかな飾りのついた冠をかぶり、長い爪のついた白い手袋をはめ、始終、指を震わせて踊る。ダイナミックでスピード感があり、わたしも好きな踊りだ。お面をつけるので、顔が見えないのもありがたい。素直に、ジャウッを習うことに決めた。
男踊りは足運びのパターンが似ていて、バリス・トゥンガルを習ったわたしには、ジャウッは覚えやすい。ところが、ジャウッにはアドリブがたくさんがあり、踊ってみるとやはり難しい。どんな踊りも、けっして簡単にできるものではないのだ。自分の浅はかさを思い知らされる。
早くも挫折。
もう、踊りを習うことをあきらめることにした。同時に、奉納舞踊もあきらめざるをえなくなった。
情けない話だが、ジャウッを覚えたころには、身体で覚えたはずのバリス・トゥンガルの振付けも、切れ切れにしか思い出せなくなっていた。
わたしの頭は、嫌なことを脳の片隅に追いやることができる便利な構造になっている。しかし、物覚えのほうは、ひとつ覚えると前のひとつをトコロテン式に忘れてしまうらしい。困ったものだ。


                   


お面を蒐集している友人に誘われて、彫刻の村として名高いマス村の1件の店に立ち寄った。
店は住居に隣接していた。広い店内の壁には、お面がギャラリーのように余裕をもたせて飾られてある。職人がひとり、床に坐り込み、木彫りに取り組んでいた。見事なナイフさばきで、お面が仕上がってゆく。膝元には、長さ20センチほどの細い鉄の棒や板が20〜30本、並んでいる。さまざまな刃先をした彫刻刀とナイフだ。どれも、手入れがよくゆきとどき、刃先が光っている。
友人とわたしは、壁に掛かったお面を鑑賞していった。
バリ芸能の仮面劇に使われお面にまじって、モダンなデザインのお面がいくつかある。モダンなお面は、土産物として観光客に売られるものだろう。この比率が、モダンのお面のほうが多くなった時、バリの伝統芸能に危険信号が点滅した時かもしれない。
母屋に続くと思われる扉から、主人らしき男性が現れた。真っ直ぐに、友人に近づいてきた。ふたりは顔見知りのようで、握手を交わし再会の喜びを伝え合っている。
主人は、壁に掛かっているお面のひとつを手に取ると名前と役柄を説明し、おもむろに踊り出した。
お面の彫刻家は、優秀なお面の踊り手であることが多い。主人が踊り出すと、突如としてお面に表情が現れる。こんなパフォーマンス付きの営業をされては、お客も思わず欲しくなってしまうだろう。
主人は、商売熱心で、なおかつ商売上手だ。次から次へとお面を手に取っては、説明し、踊る。 友人が目当てのお面を見つけたようで、主人と値段交渉をはじめた。
わたしは主人の説明のなかった、隅に追いやられるように掛かっているお面のひとつに、先ほどから気を取られていた。中国人の顔なのか、西洋人の顔なのか、どちらとも見える不思議なお面だ。なまずヒゲが描かれた、そのお面は、わずかに微笑んでいるようにも見える。はじめて見る、名前も知らない、そのお面が気に入り買うことにした。
一般的にバリでは、お面のことをタップル(バリ語)と言い、仮面舞踊と、それに使われるお面のことはトペン(インドネシア語)と呼んでいる、と主人は教えてくれた。


コンピアンに、先日マス村で買ったお面を見せた。彼は手に取ると、掌のうえで左右に動かした。
「これはムニエールというお面で、ユーモラスな振付けの踊りだ。でも、あまり人気がないので、バリ人でも、よほど踊りに詳しい人でない限り知らな踊りだ」と言って、お面をわたしに返した。


  トペン・ムニエール
トペン・ムニエール


それを聞いて、わたしは考えた。バリ人でも知らないということは、見本がないのということだ。それなら、わたしが踊ったとしても、誰も上手か下手か比較ができないだろう。3度目の正直で踊りを習うとすれば、このムニエールが狙い目かもしれない。と、わたしは密かにほくそ笑んだ。
よし、この踊りを、わたしの18番だと言われるまで追求してみよう。
わたしは堅い決意で「習ってみたい」とコンピアンに伝えた。
数日して、コンピアンは、わたしのためにムニエールの振付けを友人から教えてもらってきた。
トペン・ムニエールを習うことによって、わたしの奉納舞踊参加の計画は再開された。
トペンの種類は大別すると、クラスとマニスの2種類ある。クラスの演奏は、テンポが早く激しい。踊りは、外部のエナジーを集め体内で熟成させてから、爆発させるかのように力強く踊る。マニスの演奏は、ゆっくりで柔らかい。踊りは、ためが重要なポイントで、内面にあるエネジーを絞りだしてゆくように優しく踊る。トペン・ムニエールは、マニスの部類に入らしい。
ムニエールを習いだしてから、それまであまり興味のなかったトペン舞踊を、よく観るようになった。そして、もっとも好きになった踊り手は、熟練の芸を観せてくれるバトゥブラン村のスウェチャ氏だ。


