「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫ダラム寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その四:ダラム寺院



田んぼの中に建つ屋敷から、鯉のぼりが空高く泳いでいる。
これが日本でのことなら、何も珍しいことではない、5月の風物詩だ。
わたしが眼にしたのは、バリ島のライス・フィールドの中だ。それも椰子林に囲まれた屋敷だった。それが違和感なくバリの風景に溶け込んでいるのが不思議だ。
バリ人男性と結婚した日本人の奥さんのいる家だと聞いて、納得した。
今日は5月5日、端午の節句だ。
コンピアンの家にはじめて招かれた時、日本人からお土産にもらったというミニ鯉のぼりを見せられ、説明に四苦八苦したことを思い出す。結局、理解させることはできなかった。
自宅にギャラリーを持つコンピアンの家には、しばしば、外国人旅行者が訪れる。
お父さんのサナ氏は、カエルをモチーフにした繊細なタッチの墨絵で有名な絵描きだ。コンピアンは長男で、踊り手として活躍している。弟のカデは日本の花鳥風月にも似たプンゴセカン・スタイルの絵描きで、ガムラン奏者でもある。3人の妹たちは踊り子。コンピアンの家は芸術一家だ。
サナ氏は、息子や娘たちに負けず劣らずガムランや舞踊にも愛着が深い。数年前からサナ氏は、自分の絵が売れるとガムランをひとつひとつ買いたしていった。それがいつもまにか、フル・セットになっていた。そして息子たちを中心に、念願のガムラン・グループを今年になって創設した。
グループの名称は、チリ・スマラ。チリは美しい妖精、スマラは愛の男神の意味だ。「この音を聴いた人に、幸せを感じさせたい」と、サナ氏は抱負を語っていた。


                   


今夜は、チリ・スマラの初奉納。
日本流に言えば、チリ・スマラ一座の旗揚げ公演というわけだ。
公演場所は、チリ・スマラの地元プンゴセカン村のムルタ・サリ寺院のオダランだ。
グループは結成したばかりでレパートリーがあまりない。少ない演目から今夜は、演奏曲と村の少女たち4人による歓迎の踊り、座長のコンピアンはジャウッ。コンピアンの友人ニョマンによるトペン・ゴンブラン、そして、日本人女性2人組のレゴンだ。もちろん、わたしも踊る。わたしの踊りはトペン・パテだ。
新しいトペン・パテで踊りたいと願っていたら、この誘いがきた。
踊りたいからと言って練習をするわけではない。したことといえば、例のごとく、寺院に出かける前に湧き水でマンディしただけだ。身を浄めて奉納すれば神が降り、踊りが良くなるだろうなんて他力本願なことを考えている。そして相変わらず「本番が練習だ」と嘘ぶくわたしです。


これまで使っていたパテのお面も気に入って買ったのだが、どうも顔の作りが整い過ぎていて力強い表現の必要な踊りが優しくなってしまう。いわゆるハンサムと言う奴だ。
踊りの出来不出来は、お面の善し悪しにも大きく影響されるはず。そんなことから、力強いトペン・パテを探してあちこちの店を覗いて歩いた。しかし、どの店にもわたしの気に入るお面はなかった。
あとは特別に注文するしかない。ところが、注文するにしても見本になるものがない。参考になる写真でもあればと、写真集や雑誌を開いたが、ここにもわたしの気に入るものはなかった。
あきらめかけていた、そんなある日。
グルメな友人が「新しくオープンしたレストランが、料理も美味しいし値段も良心的だから行くといいよ」と教えてくれた。食欲旺盛なわたしは、さっそく行ってみることにした。
店内に入って驚いた。
巡り合わせとはこのことだ。
料理のことではない。正面の飾り棚に、わたしのイメージしていた通りのパテのお面が飾ってあるのだ。お面の表情は力強く、荒々しい。色も気に入った。このお面なら、動きの弱いわたしの踊りも激しく見えるだろう。
できることなら、このお面が欲しい。
欲しいからと言って、飾ってあるお面を「売ってください」と言うのも気が引ける。かと言って「貸してください」と言うわけにもいかない。
わたしはバリの彫刻家が、写真を見ただけでかなり正確に模写することができるのを知っている。わたしは店の人から承諾を得て、写真を撮らせてもらうことにした。
料理は、グルメな友人の言っていた通りに美味しかった。
写真を引き延ばして、さっそくロットゥンドー村のイダ・バグース・アリットの工房へと出かけた。彼には以前、ゴンブランのお面を彫ってもらったことがある。わたしの顔の輪郭を覚えているので、ぴったりのお面を作ってくれるはずだ。
アリットは木をよく乾燥させ、彫りはじめるのに良い日を選んで丁寧に仕事をしてくれた。手もとに届いたのは、注文してから2ヶ月が過ぎていた。仕上がりは、思っていた以上に満足のいくものだった。


