「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫ブキット・ムンティック寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その三:ブキット・ムンティック寺院



故郷の名古屋から、友人がバリ島5泊6日パック・ツアーの合間をぬって訪ねてきてくれた。
せっかくの貴重な時間を割いて訪ねてきてくれた友人を、バリでもっとも気にいっている景勝地・キンタマーニを案内することにした。ウブドから車で約1時間、名所旧跡をいくつか素通りしてバトゥール山の外輪山にあるペノロカン村の展望所に到着した。キンタマーニ村はさらに6キロ先の尾根づたいにある小さな集落のこと。どういうわけか、ペノロカン村の展望所あたりを差してキンタマーニと言うのが通例になっている。
展望所から望む、カルデラ内にあるすり鉢をひっくり返したような円錐形の活火山バトゥール山(海抜1717メートル)と三日月形をしたバトゥール湖の180度のパノラマが見どころだ。霞のかかることの多い地域だが、今日は運良く快晴だ。雨期も開けたことだし雨に降られる心配もない。
バトゥール山の稜線は麓にゆくほどなだらかになり、やがて、バトゥール湖の水面下に吸い込まれるようして消えてゆく。微風が愛しいものを撫でるように湖面を渡り、穏やかなさざ波を立てている。箱庭のような繊細な美しさを見せるバリの景色の中で、ここペノロカン村の展望所からの眺望には、地球の壮大さを認識させられる。いつ訪れても心が洗われ、何度眺めても見飽きることがない。
なんて、悠長に景色を眺めていると、いつのまにかキンタマーニ名物の物売りに囲まれている。
「センエン! センエン!」行く手を阻むように立ちはだかり、土産物を眼の前にかざす。
「Tシャツ、3枚センエン!」
「キーホルダー、5個センエン!」
そのほか、木彫り、ポストカード、なんでもセンエンだ。「見るだけ」と冷やかし気分で手にしてしまったら、おしまいだ。返そうとしても、彼らは品物を受け取ろうとしない。「しかたがない」優しい気持ちで、可哀想なくらい値切って買ってあげる。そうすると今度は、ほかの物売りが群がってくる。
「わたしからも、買ってくれ」
「もう買ったから、いらない」少し声を荒げる。 それでも「まだ、わたしからは買っていない」としつこくつきまとう。
「あんたからは買っていないのは確かだが、わたしだって、いらない土産がたくさんあってもしょうがないだろう」。思わず大きな声を出してしまいそうになる。
なかでも、子供の物売りに出会ってしまったら悲劇だ。「明日、学校で使うノートが買いたいの」なんて、消え入りそうな細い声で言われると、買ってあげない自分が極悪人に見えて悲しくなってしまう。こんなセンエン攻撃を前回体験しているわたしは、展望台から少し離れたところに車を止めた。
今回は、友人の要望もあってカルデラ内まで下りることにした。標高差700メートルをいっきに下る道は、スキー場の上級者コースのように急勾配だ。上りで立ち往生しているトラックがいる。わたしはローギヤのエンジンブレーキでのろのろと下る。長く急な坂道を下り切ると、湖畔の村クディサンに出る。ここからは、バトゥール山麓を1周する1本道。湖を右手に岩肌も荒々しい溶岩の裾野を抜けると、温泉のあるトヤブンカ村だ。
クディサン村とトヤブンカ村にはロスメンとバンガローが数軒あり、バトゥール山のトレッキングを目的とする旅行者が多く泊まっている。サンライズ・トレッキングは、若い女性で約1時間の手頃なコースだ。
わたしは4度バトゥール山の頂上に立ったが、いずれも晴天に恵まれ朝陽を拝むことができた。