習いはじめた頃、スウェチャ氏が奉納舞踊に出演すると聞きつけてははせ参じ、彼の踊りを脳裡に焼きつけんばかりに凝視した。
舞台役者の日本人女性が、スウェチャ氏が舞台に現れた瞬間
「あの人誰! ただ者じゃないね。彼、舞台の空気を変えてしまったわ」と驚愕したほどだ。威風堂々という言葉がピッタリする、彼の踊りだ。無駄が削ぎ落とされた芸は、動きが少ないにもかかわらずパワーはみなぎっている。
わたしは横着にも、この少ない動きだけを真似しようと試みた。しかし、内容の伴わないマネは薄っぺらなものにしかならなかった。
表情の少ない人のことを、よく仮面のような奴だと言う。もちろん、仮面そのものが表情を変えることはない。しかし、踊り手の技量によっては、表情が変わったように観えるのだ
。 スウェチャ氏のトペン舞踊は、仮面が生き生きとし性格を持つ。そんな踊りを何度か観ているうちに、わたしも観ている人に表情が伝わるような踊りを踊ってみたいという希望を持ちはじめた。
あとになって知ったが、スウェチャ氏とわたしは同じ歳だった。年齢だけは、わたしもベテランの域に達しているわけだ。バリ舞踊を習っている外国人のほとんどが、若い女性だ。男性はまれで、わたしのようなおじさんは特に珍しいケースだった。
力強い演奏のクラスの部類に入るトペン・パテとトペン・ゴンブランは、見よう見マネで覚えた。パテ(大臣)は、勇ましくも気品のあるキャラクター。ゴンブランは、がさつで間抜けた庶民のキャラクターだ。


  トペン・パテ   トペン・ゴンブラン
トペン・パテトペン・ゴンブラン


バリス・トゥンガルの振付けは忘れてしまったが、不思議なことにトペンの振付けは覚えている。そして、どんどんトペン舞踊が好きになってゆく。
『好きこそ物の上手なれ』なんて忘れかけていた諺を思い出した。
トペン舞踊は、必ずと言ってよいほどオダランで奉納される。したがって、たいていどの村のガムラン・グループもトペンの曲は演奏できる。ということは、バリ島中、どの村へ行っても、打ち合わせなしで奉納できるというわけだ。村人が快く受けいれてくれるかが問題だが。
トペン舞踊の衣裳が入ったバッグを肩に、行きずりに出合った村の寺院祭礼に飛び入りで奉納舞踊したい。夢はいつのまにか、とんでもない無鉄砲な考えへと膨張していった。


                  


以外に早く、わたしの初奉納舞踊のチャンスは訪れた。
それは、トペン・ムニエール振り付けを覚えたばかりの頃だ。
わたしがウブドを訪れてはじめて知り合ったバリ人の友人ワヤン・カルタが、彼の村の奉納舞踊に誘ってくれた。ウブドの北にあるテガランタン村の寺院祭礼だった。
楽屋は、小学校の教室。
わたしの他に、日本人の女性6人が歓迎の踊りを奉納する。彼女たちもはじめての舞台だった。
わたしは出番を待つ間、初舞台にしては意外に落ち着いていた。


