「極楽通信・UBUD」



バリ・アガ (Bali Aga)





「バリ・アガって言葉、聞いたことがありますか?」
★注:バリ人はバリ・アガをバリ・アゴ(ガとゴの中間)に、バリ・ムラはバリ・ムロと発音します。
ツーリストに、こんな問いかけをすると
「バリの先住民族のことでしょう。たとえば、グリンシンと呼ばれる経緯絣織物や水草で編んだカゴで有名な東部バリ・カランガッサム県のトゥンガナン(Tenganan) 村や風葬の習慣が残る村として知られているバトゥール湖畔のトゥルニャン村、そして、北部バリ・ブレレン県の山間部にあるスンビラン村がバリ・アガの村と呼ばれ、そこに生活する人々のことをバリ・アガだと、ガイドブックには書いてあったような気がします」
たいてい、こんな答が返ってくる。

「それでは先住民族とは、いったいどういう人々のことを言うのでしょうか?」
意地悪なわたしは、バリ・アガが先住民族でないことを正すために、こんな誘導質問をします。そして、その解答は。
「一般的に先住民族とは、北海道のアイヌ人、アメリカのインディアン、オーストラリアのアボリジニーのような少数民族のことではないでしょうか」
やはり、思うことは皆同じで、バリ・アガが少数民族だと思っている人が多い。
しかし、バリ・アガは少数民族ではないのです。

それではいったい、どういう人々をバリ・アガと言うのでしょう?
わたしは、ツーリストにこう説明しています。
「バリ・アガを一言で説明することはできません。
要約して言えば。ジャワ・ヒンドゥー教がバリに影響はじめた頃のこと、いくつかの集落は、それを受け入れず、従来のバリの宗教を守り続けた。
これらの村人とジャワ・ヒンドゥー教を受け入れた人々とを区別をするために、研究者たちの間で生まれた言葉のようです」
バリ・アガと同意語でバリ・ムラ(bali mula)という言葉がある。
谷口五郎氏編集の『インドネシア・日本語辞典』辞書には、ムラ(mula) はサンスクリット語で、始め、本源、故郷と訳されています。
こんなところから先住民族と訳す誤解が生じたのではないだろうか。



もう少し詳しく説明しよう。
バリはその昔、ジャワ島と陸続きだったと考えられる。
ジャワにはジャワ原人がバリにはバリ原人がいたという話も聞く。
バリが陸続きだった頃から、人類がいたのか。
バリ人はどこから来たのか。
バリの歴史は、いつどのようにして始まったのか。
今となっては、乏しい資料でその事実を知ることは難しい。
バリ人のルーツは、遠い昔、インド人、中国人、ジャワ人なとが、新天地を求めて、海を渡って住み着いた人々だと考えられる。
1000年前、500年前、300年前と、次々に渡ってきた人々が入り交じり、長い時間を経過して、今のバリ人が生まれたのではないだろうか。
これまでのバリ島民は、太陽崇拝、そして自然界のあらゆる事物に霊魂が宿っているという精霊信仰、祖霊の尊重のアニミズムであった。
その後、仏教、ヒンドゥー教が渡来し融合していくが、多神教であることに変わりはなかった。
たびたび、ジャワから高僧がバリを訪れ、ヒンドゥー教の形態を徐々に構築していく。
マジャパイト王朝(1293〜1520年まで東ジャワで栄えたヒンドゥー王朝)がイスラム勢力によって圧倒されるにつれ、ジャワ・ヒンドゥー教徒はジャワから逃れ、バリに移り住みはじめた。

バリはすでに1343年、マジャパイト王朝・ガジャ・マダ将軍の率いる軍勢によって制服されていたため、移住には何の障害もなかったと思われる。
マジャパイト王朝の末裔たちは、バリをいくつかの領地に分割し、統治権を持つ諸王国に支配させた。
こうしてバリのヒンドゥー教は、ジャワ・ヒンドゥーの影響を強く受けて開花し、今に至っている。
ヒンドゥーと言えども、インドのヒンドゥー教とは、似て非なるものとして発展している。
このジャワ・ヒンドゥーの影響を受けず、伝統的なアダット(習慣)を強く守り、独自の社会が保持され続けている集落がバリ・アガと呼ばれる。
J.Kersten S.V.D著の「BAHASA BALI」によると、バリ・アガは「孤立した村落に暮らす、ジャワ・ヒンドゥー文化の影響が少なかったバリ人。
風俗、習慣はより伝統的な性質を持っている」と説明されている。
ジャワから逃れて来た人々は、称号を持っていた。
バリでカーストが確立した時代、それまでの先住バリ島民は称号を持たなかった。
そのため、それまでの勢力を持っていた集団も、すべてスードラ・カーストの枠に入れられた。
これらスードラと呼ばれるカーストの人々は、バリ人の93%に当たると言われる。
そして、バリ・アガもスードラ・カーストの人々なのだ。
一般のバリ人と変わらないバリ語を使い、正装して神に祈りを捧げ、聖水をいただく、ヒンドゥーの神々を信じる人々だ。
現在のバリ・ヒンドゥー教の宗教儀礼とアダットの方が、ちょっと異質なだけなのである。
これが重要なことなのだが。
今ではそんなことはないと思うが、バリ・アガの村と呼ばれている村人の多くは、自分たちがバリ・アガと呼ばれていることを知らないことが多かった。
いつのまにか知らない間に、バリ・アガというレッテルを貼られてしまったといったところだ。

これまでの説明で、バリ・アガが決して少数民族ではないことがおわかりいただけただろう。
一説には、8世紀の初め東ジャワからバリに渡って来た高僧ルシ・マルカンディアの率いる信徒はアガ村からの人々だった。
その子孫の多くが伝統的なアダット(習慣)を守り続けた。
トゥンガナン村もアガ村の子孫で、11世紀初頭ウダヤナ王の時代に功績をあげバリ東部に領地を授かり移動した人々だ。
この話は「トゥガナン村の起源」で記載します。
このバリ・アガ先住民説も、それ以前にバリに人々は住んでいた人はいたはずだから正解ではない。

バリ・アガの村は、冒頭のツーリストの解答にあった3つ以外にもたくさんある。
トゥンガナン村に近い、ブグブグ(Bugbug)やティムブラ(Timbrah)、アサッ(Asak)、タトゥリンガ(Tatulingga)、タンカス(Tangkas)。
北部バリ・バンジャール村近郊に散在するティガワサ(Tigawasa)、シデタパ(Sidetapa)、チェムパガ(Cempaga)、プダワ(Pedawa)も、わたしはバリ・アガの範疇に入れている。
支配者側からの強制的な、宗教儀礼やアダットを受け入れない村落である。
これらの村々以外にも、葬儀を土葬で行う村や、村落の構成や家屋のレイアウトの違い、家寺を持たない村などがあり、どこまでをバリ・アガとするかの線引きは難しい。
ひょっとすると、あなたがなにげなく訪れた集落も、バリ・アガの村だったかもしれない。
そして、知り合った男性や女性が、実はバリ・アガだったかもしれない。

◎トゥガナン村で年一度開催される儀礼「ウサバ・サンバ(Usaba Sambah)」。
上半身裸の男たちが棘のある葉を使って戦うムカレ・カレ(Mekare Kare)の動画です




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