そして、チリ・スマラ初奉納。トペン・パテ初披露の当日に、こんな騒動が起こった。
衣裳替えも終わり、わたしはトペンを準備しておこうと籠を覗いた。
籠の中には、コンピアンとわたしのトペンが、それぞれの袋に入れてしまってある。わたしのトペンは、全部で6つ。日々のお祈りをしてもらうために、コンピアンの家に預けてある。新しいトペン・パテのお面も預けた。
どの袋にどのトペンが入っているか、一眼でわかるように袋の色柄を違えてある。トペン・パテは、青の横縞ストライブの袋に入れた。上から順に、袋を手に取りよけてゆく。なかなか、青の横縞ストライブの袋が出てこない。ついに、手が籠の底についた。
何と、新しいトペンが見あたらない。
「コンピアン! わたしのトペン・パテが入っていないよ」
隣で着替えている、コンピアンに訴えるように訊ねた。
「お面は、イトサンが家に持っていったはずだよ」
「えっ、そうだったかな。そんなはずはないと思うが」
「出かける前に、よく確認したから間違いないよ」とコンピアンが言う。
わたしだって、出かける前に忘れ物はないかと部屋を確認してきた。しかし、そう言われると自信がなくなってしまう。
ガムランの演奏がはじまった。
わたしの出番には、まだ少し時間はある。
「とり合えず、イトサンの部屋に戻って探してみよう」
「わたしの家になかったら、コンピアンの家を探そう」
ふたりは、クリスを背中に差したトペンの衣裳でままで車に乗り込んだ。
結局トペンは、コンピアンのもうひとつの籠に入っていた。
今夜の寺院は幸いにして、お互いの家から近かったので間に合ったが、これが、取りに帰るわけにいかない距離と時間だったら、いったいどんな事態になっていただろう。
衣裳がたらなかったり、クリスがなかったり、それこそトペンがなかったら踊りにならない。出かける前には、何度も念を押すように持ち物をチェックし細心の注意をはらっている。
トペンを忘れた騒動で少しあせったが、踊りはお面の荒々しさがのり移ったように力強く踊ることができた。
チリ・スマラ一座の旗揚げ公演は、大成功だった。
メンバーも、自分の村のオダランで初奉納芸能できたことで喜びもひとしをだろう。


                   


