「極楽通信・UBUD」



高僧ニラルタ(Nirartha)





バリのヒンドゥー教が現在みられるような形になったのは、幾人かの僧侶の功績と長い年月がかかっていると思われる。
8世紀初頭の高僧ルシ・マルカンディア、11世紀初頭の高僧クトゥラン、そして16世紀半ばに活躍した東ジャワの僧侶・ニラルタの名が、歴史上登場する。
ここでは、ダンヒャン・ニラルタ(Danghyang Nirartha)を紹介しよう。
伝説では、ニラルタは、かぼちゃに乗って瞑想しながら海を渡って来たという話。
[バリ島西部の港(Perancak=プランチャッ)に上陸。ランブットシウィ(髪の毛に祈りを捧げる)寺院と関わりがありそうだ]
しかし、ニラルタは単なる伝説上の人物ではない。
ワトゥレンゴン王の治世中であった1546年頃に、家族と共のバリに渡った。
(オランダがバリ島を発見したのは、1597年のこと)
そして、バリの村々に広まっていた疫病を、聖水の霊力によって治したといわれている。


マジャパイトの末裔がバリに移り住み、ゲルゲル王朝が興されてしばらくして政権をダラム・バトゥレンゴン王が握ることになった。
ニラルタは、この王のもとに仕え、王権と祭司のパートナーシップの中でいくつかの功績を残した。
ニラルタが補佐した、この時代がゲルゲル王朝の最盛期で、ジャワ・ヒンドゥーの成熟した宗教、哲学、芸能は、バリ古来の文化と融合して独特の文化を開花していく。
トペン(仮面)劇、ガンブー劇、ワヤン・クリッ(影絵芝居)、宮廷音楽(ガムラン)など、王を褒め称える芸能を創作し、王の権威を見せつけた。
緻密な彫刻・絵画が、宮廷に奉納される。
ニラルタ自身、優秀な演じて手で、民衆の心を掴んでいった。
彼は、古代ジャワ語で書かれたインド起源の韻律を用いたカカウィンと言われる複雑な詠唱歌を、神秘的に歌いあげた。
民衆は彼の唄に魅了され、信頼していく。それは信仰心にも訴えるものであったようだ。
雅やかな宮廷音楽や舞踊は、人々の中に、欠くことのできない宗教上の儀式として民衆の中に溶け込んでいった。
彼の解く文学や芸能は宗教と密接に関係し、また、政治の中心である王朝にも影響を与えた。
その方法には、叙事詩ラーマヤナが語られた。
高位祭司プダンダが儀礼の施行を通じて、いかに王に仕えるべきかという心得が説かれている。
王様の側近であるニラルタは政策にたけた人物だったようで、政治と宗教の調和をはかり、王朝に威厳を保たせるために宗教儀礼をみごとに統合させた。
多神の崇拝や偶像崇拝の習慣を巧みに王朝に対する畏敬とまぜあわせ、民を迷信から目覚めさせないように支配していった。
民を圧政するために、宗教を充実させた。
民には、これはこれまでのサコ暦(1年を365日)から、ウク暦(=ジャワ・バリ暦/1年を210日)を祭礼を発布し、儀礼を奨励し日々多忙にした。
王宮、寺院の奉仕活動(Ngayah=ンガヤ)を設け、火葬儀礼では全財産を掛けるほど美徳とする習慣を作り、個人と儀礼に金銭を掛けることを奨励し財を残すことのできないようにした。

バリに現在あるようなカーストは、ニラルタによって、インド・ヒンドゥー教のカースト制度を模して作られたといわれている。
ニラルタはシワ派の僧侶で、自らの親族集団を高位の階層ブラフマナとした。
ニラルタが来るまでのシワ派の僧侶たちは、ただ漠然とした祭司集団の一員にすぎなかったものと思われる。
その多くは、平民の地位に甘んじたままその役割を担っていた。