その感動を綴っておこう。
眼下は、360度一面の雲海。東南の方角に、雲海から頭を出したアバン山(2152メートル)とアグン山(3142メートル)の重なった大きなシルエットが見える。遙かかなたに、ロンボク島の最高峰リンジャニ山(3726メートル)が、とんがり頭を出している。朝陽はリンジャニ山のあたりから、雲海をオレンジ色に染めていく。モノクロの世界が色彩を取り戻す。太陽の恵みが、地球上のすべての物に公平にほどこされてゆく。精神世界に入ったような高尚な気分だ。覚醒されてゆく万物の姿に感動し、トレッキングの疲れも忘れる。
トレッキングに興味がないという人には、山に囲まれた地形がつくりだす壮大なプラネタリウムがある。星を観賞するなんてロマンチックな趣味を持ち合わせていないわたしでさえ、10分おきにスーッと流れ消えてゆく星を見つけるたびに、大きな歓声をあげてしまう。願い事をするのを忘れてしまうほどの、流星ショーだ。


                   


バトゥール湖の対岸に、外輪山の切り立った崖と湖に挟まれた狭い土地を利用した小さな集落が見える。バリがヒンドゥー教化される以前からの宗教を守り、独特の風習を強く保持しているトルニャン村だ。火葬式が常識のバリにあって、唯一、風葬の村だ。遺体は大樹の根元で風葬にされるが、大樹が消臭してしまうのか不思議と匂いはしない。大樹の名前は、タムール(木)ニャン(匂い)。タムールニャンがトルニャンの語源になっている。
バロン・ブルトゥッと呼ばれる踊りは、トルニャン村のもの。バロン・ブルトゥッの衣裳は、薄茶色に枯れたバナナの葉。お面をつけて、身体いっぱいに葉っぱをつけた姿はまるまると太ったミノ虫のようだ。何体ものバロン・ブルトゥッがムチを手に、村を徘徊し子供たちを追っかけ回す。悪霊払いの意味があり、秋田のなまはげを連想させるユニークな踊りだ。
トルニャン村に、不思議な伝説がある。
昔むかし、バトゥール山麓には神々が住んでいた。神々は、島に人々が少ないと考え、香りのよい木から人間を創った。この時使われた木が、タムールニャンだ。
創られた人間の眼は、黒眼のない白眼だけだった。この白い眼は、神々と同じようにあらゆるものが見えてしまう。昼夜の区別なく物は見え、霊までも見えてしまう。相手の心や動植物の心まで読み取ることができる。神々は、これは人間にとってよくないことだと考え、黒眼を与えた。
トルニャン村へは、クディサン村からの渡し船で行くしか方法はない。


トヤブンカ村を抜け、湖岸に沿った曲がりくねった道をしばらく進むとソンガン村だ。ソンガン村の中心だと思われるT字路の角に、小さな古びたワンティランとワルンがある。午後の憩いのひとときをのんびりと過ごす村人の姿が、そこにある。T字路を左に折れると湖から離れ、展望所からは望むことができないバトゥール山の北側にまわり込む。
この土地を北側の外輪山から見おろしたことがある。その風景は、緑豊かな裾野に数頭の牛や山羊が放牧されている牧歌的な印象だった。バリでは珍しい風景なので、ぜひ機会をみつけて訪れてみたいと思った。実際に訪れてみて驚いた。バトゥール山の北側は、なだらかな山裾に視界を遮るものがなにひとつない殺風景な風景だった。そして、想像を見事に裏切る埃っぽい荒れ果てた土地だった。枯れた土地にトウモロコシ、キャベツ、トマト、紫玉ネギといった高原野菜が栽培されている。緑と水の豊富なウブドから来たわたしには、つらい気分にさせられてしまう風景だ。そんなわたしの心配をよそに、牛追いする子供たちや畑仕事に精を出す村人たちが、バリ人特有の人なつっこい笑顔を投げかけてくる。


