「極楽通信・UBUD」



7「マンディ(mandi)」





マンディ


1990年頃までのウブドに、ホットシャワー設備のある宿は少なかった。
当時、ウブドを訪れる旅行者は、はじめから、この辺鄙な村にはバスタブもホットシャワーもないものと思っていた。
常夏のバリ島とはいえ、山あいにあるウブドは、夜ともなれば肌寒くなる。
日本の晩秋の気温だ。8月、日本では熱い夏のをすごしている頃、ウブドは特に寒い時期だ。

オダラン(寺院祭礼)の奉納舞踊を鑑賞して深夜に帰宅すると、身体は冷え切ってしまっている。
こんな時の水浴びは、かなり根性がいる。
水槽にたまった冷水を手桶で汲んで身体にかける様相は、サディスティックな寒中ガマン大会の心境だ。
思わず身を引き締め「うっ!」と声を出してしまう。
ホットシャワーが欲しいとつくづく感じるのは、こんな時だ。
もちろん、日本人である私もオダランにでかける前には水浴びはすませているが、外出から帰れば1日の疲れをとるために入浴したい。
これが日本人の習慣だ。
温かい湯が溢れんばかりにはられた湯船にどっぷりつかった光景を夢想しながら、冷水を浴びたものだ。
バリ人の男たちが、一様に引き締まった身体をしている理由がわかるような気がする。

温泉が湧く村の村人は別として、一般的にバリ人は熱い風呂に入る習慣はない。
日本に行ったバリ人が、お世話になった日本人のお宅で風呂をよばれた。
(なぜか日本では、他人の家で風呂を借りる時は「よばれる」という。ご馳走になると同じ意味かな)
湯船から上がったものの、身体はほてり汗が吹き出てくる。
結局彼は、もう一度水浴びをしなおした、という笑える話もある。

水浴びのことを、バリではマンディ(mandi)という。
バリ人は、お祈りの前は必ずマンディする。
これは身を浄めるという目的の沐浴だ。
通常のマンディより、儀礼的な心身浄化の沐浴は、ムルカット(Melukat)という。
バリ語でマンディは、Manjusと言う。
丁寧語は、Mesiraman。
称号を持った階層(カースト)の人が称号を持たない階層にマンディを伝える時にはManjusを使い、逆に称号を持たない階層の人から称号を持った階層にはMesiramanを使う。
一般的にマンディする場所は「Tempat (untuk) mandi」でよいのだが、神々がする浄化の水浴び場所は「Pesiraman」と言われている。
バリ・ヒンドゥー教の浄化儀礼には、ムラスティ(melasti)、ムクル(mukul)などがある。
詳しくは、次の機会に。

※村々にペジー(Beji)寺院と呼ばれる祠がある。
ペジーには湧き水が出ていて、寺院で使われる聖水は、ここから運ばれる。
神々を清めるところでもあるため、壁で囲まれていることが多い。
壁は、生理中の女性を隔離するためだと聞いた。
ペジーは、バリ語の丁寧語で川のことでもある。
バリ語の通常語で川はトゥカド(Tukad)、インドネシア語ではスンガイ(Sungai)だ。

日々のマンディは、習慣として1日に2回だ。
もちろん、汗をかけば何度でもする。
川でマンディ、湧き水でマンディ、海でマンディ、湖でマンディ。
今ではホットシャワーを浴びることも、バスタブにつかることもマンディだ。
炎を浴びるのはマンディ・アピ。
これは、サンヒャンといわれるトランスの儀式で見られる。
「APA?」主催のジャンゲール・ムボルボールがこれだ。
「湯」でも「水」でも「炎」でも、浴びればマンディというわけだ。
ちなみに、マンディ・ウワン(金)というと浴びるほど儲けるという意味になる。