ニラルタ以前のバリは、ヒンドゥー教と仏教、それにアミニズムの混合した宗教を崇めていた。
ブッダ派とヒンドゥー神のインドラ派を崇拝する祭司、そして親族集団の祭司(senggu)がいた。
ニラルタによるカースト制度の導入によって、それまで存在していた祭司たちは低カーストに押しやられていった。
ニラルタはブラフマナ階層の祭司プダンダの祖となり、宮廷のための儀礼をつかさどることになる。
先住のバリ島民をジャボ=Jabe(スドラ)とし、マジャパヒトの末裔たちは称号を持つ3つの階層(トリワンサ)とし、政治をあたらせた。
パドマサナと呼ばれる祠や社を寺院の境内に建てることを広め、「聖水による清め」の儀礼を創始し、「聖水の宗教」とまで呼ばれるバリ・ヒンドゥーの基礎を築いた。
聖水なくして、儀式は完結しない。
その聖水を高位階層の祭司プダンダが作ることによって、宗教を掌握していく。
こうして、高位祭司プダンダたちは、王の守護者となっていった。
ニラルタ以降も、シワ派の祭司は高位祭司プダンダとして存続している。
少数だがブッダ派の祭司も高位祭司プダンダとして存在する。
(★注:バリのヒンドゥーには、シワ派とブッダ派とスドラ階層が崇拝しているバジャンガ=bujanga派の3つの宗派があり、それは「Tri Sdaka」と呼ばれている。)
回顧的な記述によれば、ブッダ派の祭司の祖先はニラルタの甥であり、つまり高位祭司プダンダの構成すべてがニラルタ一族のなかに収まることになる。
シワ派のプダンダになれるのは、ニラルタの子孫のみ。
イダ・クムヌ(Ida Kamenuh) 、イダ・マヌアバ(Ida Manuaba)、イダ・カニンテン(Ida Kaninten)、イダ・マス(Ida Mas)、イダ・パタパン(Ida Patapan)がそれにあたる。
クムヌ、マヌアバ、カニンタテン、マス、パタパンは、現在それぞれ地名になっている。
また、ブッダ派のプダンダになるのも、ニラルタの甥の子孫に限られている。

(★追記:近年、ブラフマナ以外の階層に、プダンダが誕生している。王族階層のクシャトリア(kesatria)にはイダ・プダンダ・ベガワン(begawan)が、貴族階層のウエシャ(wasia)にはイダ・プダンダ・スリウンプー(sriempu)が、平民階層とされているスドラ(sudra=jabo)にはイダ・プダンダ・スング(senggu)とイダを名乗って祭祀を執り行っている。)


晩年は、拠点をウブドの南にあるマス村に構え、バリ島中を漫遊したといわれている。
幾つもの寺院を建立した。
もっとも有名な寺院は、タバナン県の海岸、岩だらけの小島の上に建てられたタナ・ロット(Tanah Lot)寺院だ。
ウルワトゥ(Uluwatu)寺院にも、パドマサナと呼ばれる石で造られた神の座を設置した。
(※ウルワトゥ寺院:バリ島最南端の切り立った海岸線の絶壁の端に建つ寺院。
ウルワトゥは、終わりという意味のウルと、石を表すワトゥから成り、石の終わりという意味。
インド洋が打ち寄せる海岸から70メートルの絶壁上に建てられた)
ランブット・シゥイは髪への礼拝という意味を持ち、ランブット・シゥイ寺院にはニラルタの髪が祀られている。
最後には、バリ南部の海岸に建つ、ウルワツ寺院から、瞑想しながら天に昇っていったと伝えられている。
この寺院は、ジャワの僧がはじめてバリに入ってきた場所であるといわれている。


ニラルタが居を構えたといわれるマス村のタマン・プレ寺院には、ニラルタが祀られている。
マス村は現在でも、多くの彼の子孫が住んでいる。
木彫りの村として有名だが、これはニラルタが神のお告げを受け村人に託したことにはじまるらしい。
木彫りは、寺院や王宮の扉や壁を飾るために、また仮面は奉納舞踊のために使われた。
ダンヒャン・ニラルタゆかりの地は、ほかにもたくさんあると思われる。
(覚書:妻と娘はバリ北西部にプラキ寺院(Pura Pulaki)を建立。娘は商売上手だったようで、商売の寺院ムランティン(市場の寺院)の建立に貢献している)


※11世紀初頭の「ウンプー・クトゥラン」について、少し記しておく。
伝説によると、一頭の鹿に乗ってバリにやってきたとされる。
衰退の一途をたどっていたバリの慣習、宗教儀礼などを刷新したジャワ人の賢人。
寺院の建築家でもあった。
メルーと呼ばれる塔を制作した人物。
すでに小さな寺院があったが、いくつかの塔を加えて、より完璧な寺院とした。
(覚書:当時、バリ島にはいくつもの宗派がありいざかいが絶えなかった。クトゥランは宗派の代表を集めて会合を開いた。サムその会場は、アン・ティガ寺院=Pura Samuan Tiga(三つの宗派の集会場の意)として、 ブドゥル(Bedulu)地区に残っている)




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