チリ・スマラ、2度目の奉納舞踊も、地元プンゴセカン村のオダランだ。もちろんわたしも誘われている。
インドネシアは今年になって、国内の各地で暴動が起こっている。生活必需品の値上がりに不満を持つ群衆が、主に華僑系インドネシア人の商店を襲撃している。
3月には、経済危機の中、スハルト大統領が強引に7選。副大統領にはハビビ氏選出される。国民の困窮とは裏腹に膨れあがる、スハルト大統領一族の不正によって蓄積された財産。暴動の直接的原因は、彼らのに対する怒りだと言われている。
5月に入り、暴動は一段と過激になり死傷者も出ている。
国内各地が緊迫し続ける中、バリ人は相変わらず儀礼で忙しい。
それにしても、ひと月前にオダランがすんだばかりだというのに、まったくもって忙しいことだ。
忙しいのは、関係する寺院が多いのが理由だ。
村には、少なくともカヤンガン・ティガと呼ばれる3つの寺院がある。村の草分けだった祖先神を祀ったプセ寺院。村の集会場を兼ねるデサ寺院。墓地の近くにあり死者の霊を祀るダラム寺院だ。そのほかに、市場の寺院、水利組合(スバック)の寺院、親族集団の寺院などがある。
今回のオダランはダラム寺院だ。ダラム寺院は村の南(海側)外れにあると、バリ関係の学術書のどれかのに書いてあったが、どういうわけか、プンゴセカン村は村の中心にある。
プンゴセカン村には、全部で7つの寺院がある。オダランが210日に1度巡って来るとすると、単純に割り算して月に1度はある計算だ。これ以外に、バリ・ヒンドゥー教の総本山・ブサキ寺院や地域を越えた大きな寺院のオダランにも参加する。
さらに忙しくしているのはニュピ、そしてガルンガンとクニンガンの祭礼。満月、新月の儀礼。個人的には家寺のオダラン、結婚儀礼、火葬儀礼、削歯儀礼、子供の誕生日の儀式などなどがある。
まわりで見ていて、その忙しさは可哀想になってしまうほどだ。われわれ外国人旅行者は、そんな忙しさに関係なくハレの部分だけに参加する。こんな時には、旅行者でよかったと実感する。
オダランは1日だけの小規模な時もあれば、ひと月以上も続く大規模なものもある。準備や後片づけも、同様に数日から数ヶ月かかる。寺院の奉仕活動は村人によっておこなわれる。
結婚儀礼や火葬儀礼にも、準備や後片づけは数日かかり、やはりこれも村人の奉仕活動に頼らなければできない。
寺院の奉仕活動は「ンガヤ」と言い、そのほかの村の奉仕活動はゴトンロヨンと呼び分けられている。
奉仕活動は、バンジャールの役目だ。
バンジャールとは、共同体であり、村の最小単位の名称でもある。生まれてから死ぬまでの間、生活にかかわる儀礼のすべてを扶助し合う組織で、この組織抜きでバリ人の生活は考えられない。バリ人であるということは、すなわちバンジャールの1員であるということだ。バンジャールの1員でない者は、バリ人でないと言っても言い過ぎではないだろう。
バンジャールの重要な役割は、寺院の維持、管理、そして、オダランの運営だ。主要メンバーは、結婚して世帯を持った男性。これは、神々への供物を作る女性(主婦)がいないとヒンドゥー教徒としてのバリ人の生活が成り立たないからだ。男性中心のようにみえるが、その裏には女性の存在が不可欠なのだ。
家長の組織以外に、婦人会、青年団、ガムラン・グループなどの組織がある。
「忙しい忙しい」とぼやいてはいるが、どうも彼らは忙しいのを喜んでいる節がある。バリ人でないわたしに本音はわからないが、どう見ても彼らは儀式を楽しんでいるとしか思えない。


ダラム寺院の中から、耳慣れた素早い旋律でなく、その場の空気を包み込むようなゆったりとしたガムランの音が聴こえてきた。
境内を覗くと、僧侶を先頭にして、手に手に聖水や供物を持つ正装の婦人たちが心ここにあらずという眼差しで祭壇のまわりを踊りながら何度もまわっている。踊りといっても、両手を静かに動かすだけの単純なものだ。僧侶によって踊られるこの踊りは、デワ・ルジャンと言われ降臨した神々を導くための踊りだ。われわれが普段眼にするバリ舞踊の華やかさはないが、バリ舞踊の原点はこのデワ・ルジャンだ。
地元の若い女性たちによって踊られるルジャンがある。このルジャンの時には腰に黄色の布を巻き、ロンタル椰子の葉で細工された角のような飾りのついた冠をかぶって踊る。
ダドンが、踊りの輪に入って楽しそうに踊っていた。
踊り終わったダドンが目ざとくわたしを見つけて、お祈りをしていけと手招きする。
奉納舞踊が終わってからお祈りするからと手振りで断ったが、そんなことにお構いなしに不自由な左足を引きずりながら近寄ってくると、いきなりわたしの右腕を掴んで祭壇の前へ引っ張って行った。祭壇の前に坐らせると、お祈りのための線香と供花を用意してきた。
そんなわたしとダドンのやりとりを、まわりの村人が見て微笑んでいる。
わたしのお祈りが終わったのを見届けると、ダドンは聖水をもらうために僧侶を呼びつけた。こんなところでもダドンは、誰彼かまわず指図しているのか。指図された人も、嫌な表情ひとつせずに従っている。村人は、ダドンをどんな風に見ているのだろう。聞いてみたい気もするが、野暮な質問になってしまいそうなので、それはよした。


