「極楽通信・UBUD」



25「シリー(Sirih)」





口の中が血のように真っ赤な老婆に、突然、ニッと微笑まれる。こんな光景に出合った私は、身の毛がよだつほど恐ろしかった。南の国に行くと、若い女性も口の中が赤い。誘われるような色っぽい眼で見られても、口の中が赤くては、色好い反応はできないものだ。
この赤いものの正体はシリーである。シリーは、インドネシアの各地に古くからある嗜好品で、神聖なものと思われ、今でも祝宴には饗される。
バリ人にもシリーを噛む習慣がある。バリ語では、ベデル、そしてチューと呼ばれる。
あまり町では見かけないが、田舎へ行くと、シリー箱(プチャナンガン=pecanangan)を脇に置いて、老人たちがシリーを噛みながら雑談している風景を見かける。客のもてなしにも、コピ・バリと共に出される。


pecanangan
     シリー箱


わたしは、旧友ダドンにすすめられて嗜好している。
トランプのスペード型をした長さ10センチほどの新鮮なシリー(=インドネシア語、バリ語=バセ=base、和製=キンマ)の葉を、なぜか先っちょを少しちぎって2葉を重ね、上の葉に少量の石灰(pamor/kapur(インドネシア語))とガンビル(Gambir)を擦りつける。ビンロウ(=ビンロウヤシの実、バリ語=ブウァ=buah)の中にあるタネを薄切りしたものを、その葉にくるんで噛む。
バリでは、大きな儀礼には、供物として神に捧げられる。きっと神さまもシリーを嗜むのだろう。供物として捧げるシリーはmececanang(地域によって名前も異なる)と言う。バセでくるんだ1回分のシリーの袋が作られ、半月型のブウァを入れる。ブウァがのぞいていて可愛い。

クチャクチャと、らくだが食事をしているように口を動かして噛む。草食動物にでもなった気分だ。口の中がピリピリとする。しばらく噛んでから吐き出すのだが、口の中には、葉っぱの噛み屑が残り気持ちが悪い。飲み込むと身体に悪いと思うから気が気でない。
そう言いながらも、最近は、タバコと同様に癖になってしまっている。今では、ダドンの手を煩わせることなく、自分でこしらえて嗜好している。
素材が自然のものばかりだからか、シリーをこしらえている姿は、昔々にタイムスリップした気分だ。葉っぱを噛んでいると「これぞプリミティブの味!」とつぶやいてしまう。
ツバは飲み込まずに吐き出す。ツバを吐く下品で野蛮な行為は、納得できないがこれが習慣ならしかたがない。ツバは血のように真っ赤だ。もちろん口の中も真っ赤っか。なれないせいか、指や身体、シャツまで赤く染まってしまっている。バセとガンビルが化学反応して赤色になる。ツバは飲まないので、粘膜に染みって覚醒するのだろうか。
作業場が酢いた匂いがするようになった。この匂いは、ダドンが放つ匂いと同じだ。ひょっとするとわたしも、こんな匂いを発散しているのではないかと、心配になってくる。これでは、若い女性に人気がなくなってしまう。「その年で、まだ若い娘にもてようなんて思っているお前の根性が酢いている」こんな声が聞こえてきそうだが。
仕上げは、噛みタバコだ。タバコの葉を大きな梅干し大にまとめて、まずはそれを歯にこすり付ける。「そうするとわたしのように、歯が丈夫になるんだよ」とダドンは黒くなった歯を見せる。確かに、ダドンの年齢(年齢不詳)で、虫歯がないのは驚きだ。しかし、シリーを噛むせいで黒くなったと思われる歯を見せられても嬉しくはない。こすりつけたあと、タバコの葉は、下唇と歯の間に挟む。

老人になると、ガンビルを噛み砕くのが大儀なため、プングロチョカン(pengelocokan)と呼ばれる紙鉄砲のような筒で、突いて潰す。時々、奉納芸能のトペン・パジェガンで、プングロチョカンを突きながら登場する老人(トペン・ボンドレス)がいる。たまに、うっかりして筒から棒を外すのが笑いを誘う。
ワヤン・クリッ(影絵)のダラン(語り部)で、公演前にシリーを噛む人も多い。時には4時間を越えるという長丁場を乗り切るには、シリーで覚醒する必要があるのだろう。幕の裏で、おもむろにシリーの材料を取り出して、一噛みしてから演じる。ベテラン・ダランのシジョー氏も、新鋭トゥンジュン君もシリーを噛んでいる。

ところで、シリーを噛むと、いったいどんな効果があるのだろうか。
※シリーの葉は、マレーシア原産のコショウ科で健胃、去痰に効用がある。
※ブウァは、椰子科の高木で、種子にはアレコリン等、5種類のアルカロイドが含まれているので、弱い酒や麻薬のような作用がある。
※ガンビル(阿仙薬)は、インド産のアカネ科植物の水エキスを濃縮して得た褐色または暗褐色カタマリ状の生薬。主成分はカテキン(catechin)。収斂剤、口中清涼剤、また、染料、皮なめし剤に用いる。
※石灰は、歯を強くする効果があるそうだ。
この伝統的嗜好品も若い人には人気がなく、ボレーと同様に近い将来は、消滅してしまうだろう。しかし、それもしかたがないことなのかもしれない。




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