ウブド・サレン王宮の正面門(ゲルン・コリ)
バリでプリ(puri)と言えば、ラジャ(raja=王)の住む【王宮】のことである。
王制が無くなった現在では、名称として残っている。
王制はクルンクン王国がオランダに降伏した1908年で消滅したと考えてよい。
そのあと王は、オランダの間接統治下で現地人首長として残る。
インドネシア語で王宮は、ほかにクラトン=keraton(ジャワ語源)、イスタナ=istana(ペルシャ語源)がある。プリは、サンスクリット語源だ。
16世紀、ダラム・バトゥレンゴン王が君臨するゲルゲル王朝時代、高僧ニラルタが登場し、王権と祭司のパートナーシップを確立した。
ニラルタは、この時、はっきりとした4つの階層(インドネシア語でカスタ=kasta)を導入した。
王族(クシャトリア)、僧(ブラフマ)、貴族(ウエシャ)、平民(スドラ)の4つだ。カスタによって、屋敷の呼び名もそれぞれ違う。
王族であるクシャトリア階層の屋敷はプリと呼ばれ、そのほか、ブラフマ階層の屋敷はグリオ(gria)、ウエシャ階層の屋敷はジェロ(jero)、スドラ階層の屋敷はウマ(umh。jumahとも言われる)となる。
現在、カスタも称号とし残っているだけだ。
王族、高位貴族の屋敷を総してプリと呼ぶわけだが、私の見解では、プリと呼べるのは、バリ王国時代のカランガッサム、クルンクン、バンリ、ブレレン、ギャニアール、バドゥン、タバナン、ジンブラナの8つの王国の王宮だけとしたい。
これらはプリ・アグンと呼ぶ。
そして王家の傍系の王族、例えば、ギャニアールでは、王家の傍系であるウブド、プリアタン、マス、ペジェン、スカワティ、バトゥブランなども、プリ・アグンと呼ばれている。
これらプリ・アグンから、他の王族の屋敷を呼ぶ場合は、ウエシャ階層と同様にジェロと呼ぶ。
例えば、プリアタン村のアナック・アグン・マンダラ翁の屋敷は、庶民からはプリ・カレランと呼ばれるが、プリ・アグン側からはジェロ・カレランと呼ばれている。
ジェロは、トゥリワンサ(Tri wansa)の(3つの上位カスタ・ブラフマ、クシャトリア、ウエシャ)総称で内部の意味。
それに対してスドラは、外部者と言う意味のジャボと呼ばれる。
称号を持つトゥリワンサは、15世紀末、イスラム勢力の圧迫から逃れてきたジャワのマジャパイト王朝の末裔たちと言われている。
かってに逃げてきて侵略し、それまでいたバリ人をジャボ(外部者)呼ばわりとは理不尽な差別ではないか。
現在ではトゥリワンサにも貧富の差があり、プリやジェロがジャボ(スドラ)の屋敷より見劣りすることもある。
プリの構造についてふれてみよう。
プリには、コリ・アグン(kori agung)と呼ばれる正面門がある。
コリ・アグンは、普段、中央の扉は使わず、左右にある小さな門を利用する。
コリ・アグンの前には、アンチャッサジと呼ばれる芸能の公演ができる程の庭があり、ここにガムランの建物(バレ・ゴン)もある。
プリ以外の屋敷の正面門は、アンクル・アンクル(angkul-angkul)と呼ばれる。
一般の屋敷は、道からすぐにアンクル・アンクルがあり、プリのように、前に庭を造ってはいけないことになっている。
ウブド・サレン王宮のコリ・アグン
前庭は塀で囲われていて、ゲルン・コリ(gelung-kori=paduraksa)と呼ばれる門がある。
角には、王宮の境界を示すバレ・パトッ(ク)(bale patok)と呼ばれる休息場がある。
バレ・パトッ(ク)は、王のあずまや式の物見台となっており、夕涼みをしたり、市場の盛況を見て経済を推測したりした。
時には、若い娘に眼が止まり、側室にすることもあると聞いた。
ウブド・サレン王宮のバレ・パトッ(ク)
バリ全体から見ると、プリのある村落は少ない。
通常、プリは村落の中央に位置する。
王宮の位置するところは、ビンギン大樹のある四つ角の一画で、他の一画には、市場が立ち、他の角は空き地になっていて祭礼時に活用される。
現在は、役場や学校の公共施設が建っていることが多い。
ブンギン大樹は、村落ランドマークの役目をしている。
大樹に上にはクルクルが設置され、村民の招集時に叩かれた。
バリのプリは、敵を防ぐための城としての役目を持っていない。
古くは、高さ4メートルの赤煉瓦の塀を擁していた王宮もあったが、戦闘用には作られていない。
戦国時代は、きっとのんびりした戦いだったのだろう。
大きな戦争もなく、バリは平穏のうちに歴史を重ねているようだ。
(2009/7/18)