出番前
出番前


日本人女性の歓迎の踊りは、滞りなく終わったようだ。
ワヤン・カルタの娘は、わたしのあとにチャンドラワイ(極楽鳥)を踊る。
いくつかの踊りが終わり、いよいよわたしの出番になった。
わたしは、幕のうしろに用意された椅子に座った。
奉納舞踊、初お披露目はトペン・ムニエールだ。
幕の横にいた人が、演奏者に合図を送ったようだ。
ガムランの音が、洪水のように溢れ出した。あまり自信はないが、わたしの踊る曲なのだろう。旋律は似ているが、音色が違うように思う。
わたしは、幕を少しづつ開けていった。練習の時にも実際に幕を使っているので、出足は順調だった。これならきっと巧くゆくぞ、と内心ほっとした。
幕を開け終わると、つぎは演奏が激しくなり、幕を左右に投げつけるように開ける動作に変わる。わたしは演奏が変わるのを待った。
ところが、演奏はいっこうに変わらない。わたしは本番で失敗しないために、カセット・テープをワヤン・カルタに渡し、同じ曲が演奏できるか確認している。
一体、何をしてるんだという思いで太鼓奏者を見た。太鼓奏者は、わたしを凝視したまま。演奏は先に進まない。
これでは、エンジンはかかっていてもギヤがまったく入らずに、立ち往生する車だ。このままでは、いつまでたっても前に進まない。収拾のつかないこの事態は、どうなってしまうのだろう。予想できないことへの、不安が襲ってきた。
この場をなんとかしてくれ、と拝まんばかりに太鼓奏者を見つめる。
どのくらい、にらめっこをしていたのだろう。やっと、太鼓が激しい音を叩き出し、聴き覚えのある演奏になった。それにしても、なぜこんなことに・・・。疑問が渦巻く思いの中で、踊りを続けた。
太鼓奏者の隣に座るコンピアンが、太鼓奏者を睨んでいた。コンピアンも、やはり怒っているのだ。
踊りは、まったく浮き足だったものとなってしまった。この光景を観衆は、どんな風に見ていたのだろう。聞くのも恐くて、踊ったあとは逃げるようして小学校の教室に戻った。衣裳を脱ぎながら「こんな恥をかくなら、もう2度と踊らない」と、腹立たしい気分でひとりつぶやいていた。


次の日、コンピアンの家を訪ねた。
「フレーズを変えたい時は、踊り手が演奏者に合図を出すんだよ」。この時、はじめてコンピアンが教えてくれた。
ギヤを入れるのは、踊り手の方だ。どうりで、演奏が進まないはずだ。コンピアンが太鼓奏者を睨んでいたのは、わたしの代わりに合図を送っていてくれたのだ。
日頃は、カセット・テープで練習している。てっきり、テープのように演奏に合わせて踊ればよいものと思っていた。いつまでたっても合図を送ってこない踊り手に、太鼓奏者もさぞ面喰らっただろう。怒りを通り越して、呆れ返っていたことだろう。そんなことも知らずに、舞台に上がったことが、今さらながら恥ずかしい。
コンピアンの助けを得て、何とか踊り終えることができたが、もしあの時、コンピアンがそばにいなかったら、あのまま延々とにらめっこをしていたのだろうか。考えただけで恐ろしくなる。出番前の落ち着きは、知らぬが仏だったのだ。
わたしの初舞台は、こんなふうに心臓が凍結する思いだった。


2度目の舞台は、スマラ・ラティのアノムから誘われて奉納した。
「2度と踊らない」と誓ったものの、その舌の根が乾かないうちに、2度目の舞台を踏んでいた。ショックからの立ち直りが早いのが、わたしの取り柄でもある。
この頃、アノムの奥さんのアユから踊りを習っている日本人女性がたくさんいた。わたしは、よくアノムの家に彼女たちの練習を見学にいっていた。そんなことから、アノムとは顔見知りになっていた。
アノムからはじめて奉納舞踊の誘いがあったのは、テガランタン村の初舞台で大失敗したショックも癒されていない頃だった。
「まだ、巧く踊れないので、もうしばらく待ってほしい」わたしは、断った。
するとアノムは「だったら、いつ巧くなるというんだイトサン(バリ人の友人たちはイトーと伸ばさず、こう発音する)。どんなことでも、明日は今よりも成長しているはずだよ。まだまだ未熟だと思うから、人間は努力して成長していくもんだ。踊りだって、これで終わりということはないはずだ。わたしは巧くなったと思った時、その人の成長は止まってしまうもんだよ」
「でも、人前で踊るには、もう少し練習してからのほうが・・・」
「だから、イトサンは今できる限りの踊りをすればいいんだよ。それもカセット・テープじゃなくて、本物のガムラン演奏で踊ることが一番勉強になるんだ」
そうだ、今できる限りのことを精一杯すればいいんだ。アノムの含蓄のある言葉に納得し踊ることになった。
奉納舞踊は、神々に捧げるもの。他人に、巧くなったことを見せるものではない。バリの神々は、美しいものが好きだと聞いている。熱心に打ちこんでいる姿も、美しいと認めてくれるはず。それが、本人にとっても心地良いものなら、なおさら良いことだ。未熟な踊りを見せられる観衆は迷惑だろうが、踊らせてもらうことにした。
この時の寺院はグヌン・サリ寺院だった。グヌン・サリ寺院は、芸能の魂(タクス)が授かれるという言い伝えがある。きっとアノムは、そんな配慮で誘ってくれたのだろう。
この時は、スマラ・ラティの演奏者に助けられて、自分の技量以上に巧く踊ることができた(と自己満足している)。



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