「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫プセ寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その五:プセ寺院



バリ島の観光名所は、東部、西部、南部、北部、そして中央部と各地に散らばっている。
中央部の観光の目玉は、11世紀頃の古代遺跡だろう。特にゴア・ガジャは人気だ。
ゴア・ガジャとは、象の洞窟と言う意味だ。オランダの調査隊が半壊していたランダの石彫を見て象の彫刻と間違えたのが、そのまま名前となってしまったと言う、間の抜けた話だ。
ウブドからゴア・ガジャまでは約5キロの距離だ。ゴア・ガジャの手前にある小さな谷川に架かる長さ7メートルほどの橋を渡って、すぐある十字路を右折するとトゥンクラ村だ。


                   


今夜は、トゥンクラ村のオダランにチリ・スマラと奉納芸能だ。
チリ・スマラの初遠征。
結成したばかりのグループだから、ほとんどのことに「初」の文字が頭につく。
初遠征と言っても、コンピアンの奥さんの実家のある村。つまり親戚関係の村だ。
余談だが、コンピアンと奥さんとの馴れ初めは、この村に彼が踊りの指導に来ていた時だと聞いている。その当時、彼女はまだ中学生。年の差は10歳。コンピアンは彼女の写真を肌身離さず持っていて、見せてくれた。これが彼女だと見せられても、中学校の制服姿で、それも何の変哲もないパスポート・サイズの小さな顔写真では充分な感想も述べられず、ただ「若い!」の一言。そう、そのあと「お前、ロリコンか?」と言ったような言わなかったような。
昨年の2月に結婚。彼女は19歳。バリの習慣(?)通り、すでにお腹には赤ちゃんが宿っていた。
今夜の集合場所は、コンピアンの家。
門をくぐると、中庭から賑やかな話し声が聞こえてきた。すでにメンバーは集まっているようだ。賑やかな原因を覗くと、コンピアンがひとりひとりにユニフォームを手渡していた。チリ・スマラのユニフォ−ムが出来上がってきたのだ。
メンバーが、ユニフォ−ムを手にして嬉しそうだ。なんと、わたしにも支給された。メンバーに加えてもらえた気分は、やはり嬉しい。反面、何も手伝っていないのが恥ずかしい。
これまでは、メンバー自前の白いサファリで演奏していた。白いサファリは正装で、自分の村以外での奉納演奏や演奏会には好ましくない。そんなことから、ユニフォ−ムの出来上がりが急がれていた。
ユニフォームといっても、基本的には寺院に入ることの許される服装でなくてはならない。結果として、正装をアレンジしたものになる。
チリ・スマラの場合は、上着は紺色のサファリで、どことなく日本の学生服を思い出すデザインだ。ウドゥンは錦糸、サプットは紺色をベースにした花柄。カマンが配られなかったのをみると、サプットで隠れてあまり見えないから自前のを使えと言うことか。

バリ島を訪れて、はじめて見たガムラン・グループはボナ村だった。
その時のユニホームが、あまりにも派手で驚いたのを思い出した。
上着は、無難な開襟シャツタイプ。ところが、なんといっても色が凄い。ピカピカのサテン生地のどぎついピンク色。銀紙を噛むにも似た歯の浮くような色彩感覚に、わたしにはとても馴染めない。その時はそう思った。
その後、他のグループの青や緑や黄色のぴかぴかサテンのユニフォームを何度も見ているうちに、すっかり慣れてしまった。
今のユニフォームの主流は、詰め襟タイプで生地は化繊。
ウブド周辺のガムラン・グループは、もちろん詰め襟タイプだ。それも渋目の色。馬子にも衣装と言うと失礼になるが、茶色やうぐいす色の渋いユニフォームだと演奏も洗練されて見えるのが不思議だ。
驚いたのは、バトゥール村のウルン・ダヌ寺院で見かけたユニフォームだ。詰め襟の黒いサファリは、日本の学生服そのものだ。まさかこんなところで、日本の学生服をガムランのメンバーが着ているはずはない。近寄ってみると、金ボタンに字が浮き彫りにされているのが見えた。日本人なら誰でも知っている、中学校の中の字だ。これはもう間違えようのない本物の学生服だ。
どういう経過で、日本の中学の学生服がここにきたのだろう。1着紛れ込んでいるのなら、誰かが土産にくれたのだろうと考えられるが、メンバー全員が金ボタンの学生服なのは不可解だ。「なぜ?」と眼を丸くしてしまった。