久しぶりに訪れたが、相変わらずサバンナを連想させる荒れ地だ。点在する小さい民家をいくつか通り過ぎる。どれも、塀のない簡素な家だ。しばらく走ると、フロントガラスの前に見あげるほどの大きくて黒々とした溶岩が行く手を阻止するように現れた。ここから先は、これまで足を踏み入れたことがない土地だ。
溶岩は、チョコレート・アイス・クリームを巨大なスプーンですくって幾つも重ねたみたいに、なんとも形容し難い妙な形で冷え固まっている。今にも赤く燃えたぎって流れ出しそうに、生々しい。巨大な生物が棲息する、数千年も前の地球に迷い込んでしまったかのようだ。恐ろしくて、先に進むのをためらってしまうほどだ。
バトゥール山は活火山。白い噴煙をモクモクと吐き出し、今も活動中だ。噴煙があがっているあたりから流れ出したと思われる新しい溶岩が、扇状に裾野を埋め尽くしている。ためらう気持ちを鼓舞し、黒々とした溶岩を切り開いて造られた道を前進した。道は大きく起伏し、なおかつ大きく蛇行する。
緑の木立が視界に入った。不毛の溶岩台地に、忽然と出現したオアシスだ。精霊にでも誘われたのか、惹かれるように木立に入って行った。そこには、苔の生い茂る寺院が時代に取り残されたようにひっそりと建っていた。立て札に、ブキット・ムンティック寺院と書かれてある。こんな人里離れた辺境の地にも、バリ・ヒンドゥー寺院はあるのだ。
寺院は低い土塀や石塀に囲まれた、質素なたたずまいが多い。普段は門が閉じられていて、中には誰ひとりいない静かな空間だ。5重、7重の屋根を持つ祭壇が数塔と細い木柱に屋根がのった儀礼用の建物がいくつかある。昼間は林に隠れ、夜は広がる闇に溶け込み、意識しない限り見逃してしまう。
オダランが近づくと、祭壇や建物は修復され赤や黄の布が飾られる。境内には色とりどりの幟が何本も立てられ、供物を安置する縁台や日除けの屋根が竹とバナナの葉で造られる。オダランの当日には、村人が持ち寄った彩りも鮮やかなグボガンが、準備された縁台を埋め尽くし、寺院内は万華鏡のように彩られる。夜ともなれば、ガムランと舞踊が演じられ、まるでオルゴールのついた宝石箱を開けたように光輝く。


ブキット・ムンティック寺院は、改修工事中のようだ。忙しそうに働く男たちの姿が土塀越しに見える。大きな声がした。・・・しばらくして、割れ門からひとりの男性が現れ、われわれに、寺院に入るように手招きした。
寺院に入るには、最低のマナーとしてカマンとスレンダンをしなくてはならない。もちろん肌がたくさん見える服装はよくない。いつもなら、正装を持って旅をするのだが、今回は日本からの友人に、わたしのお気に入りの景色を案内するつもりで、ふらりと出かけたドライブ。寺院に入ることはないだろうと用意してこなかった。
躊躇していると、男性はわれわれの近くまで来て「次の満月の日に、この寺院でオダランがあるから来るといい」と教えてくれた。
バリ島北部や山間部では、サカ暦(354〜6日を1年とする)に基づいてオダランを催すところが多い。この寺院が、次の満月にオダランがあるといことは、サカ暦に従っているのだろう。ウブド近郊では、ペジェンの月と呼ばれる巨大銅鼓が祀られているペジェン村のプナタラン・サシ寺院が満月の日にオダランだ。
活火山の麓だからだろうか、ブキット・ムンティック寺院には濃密な磁場のエナジーを感じる。こんな場所で踊ることができたら、さぞかし心地良いだろう。
そんな考えから「そのオダランの時に、わたしも踊らせてもらえるかな?」。駄目でもともとで訊ねてみた。
「それはよいことだ、ぜひ、奉納舞踊してください」。いとも簡単に嬉しい返事が返ってきた。半信半疑ではあるが、もし踊れるとしたら素晴らしいことだ。次の満月の日に訪れることを約束して、寺院をあとにした。
ブキット・ムンティック寺院のブキットは、丘という意味だ。だが、どう見ても寺院の建っていたところは平地だった。どんな理由で、ブキットと言う名前がついたのだろう。そんなたわいもないことを考えながら、われわれはもと来た道を戻った。
カルデラ内は、海岸線の村より早く夜が訪れる。あたりはすでに夕暮れ。バトュール山の頂が、紫色に夕焼けている。もうしばらくすると、満月が顔を見せるのだろう。
キンタマーニのドライブは、わたしを神秘なパワーの発するブキット・ムンティック寺院に誘ってくれた。そして友人も、ガイド・ブックで見たバリとは違う、もうひとつのバリを体験できたと喜んでくれた。