1回目は、朝起きてから。
朝のひと仕事を終えてからの人もいる。
2回目は、夕方だ。
外出している者は外出先ですませるか、日暮れ前にマンディのために帰宅する。
陽のあるうちにマンディをしないと、水が冷たくなってしまうからだ。
夕方になると、村はずれで石鹸の入った小さなプラスチックのバケツを手に、肩にはタオルを引っかけた村人の姿を見かける。
川や湧き水にマンディに行く人々だ。
家には井戸もあり水道も普及しているというのに、彼らは川や湧き水へマンディに行く。
オープンの川マンディの場合、男女は時間をずらすか、少し離れた場所でする。
残念ながら混マンディではない。
それでも充分に、互いが見える位置だ。
「彼女を探すならマンディ場がいい」といったバリ人がいた。
確かにマンディ場なら、化粧でばけた彼女でなく、素顔、素肌の彼女が見えるわけだ。
値踏みされては困るからというわけではないが、壁で仕切られた男女別々のマンディ場もある。
屋外のマンディ場は、友人と語り合う絶好のコミュニケーションの場だ。
女性たちは、洗濯物でいっぱいになった大きなタライを頭にのせてやってくる。
ついでに洗濯だ。
洗濯をしながらピーチク・パーチクと噂話に花を咲かせる。
世界共通の井戸端会議の風情だ。

思わぬところで、マンディ風景に出くわすことがある。
男たちは、すっぽんぽんの丸裸で、前を隠すわけでもなく、あっけらかんと手を振ってくる。
これには、たいていの日本人女性は眼をそむけてしまう。
もっとも、ちょっとお年を召した女性は「記念に1枚」なんて、思わずカメラを向けることもある。
逆もある。
女性たちのマンディに遭遇した。
どうしても、マンディ場の横を通らなければならない。
凝視したい下心をおさえ、視線を遠くを眺めるように外し、知らないふりをして通り過ぎた。
2〜3人の時はよいが、これ以上の人数になると、マンディしている女性のほうに度胸がつき、横を通る男性のほうがからかわれる。
全裸の若い女性たちに「ハロー、どこから来たのオ?」と声を掛けられた時には、どぎまぎした。
まさか声を掛けられるとは思ってもいなかったので、声のほうに思わず顔を向けた。
そこには、ピチピチした健康的な褐色の裸体が横1列に並び、それぞれの娘が自分の肉体を鼓舞するかのように堂々と見せて身体を洗っている。
こんなに堂々と見せられると、逆に、エロチックなことは考えられない。
裸婦デッサンをしていると同じ感覚だ。
ひとことふたこと言葉を交わして、早々ににその場を離れた。

マンディ場はあまり人目につかないところにあるので、旅行者が見つけることは難しい。
バリ人と同じように川マンディをしたい人は、彼らか彼女らのあとをつけていくか、友だちになってつれていってもらうしかないだろう。
そうして見つけた、いくつかのマンディ場のうち、とっておきのスペースを紹介しよう。
モンキー・フォレストのマンディ場だ。
モンキー・フォレストは、名前の通り野生の猿が棲息する森で、ウブドの数少ない観光地のひとつだ。
森は静寂に包まれている。
猿の親子が、時折、眼の前を横切っていく。
マンディ場の入り口には巨樹があるので、これを目印にするとよい。
巨樹は、インドネシア語でブリンギン、バリ語ではビンギンと呼ばれる。ガジュマルの一種でヒンドゥー教の聖木だ。

ブリンギンの向こう側が小さな渓谷になっていて、マンディ場はそこにある。 新しく作られたコンクリートの橋を渡ると、右手5メートルほど行ったところに苔むした祠がある。
祠と川の間にある細い土道を、奥に進んで行くと、岩場が見える。
このあたりがマンディ場だ。
せっかく訪れたのだから、身を浄めることにしよう。
浸食された岩に足をとられそうになりながら、マンディ場に下りる。
大きな赤いくちばしに色鮮やかな青い翼を持つ鳥が、風車をつけた弾丸のように眼の前を滑空していった。
岩の上に服を脱ぎ捨て、せせらぎに身を浸す。
水は、肌に刺さるほど冷たい。
岩間から流れ落ちる湧き水は、さらに冷たくて身が引き締まる。
浮き世から隔離された空間は、瞑想的だ。濃い緑の木々に覆い隠された自然に抱かれて、人間性を回復する癒しのスペースだ。
大きな深呼吸をして、胸いっぱいに自然の空気を吸う。
心も引き締まる。