                   


ゴア・ガジャの手前に架かる橋の上にさしかかった時、わたしは「プルミシー(失礼します)」と心の中でつぶやいた。橋や十字路、窪地などには霊の溜まるところ。バリ人は、こんなところでは、必ず、車のホーンを鳴らす。そうしておけば、悪いことが起こらないという考え方だ。
橋を渡って、すぐに右折。
右手に水路、左手になだらか落ちていくライス・フィールドを見ながらしばらく行くとトゥンクラ村だ。
トゥンクラ村の家並み沿いにある水路で、村人たちが各々の家の前でマンディと洗濯をしている。どこの村でも見られる日暮れ前の風景だ。
道の両側には、アヒルの木彫りの店が並んでいる。
トゥンクラ村は木彫りの村だ。それもアヒル専門。最初に大きな注文のあったのがアヒルだったのだろう。村人みんなで手伝っているうちに、どこの家でも同じ物を作るようになっていった。バリ人の共存意識なのか、竹細工の村、ロンタル細工の村、木彫りのモビールの村、瓦とレンガの村など、1村1職の傾向がある。
コンピアンの奥さんの実家も、木彫りのアヒルを作っている。美人の評判高い新妻は、今でも、絵の具で汚れたシャツを着て色つけの仕事を手伝っている。
今回のオダランはデサ寺院だ。デサ寺院のオダランが終わると、続いて、隣接しているプセ寺院のオダランがはじまる。トゥンクラ村もプンゴセカン村に劣らず、バリ・ヒンドゥー教の儀式で忙しい。
更衣室兼控え室は、寺院内の小さなあずまやだ。
衣裳バッグをおろしたとたんに村人が集まってくる。子供たちが踊り手たちを興味津々に見つめる。
チリ・スマラの演奏者たちが、境内から外へ出ていった。どうせ、サイコロ・ギャンブルで時間をつぶすのだろう。
しばらくすると「ピーピー、ガーガー」という雑音に混じって「今夜のグループは、プンゴセカン村のチリ・スマラです。演目は、バロン、トペン、そして、レゴンです」
スピーカーを通して硬くなった声が聞こえてきた。この割れた音は、懐かしいラッパ型のスピーカーだ。
開演時間は相変わらずはっきりしない。しばらくは時間がありそうなので、わたしはいつものように舞台の下見をすることにした。
竹で仕切られた舞台が境内に用意され、すでに、ガムランのセッティングが終わっていた。
寺院の外に出ると、雑貨や食べ物の露店が軒を並べ賑やかな祭りの雰囲気を盛り上げている。こんなところは、日本の縁日に似ている。あっちの露店を覗き、こっちの露店を覗き、懐かしさを満喫。そこかしこの露店に、チリ・スマラのメンバーの顔も見える。
道端に坐り込んで、ローソクの小さな明かりを頼りにサテ・アヤム(鶏肉の串焼き)を売る少年がいた。香ばしい匂いに誘われて、一人前を包んでもらった。
寺院の横にある小さな雑貨屋のベンチに腰を下ろし、砂糖抜きのコピを頼んだ。
ベンチの反対側の端には、痩せた身体に穴のあいたシャツを着た白髪の老人が座っていた。老人は物思いにふけるわけでもなく、なかば思いは古(いしえ)にといった顔つきで、残り少なくなったコピのグラスを見つめている。この時間、この椅子に腰掛けて1杯のコピをすするのが老人の日課になっているのだろう。
わたしは、焼きたてのサテをほうばりながらコピに手をのばした。こういった店では、サテなどの持ち込みをしたところで、とがめられることはない。
老人が、日焼けした真っ黒い顔をわたしに向けた。その顔には、バリの渓谷にも似た深いしわが何本も刻まれている。しわは、その人の年輪。この老人は、どんなバリを見てきたのだろう。言葉が通じれば、たくさん質問したいところだ。
右手をごく自然に差し出し、つぶやくような小さな声で老人が話しかけてきた。言葉はバリ語で、まったく理解できない。しかし、サテをくれ、お金をくれと言う仕草ではない。
「タバコを持っているか? 持っていれば1本分けてくれないか?」
わたしの勘では、そう言っているようにみえる。
わたしは、ポケットからグダン・ガラムを取り出し、箱から2本のタバコを抜いた。1本を老人に手渡し、1本を自分の口にくわえた。
「今から踊るのか?」
老人は、正装姿のわたしをバリ人と間違えているのか、それとも、インドネシア語ができないのか、表情も変えずバリ語で話しかけてくる。
わたしは満面の笑顔で「ヤァー(そうだ)」と答えた。
ふたりのグダンガラムから、丁子のはぜる音が同時にした。
丁子の入ったタバコは一般にクレテックと呼ばれ、グダン・ガラムもそのひとつだ。フィルターに甘味料が入っていて、唇をなめると甘い。火をつけると、パチパチと丁子がはぜ、火の粉が飛ぶ。わたしのシャツやズボンに、穴があいているのはそのせいだ。
愛煙しているのは、グダン・ガラムの中でも、もっともポピュラーなグダン・ガラム・フィルターという銘柄だ。箱の表は、ワイン・レッドのベースにゴールドの枠とロゴ。中央には、濃紺色でグダン(倉庫)のロゴ・マークが描かれている。倉庫には、ガラム(塩)が納められているのだろう。
タバコが喫いたい時には食事のマナーと同じように、まず、隣り合わせた人にすすめてからにしている。この時グダン・ガラムだと、バリ人の手が素直に出る。この方法は、私が編み出した現地の人とコミュニケーションをとる最善のテクニックだ。
境内の中から、ゴング(銅鑼)のひと振りが聞こえた。ガムラン・メンバーの集合の知らせだ。
雑貨屋から塀越しに境内を覗くと、ユニフォーム姿のメンバーが颯爽と登場。と言いたいところだが、彼らは四方八方からゾロゾロと集まってくる。それでも、真新しいユニフォームが照明に映え、どことなくメンバーにも威厳が感じられる。そして、どことなく緊張しているように見える。
観衆が、舞台を遠巻きにして見ている。バリ人は、いきなり最前列に坐ることはない。その変わり坐りたい時には、人の前だろうが狭いところだろうがお構いなしに割り込んでくる。ある時は控えめに、また、ある時は無遠慮に振る舞う彼らのマナーは、未だに理解できないもののひとつだ。
再び、ゴングが打ち鳴らされた。演奏のはじまる合図だ。
わたしは、残りのコピを飲み乾した。
「踊りに行きます」
身振り手振りで老人に伝えて、腰をあげた。
老人は、無表情な顔をこちらに向けて、グダン・ガラムを持った右手を軽く振った。わたしも、軽く右手を上げ、ワルンを立ち去った。