                   


キンタマーニのドライブから、ひと月が過ぎた。
明日は満月。ブキット・ムンティック寺院のオダランの日だ。バトゥール山麓の寺院で、奉納舞踊したいという気持ちはいっこうに衰えを見せない。それどころか、どんどん踊りたい気持ちが増幅していく。本当に、踊らせてもらえるだろうか? ふらっと立ち寄っただけの旅行者に、村人はその場しのぎの優しい言葉をかけたに過ぎないのではないだろうか。心配になると、いても立ってもいられなくなる。念のために、もう一度ブキット・ムンティック寺院へ行ってみよう。
コンピアンに、バトゥール山麓にある神秘な寺院の話をすると「わたしも、その寺院で奉納舞踊したい」と言う。確認のために、一緒にブキット・ムンティック寺院へ行くことになった。
ブキット・ムンティック寺院は、オダランの準備も整い、ひと月前の時代に取り残された雰囲気からハレの姿に変わっていた。数人の村人が、最後の飾りつけに立ち働いている。
寺院の前で待っていても、誰も声をかけてこない。村人たちは忙しくて、見知らぬよそ者に声をかける暇もないのだろう。いつまでも、こんなふうに待っているわけにはいかない。コンピアンが寺院に入って、村人に、明日の芸能の予定を尋ねてくることになった。
コンピアンが戻ってきて、わたしにも寺院に入るように告げた。こんなこともあるだろうと、今日はふたりとも正装してきている。村人の話で、明日のオダランにボナ村からバポ・シジョーがワヤン・クリッを奉納に来ることがわかった。(バリでは、目上や既婚の男性をバポと呼ぶ)
バポ・シジョーならは、わたしも知っている。以前、雑誌の取材にお供して話を伺ったことがある。深みのある独特の濁声でジェスチャーをまじえ、ユーモアたっぷりに話す。小肥りの身体から、優しさがにじみ出ている人のいいおじさんだ。バポ・シジョーはワヤン・クリッのダラン、トペンの踊り手、トペンの彫刻家、オダランの装飾、そのほか、バリのあらゆる文化、芸能に精通し活躍している人物だ。踊りは、わたしがもっとも好きなトペンの踊り手であるバポ・スウェチャでさえ師と仰ぐほどの人物だ。機会があれば、ぜひ観てみたい踊り手のひとりだ。バポは毎年、この寺院にワヤン・クリッを奉納に来るのだそうだ。
「奉納舞踊をするなら、まず、バポに相談してみてくれ」と言う。どうやら村ではガムラン奏者が足りなくて、当日バポのグループに助っ人してもらわないと演奏ができないということらしい。バリも近年、仕事につける街へ出て行く若者が増え、村では過疎化が進んでいる。この村も、若者たちが街に出稼ぎに行ってしまったのだろう。
まだ、踊れると決まったわけではないが、コンピアンとわたしは「明日のオダランで合いましょう」と村人に約束をして、寺院をあとにした。
わたしの気持ちは、必ず、来ると決心している。
ブキット・ムンティック寺院から帰ると、コンピアンはさっそくバポ・シジョーの家を訪ねた。そして、奉納舞踊に参加できる朗報をもらって帰ってきた。


                   