このところ、ダドンの元気がない。
2週間に1度の割りでわたしのところへ注射代をせびりに来るところをみると、やはり身体の具合が悪いのだろう。元気だった頃は、不思議パワーのこもった得意のマッサージで、日本からの友人の何人かが持病を治してもらった。今は、本人が病弱で、それどころではないのだろう。パワーもなりをひそめてしまった。
買い物好きなダドンは、ベモ(乗り合いバス)に乗って遠くギャニアールの市場まで行く。
帰りに大きな買い物籠を頭にのせて、わたしの作業場に立ち寄る。籠の中身は、供物のための材料とわたしへのお土産だ。お土産は、昔ながらのバリの駄菓子と果物。
ダドンは、ウブドにスーパーマーケットが開店したことを知らない。知らないから、もちろん行ったことがない。彼女の生活環境は、今でも昔のままだ。急激な環境の変化をどう捉えているのだろう。聞いてみたい気もするが、言葉がしゃべれないダトンとインドネシア語ができないわたしでは、しょせん会話にならないだろうと、あきらめた。
時々、オダラン料理のおさがりを持ってくることもある。
おかずはバナナの葉に包まれ、肉の入ったスープは汁がこぼれないようにビニール袋に入っている。白いご飯はスイカほどの大きさの竹籠にいっぱいだ。これらを、ホーローの洗面器に入れ頭にのせてくる。
わたしは、バリ料理が好きでぱくぱく食べる。ぱくぱく食べるところを、ダドンはジーッと見ている。自分が作った料理を食べてくれるのが嬉しいのだろう。少し肉が古かったりすることもあるが、そんな時にはダドンがよそ見した隙に遠くへ投げ捨てる。
ダドンはわたしの作業場に来ると、不自由な身体で庭の草刈りをしてゆく。それを見る限り、わたしより元気だ。
草刈りをすることで、せびったお金を帳消しにしているつもりなのだろう。バリ人は、何もしないでお金を受け取ることはしない。かたちはちがっても何かでおかえしする。
わたしはお祈りしてくれるだけで充分に感謝している。そんな気遣いは無用だ。
無理をしないようにと伝えているのだが、いつもめいっぱい、疲れるまで仕事をしていく。
今では、ダドンを自分のおふくろのように思っている。いつまでも、元気でいて欲しいと願うばかりだ。


                   