コンピアンが、慌ただしげに控えの場に飛び込んで来た。
「そろそろ、衣裳を着替えるように。これ食事です」。ナシ・ブンクスを置いていった。
ブンクスとは包むという意味で、ナシ・ブンクスはナシ・チャンプールを紙で3角形に包んだ弁当のこと。(ナシはご飯、チャンプールは混ぜるという意味。ナシ・チャンプールは、ご飯に各種総菜を盛り合わせたインドネシア料理)
コンピアンもこれから踊るというのに、今まで、踊り手の送り迎えに忙しかったようだ。グループのリーダーとしては、雑役も多い。
その忙しい送迎の途中、バイクの事故を目撃し、倒れている怪我人を放っておけず親切にも病院まで連れていったと言う。忙しい中でも、こんな行動のできる彼に感心してしまった。
更衣室兼控え室のあずまやのまわりは、さきほどより子供たちが増えている。眼と鼻の先で、着替えの踊り手の一挙一動をジィーッと見つめている。掴みどころのない、浮遊した視線だ。
こんな時、いつもリアクションに困ってしまう。視線を気にせずただ黙々と着替えるか、それとも、照れ隠しに子供たちに向かっておどけてみせるか。今さらながら、わたしに穴のあくほど見つめられた踊り手さんたちが、こんな風に困っていたのだと思うともうしわけなくなる。それとも彼らは、こんなことにはまったく動揺しないのだろうか。きっと一芸に秀でた人は、こんな些細なことで動揺しないだろう。
着替えのために上半身裸体になる。
6月のバリは、裸体になると少し肌寒さを感じる。
日本の夏である7、8月は、バリでは冬だ。冬という表現が不適当なら、晩秋の寒さとでも言おうか。熱帯の島に寒い季節はないと誰しもが考えるが、雪は降らないまでも山間部では吐く息が白く見えることもあると。薪を焚いて、暖をとるほど寒い村もあると聞いている。
8月のウブドは、それまでブランケット1枚でよかった夜具が、もう1枚必要になる。時には、靴下をはいて寝るほど冷え込む。こたつが恋しくなる夜もある。夜の外出には、長袖のシャツかジャンパーを着込むほどだ。
歓迎の踊りを踊る10歳前後の女の子たち6人も、子供たちに見つめられている。
同世代の女の子たちの純真な瞳が、憧れ色に光っている。彼女たちも、オダランの舞台で踊りたいと考えているのだろう。
歓迎の踊りが終わって、彼女たちが帰ってきた。
今は、バリスの曲が聴こえる。
わたしは、トペン・ゴンブランを踊る。
トペン・ゴンブランは、滑稽な踊りだ。
レゴンを踊る日本人女性ふたりが、舞台に向かった。
その次が、わたしの出番だ。
わたしのトペン・ゴンブランのお面は、赤ら顔に厚い唇をOの字に尖らせ、怒っているように見えるが、動きによってはユーモラスな表情になる。ボサボサの長髪で、左右の拳を握りしめ飛び跳ねる。
ゴンブランのような庶民のキャラクターはボンドレスと呼ばれ、踊りに即興が許される。わたしは、できるだけ笑いを誘う踊りをしたい。技量を見せて唸らせるよりも、笑いで心を和ませるほうが好きだ。