バポたちのグループと一緒に出発することになり、われわれが迎えに行く約束になった。
午後5時、ボナ村のバポの家を訪ねた。バイクが1台、かろうじて通ることのできるほど狭い門をくぐると、中庭を囲むようにして独立した高床式の住まいが幾つかと儀礼用の建物がある。バリ人の家は敷地の広さや建物の数、建物の素材は違っていても、すべてバリの方位観に基づいて建てられている。聖なる方角に家寺が、不浄と言われる方角には台所やトイレがある。どの家も同じレイアウトだ。
中庭から声をかけると、台所から息子のシローが上半身裸体のカマン姿で出てきた。彼とは昨年の9月、タガス村のリノに誘われてブサキ寺院で奉納舞踊した時に一緒だった。その時が初対面で、その後、顔を見かけることはあっても話すことはなかった。シローは、ウブドのサレン王宮で催されている定期公演に出演している若手の踊り手で、将来を有望視されているひとりだ。
シローはわたしを見つけると「この前の踊り、とってもよかったよ」。トペン・ムニエールを踊りながら声をかけてきた。
「いつ見た?」。わたしは、なかば照れながら訊いた。
「プナタラン・クロンチン寺院のオダランだ。あの時、僕もチャロナラン劇の道化役で出てたんだよ」
社交辞令とわかっていても、学ぶ者にとって暖かいお世辞の一言は励みになる。
「バポは、遅い午睡中。もうしばらく待ってくれ」と言い残して、シローは台所へ引っこんだ。わたしは「ありがとう」と手をあげた。もちろん右手だ。
余談だが、バリ・ヒンドゥー教は左手を不浄なものとし、物を指差したり手渡す時には必ず浄の右手を使う。身体では、頭がもっとも神聖な部分にあたる。赤ちゃんや子供が可愛いからといって、不浄な左手で頭をなぜることは、タブー中のタブーだ。帽子やヘルメットなど頭にかぶる物は、足もとや床に直接置かず少し高いところに置く。これも気をつけなくてはいけないマナーだ。


30分ほどして、木の扉がギギーと重い音をたてて開いた。
扉から、腰にタオルを巻き上半身裸体のバポの姿が現れた。この家族が特に裸体でいることが好きだというわけではない。一般的にバリ人の男性は、家で過ごす時は上半身裸体が多い。田舎へ行くと、女性も胸を露わにしている。と言っても、今はおばあちゃんばかりだが。
バポが、眠そうに眼をこすりながら部屋から出てきた。われわれを見つける「やっ!」と一言。そして、テラスから下りるなり「大きな鶏がいるから見に来い。ちょっとようすを見に行くから」言うが早いか、スタスタと裏庭に向かって行ってしまった。
同行している好奇心旺盛な大原さんが、ついて行った。大原さんの報告によると、大きな鶏は七面鳥だったそうだ。「餌をあたえながら『餌が違うんだ、餌が。わしが特別に作る餌だからね』と嬉しそうに自慢顔で言うんだ」
大きな鶏に餌をあたえ終わると、今度は20センチほどの竹筒を何本か持ち出してきた。コオロギ相撲に使う竹筒だ。バポは、テラスに腰を下ろすと竹筒を覗き込んだ。バリでは闘鶏が盛んだが、草木が緑を増す9月には、コオロギが繁殖しコオロギ相撲の季節になる。もちろんこれもギャンブルだ。夕暮れの中庭に、涼しげな虫の鳴き声が響いた。バポが、竹筒を覗きながらコオロギに餌をやっている。終わると、タオルを肩にかけて母屋に消えていった。
次に登場した時には、マンディを終えた正装姿だった。いよいよ出発だ。
立ち上がろうとするわたしに向かって、バポが歌を唄いだした。
