「極楽通信・UBUD」



アントニオ・ブランコ物語




アントニオ・マリア・ブランコ(Antonio Maria Blanco)は、ミロ(Joan Miro)とダリ(Salvador Dali)に憧れる、どことなく風貌がダリに似た青年だったという。

1911年9月15日、ブランコはフィリッピンの首都マニラで生まれた。
父はスペイン人、母はイタリア人。
父はアメリカ・スペイン戦争の時、マニラに定住し、医師として名声を獲得していた。
ブランコは、マニラのアメリカンスクールで教育を受けた。
高校生の時、芸術、文学、言語に目覚めた。
高校卒業後、ニューヨークの国立芸術専門学校でアメリカの女流詩人シドニー・ディキソンに師事した。
ブランコの研究課題は解剖学。特に人体について興味を持っていた。

見聞を広めるため世界を放浪する旅に出る。
その旅の終着地がバリ島だった。
ブランコは「バリ島」とタイトルされる一冊の本に魅了されていた。
著者はメキシコのアーチスト、ミゲル・コバルビアスである。

1952年、バリ島北部の港町シガラジャに上陸した。
州都シガラジャは活気のある町だった。
しかし、ブランコの心に引かれるものは感じなかった。
町のワルンで、ウブドから来ていた男性に出会う。
コバルビアスの本に書かれてあるウブドに大変興味を持っていたブランコは、男性の車でウブドに連れて行ってもらうことにした。
男性はウブドの王族チョコルド家を紹介してくれた。
こうして、チョコルド家に世話になった。
王宮での滞在では、何度も中庭で舞踊の練習をする風景を見た。
だんだんとバリに魅了されていく。

しばらくして、チョコルド家はブランコにチャンプアンの丘に土地を無償で与えることを約束する。
2ヘクタールの土地は、2つの川がしぶきをあげて交流する地点を見下ろせる場所にあった。
また、家とアトリエを作ってくれた。
竹の骨組みと竹で編んだ壁の簡素な小屋が、村人の協力を得て完成した。
身の回りの世話をする家族も紹介された。
ブランコがウブドで会った人々は、チョコルド家も含めて、皆、感受性豊かで、友好的な思いやりのある素晴らしい人々だった。
ブランコは、さっそく小屋で絵を描き始めます。
情熱的で風変わりな性格のブランコの画風は、それを証明するかのように自由奔放なものであった。
手伝いの家族の中に美しい娘がいた。
名前をロンジ(Ronji)といい、王宮で子供たちに舞踊を教えている女性だった。
彼女は、名の知れた踊り手だった。

ロンジ
(写真提供:田尾美野留氏・1998/3/13撮影)

ブランコは、ロンジをモデルに絵描こうと考えます。
ブランコの考えるモデルとは裸婦だ。
「モデルになってくれ」と、ブランコはロンジに頼みます。
この時代、女性が人前で裸のモデルになるということは考えられなかった。
ブランコの時々起こす特異な行動も、ロンジには理解できず、モデルをすることを拒んだ。
その頃、ロンジには恋人がいた。
兄の友人だ。
彼は、ブランコのロンジに接する態度に嫉妬し、ある晩、小屋に火をつけた。
小屋は焼け落ちてしまった。

ブランコは「芸術のためだ」と力説してロンジを説得しようとする。 ロンジはもじもじと恥ずかしがるばかり。
何度も拒否するうち、ロンジはブランコの誠意に負けて承諾する。
これを期に、結婚することになる。
結婚後、ブランコ夫妻は、アメリカへ短期旅行に出かけた。
帰国後、ブランコはウブドに永住する決意をした。
ブランコは、彼の熱狂的ファンや収集家と知り合うようになっていった。
そして、バリでもっとも有名な外国人画家となった。
スカルノ大統領と会見する機会を得ることでブランコは、大統領からバリ滞在の特別な許可証が認められた。
アメリカ旅行後建てられたチャンプアンの家は、幻想的なものになっていた。
芝生の敷き詰められた庭、家寺の向こうには菩提樹が立っている、その向こうにはライスフイルドが見える。
美しい妻と四人の子供たちに囲まれた生活は、のどかなものだった。

神秘的な丘の上の家で、ブランコは独特なコラージュや散文を情熱的に制作し続けた。
作品の多くは、愛する妻ロンジの幻想的なポートレイトだ。
エロチックな絵はユニークな額縁で飾られている。
彼の独特な絵画の世界は、インドネシア国内はもとより海外でも認められ、多くの賞を受賞している。
世界的なオークションでも大きな評価を得るようになっていった。
ブランコが人生最後に望んだものは、仕事場を美術館にすることだった。
1999年、88年間の生涯を終えてブランコは永眠するが、ブランコの夢はかなった。

ブランコ
(写真提供:田尾美野留氏・1998/3/13撮影)




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