こんなマンディ体験をしたことがある。
バンリ県の山奥に、友人を訪ねた時のことだ。
「近くに美しい棚田があるから見に行きましょう」と誘われでかけた。
道路脇の林に分け入り5メートルも進むと、いきなり崖の上に立った。
眼下は箱庭のような小さな棚田だ。
棚田の風景の中央にマンディ場があり、人々のマンディする姿が小さく見えた。
マンディ場は、湧き水だと友人は教えてくれた。
マンディ場の近くまで行ってみたく、急な崖を降りはじめた。
10歩も降りないうちに、下から大きなバケツを頭にのせて登ってくる娘の姿が見えた。
娘は3人だった。3人の娘は、右手でバケツのふちを押さえ、背筋をピンと伸ばして一歩一歩足場を踏みしめるようにして崖を登ってくる。
わたしは隅に寄り、彼女たちに道を譲った。
すれ違いざまに見た彼女たちの頭上のバケツには、溢れんばかりに水が入っていた。
男性が持っても重そうな水の量だ。
この水は、飲料水として家に持って帰るのだろう。
大変な重労働だ。
落差50メートルあると思われる崖は、ほとんど垂直に近い。
おまけに道は、崖に片足がかろうじてかかるほどの穴が掘ってあるだけの粗末な階段だ。
わたしは、恐れをなして途中から引き返した。

それでも、Tシャツの下は、しっかり汗をかいている。
わたしは、友人の家でカマル・マンディを借りることにした。
カマル(部屋)といっても屋根はなく、背丈より低い石積みの壁が、コの字型にあるだけの屋外。
内には、素焼きの水瓶がある。素焼きの水瓶は、気化熱で水を冷やす。その中に、椰子の殻のひしゃくがひとつ浮いている。
蛇口が見あたらないところをみると、まだ、水道がひかれていないようだ。
しかし、井戸はあるはずだ。
水瓶の水は、そこから運ばれてきているのだろう。
椰子殻のひしゃくで水をすくい、汗をかいた身体に2度3度と浴びせる。
ほてった身体に冷たい水は爽快な気分だ。

マンディを終えておもてに出ると、中学生くらいの娘が3人立っていた。
会釈をすると、笑顔が返ってきた。
どこかで会った顔だ。
よく見ると、さっき、崖ですれ違った水運びの娘たちだ。
もしかすると、今、わたしがマンディした水は、彼女たちが苦労して運んできた水だったのか。
バケツが3つ、そばに置いてあるところをみると、間違いない。
恐縮して、冷や汗がふきだしてきた。
いまだに、井戸も水道もない家があるのだ。
なにげなく使っている水も、こんな風にして運ばれていることもある。
どちらにしても、水や資源を大切にしなくては、とつくづく思いしらされたマンディだった。
こうして夕方のマンディを終えると、バリ人たちは、就寝まで余暇の時を過ごす。
近くのワルンで友人と語り合う者、ガムランや踊りの練習を見学する者、それはさまざまだ。
若い女の子とすれ違うと、彼女たちの身体から石けんのほんのりとした香りが漂ってくることがある。
それは、すれ違う者を、すがすがしい気分にさせてくれる。

皆さんもバリに来たらバリ人にならって、宿にホットシャワーがあったとしても、1度は、水マンディをチョバ(試して)みてはいかがですか。
今日1日の観光の汗を水マンディでさっぱり流したあと、芸能鑑賞や夕食にでかけるのも心地いいものです。




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