「オーティティー、ツーナィドュェー、ノーミチェオー、ユーケィヴァー、ミューンナ、ワーワァイ、コートュリニ、ナッツェ、ウータフォウータヘバ、クチュガーナル」
歌詞はところどころ妙だが、童謡「靴がなる」だということはわかる。インドネシアが日本軍に占領されていた頃、小学校で覚えさせられた日本の歌だ。知ってる知ってると相槌を打つと、嬉しそうに唄い続ける。学校が嫌いであまり出席しなかったが、日本の歌は覚えていると、昔を懐かしむように話し出す。そんな話を聞いて、日本人のわたしは、単純に喜んでよいものか複雑な心境になる。
こんなふうにして待つこと2時間、すでに午後7時だ。まったくもってバポはマイペース。呑気なものだ。こんなことは、バリでは日常茶飯事。今では腹も立たない。
グンデル・ワヤンが運び出されていく。これは、ワヤン・クリッの伴奏に使われるガムランだ。バポが演奏者の仲間と、肩を叩き合い雑談しながら門を出ていった。あとをついていくと、外に乗り合いバスが止まっていた。バポたちが、バスに乗りこんだ。今度は、本当に出発だ。われわれの車は、バスのあとに続いた。
すっかり暗くなった夜の道を、一路、遠く満月の輝く方角に向かって車を走らせる。満月とはいえ、夜の活火山とクレーターへの突入は、ブラックホールのような吸引力を感じて恐ろしい。映画インディ・ジョーンズの一場面のような冒険気分でもある。四方を山に囲まれた暗闇の世界は、今、完璧な静寂が支配している。
8時30分。漆黒の闇に、ブキット・ムンティック寺院の明かりが見えてきた。オレンジ色の裸電球が弱々しく灯る寺院は、期待した通り神秘的な姿を見せている。
寺院内の建物では、バポたち一行がすでにくつろいでいた。バポに手招きされ、われわれも建物に上がりこんだ。ぞくぞくと、子供やおばさんたちがわれわれを囲むようにして坐り込み、遠来の客人が珍しいのかチンドン屋でも見るように覗いてくる。
「どこから来た?」
「結婚しているか?」
「バリに滞在して、もう長いのか?」
「いつまでいるのか?」
「バリに住みたいか?」
村人が遠慮気味に質問してくる。わたしは、質問にひとつひとつ丁寧に答える。村人はインドネシア語が苦手のようで、だんだんと質問が減ってくる。インドネシア人といえども、バリ人の間では日常バリ語が使われている。ウブドと違ってバリ人以外のインドネシア人や外国人のあまり訪れる事のないこの村では、村人もインドネシア語を使い慣れていないのだろう。
乗車の疲れが癒されたところで、出演者全員でお祈りすることになった。奥の寺院には、6段ほどの階段を上り下りして入る。塀が階段の上段までしか完成していないため、障害物を乗り越えているようだ。祭壇は、黒い溶岩で造られていた。ぶら下がった豆球の心細い明かりと月明かりの下に、腰をおろした。地中深くから伝わるエナジーを感じながらが、お祈りをする。人類が地上に現れ、山と密接にかかわっていた大昔から、ここは霊山信仰の地であったのだろう。
お祈りを終えると、わたしはみんなと離れ、気になっている右奥の寺院に向かった。大きな1枚岩の上に造られた階段を数段上り寺院に踏み込んだ。祭壇に近づくと、すぐうしろに今にも呑み込まんばかりに迫った溶岩が、寺院のパワーに屈伏して思い留まったように固まっていた。超常現象でも見たような不思議な気持ちだ。気になっていたのは、このことかもしれない。