今夜の演目はアルジョ舞踊劇だ。出演者は、よその村から招いたグループ。
前座の踊り手は、わたしひとり。先回、新しいトペン・パテのお面で巧く踊れたのに気をよくして、今回は普段しない練習までして臨んだ。それがいけなかったのか、トペン・パテは取り止めになってしまった。バロンの踊りが3組演じられることになり、わたしの踊りはトペン・ムニエールひとつになった。
ワンティランの控え室には、見知らぬ顔の踊り手ばかり。
片隅がとりわけ好きだというわけではないが、どうしても遠慮して部屋の隅で着替えてしまう。知り合いも話し相手もいない楽屋の環境にも慣れた。わたしはもくもくと、ただひたすら着替える。
寺院は、控え室から村道を隔てたところにある。小さな割れ門から入った境内が、直接舞台だ。
この頃ウブド周辺のオダランでは、お祈りがすむと奉納芸能を鑑賞せずに帰ってしまう村が多くなった。明日の仕事にさしつかえるほど都会になってしまったのか、それともテレビやビデオなど、ほかの娯楽があるからだろうか。
ところが、男性ばかりで演じるアルジョ劇やドラマ・ゴンといわれる娯楽劇は人気で、深夜まで観客は帰らない。はっきりとした理由はわからないが、芸能に飽きてしまったわけでなく、どちらかと言えば、踊りより物語やユーモアを求めているようだ。
境内では、村人が地面に坐り込んで、アルジョ舞踊劇の開演を待っている。今夜のお祈りは、奉納芸能のあとだということで観客が多い。
トップ・バッターはわたしだ。
ガムランが、わたしの踊る曲を奏でた。
小さな割れ門から境内を覗くと、演奏者はチリ・スマラのメンバーだった。そう今夜は、チリ・スマラの奉納芸能の日。忘れていたわけではない。なぜかひとりでいると隔絶された感があり、眼にするまでは心配だった。
坐っている村人の中にも、知り合いの顔が見える。妙なたとえ方だが、異国で知人に会ったような安心感が沸いてくる。
いつもなら、観衆の中に大勢の外国人の顔が見えるプンゴセカン村のオダランだが、今回の政治不安で旅行者の足が遠のいたのか、ひとりとして外国人の顔が見あたらない。オダランの雰囲気を満喫するには外国人の顔が見えないほうがよいのだが、商売をしている人にとっては、旅行者のまったくいない今の状態は死活問題だ。
昨年のダラム寺院のオダランには、多くの外国人旅行者が見学にきていた。旅行者が多いと、今度はこんな問題もおこる。
それはチャロナラン劇が演じられている夜だった。
舞台では、村人によるドラマが熱演されていた。
わたしは、観客のひとりとして境内に坐って観賞していた。
聖獣バロンが入場したのと同じ割れ門から、欧米人旅行者と思われる4人組が入ってくるのが眼に入った。
彼らは一応に腰にカマン(腰布)を巻いてはいるが、どれもだらしなく巻かれ、今にもはだけそうだ。下からは、ズボンやスカートが見える。上着は、肌があらわに見えるTシャツやタンクトップ。これ以上、失礼がなければよいがと心配になる。
彼らは境内に入るなり、芸能を観賞している村人の前をズカズカと横切り寺院に入っていった。しばらくして、カメラのフラッシュが木々を一瞬浮かびあがらせた。寺院内ではフラッシュ禁止と寺院前に注意警告が掲示してある。
閃光は、その後たびたび境内のあちこちを照らし出した。しかも高いところに上って無神経に写真を撮っている。聖獣バロンや魔女ランダなどのご神体や祭司が登場する際には、人々はそれらより低い位置にいなければいけない。
村人は、困ったものだという顔はするものの、そんなチン入者をたしなめようともしない。見えない物として無視しているようだ。
もし、彼らの信仰する宗教に対して、無礼な観光客が現れたらどう対処するのだろうか。そんなことを考えさせられた、ひとコマだった。
話が大きく横道にそれてしまったが、ところでわたしの踊りはと言うと。
割れ門から舞台に下りたところまではよかった。
そのあと、どうも身体の調子が思わしくない。胸は重いし、息苦しい。トペンの下で、口を開けて息をしている。呼吸困難になっている。
踊りは18番のトペン・ムニエール。無難に終えることができたが、踊っている時間が異常に長く感じた。満足のいった踊りの時には時間が短く感じるものだが、今日のように長く感じたのは体調が悪かったせいだろう。
踊り終わって、クリスを差している肩紐を外すと急に身体が楽になった。
肩紐をきつく締め過ぎていたようだ。
どうして、こんな初歩的なミスをしてしまったのだろう。これもすべて、自分の未熟さからくるものだと反省する。
バロンもアルジョ劇も無難にこなしたチリ・スマラのメンバーが、お祈りのために寺院に入っていた。全員が満足げないい顔をしている。わたしも後を追って、寺院に入った。
こうして、チリ・スマラ2度目の奉納舞踊も無事終了した。




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