ブキット・ムンティック寺院の奥の寺院
ブキット・ムンティック寺院1


食事がすむと、コンピアンはトペンと冠に奉納舞踊前のお祈りの準備をはじめた。踊りに使われるわれわれのトペンは、すでに神から魂をもらっている神聖なもの。日頃はコンピアンの家寺に安置され、むやみに扱えない。踊る前には、必ず聖水をかけて浄める。オダラン先で寺院専属の僧侶にしてもらうこともあるが、今夜は、コンピアンが線香と供花でお祈りを捧げた。
老若男女に囲まれて、好奇の視線を浴びながら衣裳替えが終わると、しばらく雑談が続いた。
ガムランが、境内に用意された敷物の上に並べられた。ガムランは、フルセットでなく半分の編成だ。
バポが立ちあがり境内に下りた。ガムランに向かって歩いて行く。なんと、バポも演奏に参加するようだ。グンデル・ワヤン奏者の5人も、ガムランの前に坐り込んだ。村人数人が加わって、10人そこそこの小編成。


ブキット・ムンティック寺院2


この寺院で奉納舞踊したいという、ひと月前の願いがいよいよ叶うのだ。嬉しさが高まる一方で、3年前の取材の時、バポが言っていたことを思い出す。
「近頃の若者は、練習もろくにしない。基本もなっていない、太鼓の音にも合っていないのに、観衆の前で平然と踊っている。そんな踊りを見ると、わたしはイライラして頭が痛くなってしまう。だから、今ではあまり見ないようにしている」
この言葉のすべてが、わたしの踊りに当てはまる。そんなわたしが、今、バポの前で踊ろうとしているわけだ。針のむしろとは、このことだ。しかし、ここまできたら、今更どうにも止まらない。バポ、見るに耐えないわたしの踊りだとは思いますが、我慢して見てください。できれば一見の上アドバイスがいただければ嬉しいです。
いきなり演奏曲もなく、トペン・パテの曲が流れ出した。わたしはまだ、着替えの場所に坐っている。慌ててトペンをつけ、まわりに坐っている村人を押しわけて境内に下りた。
今夜の観衆は、建物に上がり込んでいる50人にも満たない村人たちだ。足もとに、溶岩の黒い砂がまとわりつく。刺々しいと思っていた溶岩の砂は、意外とさらさらして素足に心地良い。
眼の前には、噴煙上がるバトゥール山の頂に真珠色の満月が輝いている。冴えた月光で銀色に光るバトゥール山と祭壇とのコントラストは、水墨画を見るようだ。神々の降臨するにふさわしい、崇高な空間だ。
ガムランを叩くバポの姿が、眼の前に見えた。バポは、気分を害さずに演奏してくれるだろうか? ひょっとして、わたしの踊りを見てくれないのではないだろうか?
踊り出してすぐ、ガムランの音に覇気がないのに気づいた。小編成のせいか音が小さい。間に合わせのグループだからだろう。どことなく音もちぐはぐだ。
踊りに集中できたのは、寺院の持つ雰囲気のおかげだ。眼に見えないもの、神々に向かって踊った感覚だ。想像したとおり、高揚感さえあった。
このあと、わたしはトペン・ムニエールを、コンピアンはトペン・トゥアとトペン・ゴンブランを奉納した。
いつもは、幕のうしろで控えていて、一緒に出演している人の踊りを観ることができない。今夜は、幕も仕切もない。久しぶりに、コンピアンの踊りを観ることができた。さすがに巧い。年々、円熟味を増している。
キンタマーニのドライブで偶然見つけたブキット・ムンティック寺院。この寺院のオダランで踊りたいとの願いが叶った。気温は14〜5度だろう。肌寒いほどで、踊っていても汗をかかなかった。今、感慨無量で踊り終えた満足感を味わっている。隣では、コンピアンが着替えをはじめた。


小さな建物に、ワヤン・クリッの白い布が張られた。厚手の上着を羽織った村人が10数人寒そうに境内に坐りこみ、ワヤン・クリッのはじまりを待っている。椰子油のランプに火が灯されると、炎の優しいオレンジ色が白い幕に写し出された。炎の揺らめきが、心をリラックスさせる。
いよいよ、バポ・シジョーのワヤン・クリッの開演だ。
わたしは、寒さに我慢できず建物の中に入った。幕のうしろにまわると、ここにも村人たちが数人いた。バリでは、楽屋の観念がないと、M ・ミードの「フィールドからの手紙」で読んだのを思い出す。
バポの人形を操る姿が見えた。
素早く1回転させる技を使ったり、いくつもを鷲掴みにするとポトポトと落としていったり、挙げ句に、両手に持って演じていた人形を、いきなりうしろに投げる。両側でサポートしているおじさんたちは、拾うのにおおわらわだ。
熱演は、1時間半続いた。
バポのワヤン・クリッは、とてもとても68歳とは思えないほどエネルギッシュだ。
バポのワヤン・クリッも観ることができたし、わたしの踊りを見て、バポの頭が痛くなったということもなかったようで、わたしにとっては、とても楽しい奉納舞踊になった。
零時30分、寺院をあとにした。
あたりは、すっかり眠りについている。虚空に向かって、犬が吠えた。車窓から見上げる空に、大きな満月が輝いている。
「また、来ることができますように」。
「機会があれば、再び、この心地良い寺院で踊れますように」。
わたしは、満月にお願いした。
助手席のコンピアンが、満足げな顔で満月を仰いでいる。




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