トペン・ゴンブラン
ゴンブラン


幕から出るにも、笑いのために意表をつくさまざまな工夫をする。
こんなふうにして、幕から出たことがある。
ガムランの演奏がはじまる。
わたしは2枚の幕の間から、顔だけを覗かせる。この時観衆は、トペン・ゴンブランのお面を見ただけで笑う。笑いが出たところで、素早く顔を幕から引っ込める。観衆は、次にどんなふうにしてトペンが出てくるか期待している。
わたしは、その場の思いつきで幕を揺するのを友人に頼んで楽屋から外に出た。演奏者もまったく知らない。彼らも観衆と一緒になって、踊り手が揺すっているはずの幕に注目している。踊り手が指示しない限り演奏が前に進まないし、終わることもできない。
全員の視線が今、舞台の幕に注がれている。
このまま踊り手が出てこなかったらどうなるのだろう。延々と演奏が続くのだろうか。なんて無責任なことを考えながら、わたしも観衆のうしろで観衆になっている。見ていて、面白くて笑いを堪えるのがたいへんだった。
そのうちに、観衆がひとりふたりと、うしろにいるわたしに気づきざわめきはじめる。
騒がしい観衆の中にわたしがいるのを、演奏者も気づく。
やおらわたしは、あたかも突然の乱入者のように舞台に駆け上がっていく。
この幕開けは、受けた。
そして、今夜の登場の仕方はというと。
その前に少し、インドネシアの国内事情とバリ島事情を説明する必要がある。
この1週間、日本からの飛行機は暴動の危険から渡航をキャンセルする人が増え乗客は少ない。5月21日の乗客は、友人夫妻ともう1組の夫妻の4人だけだったという。欠航する航空会社も出ている。
そしてこの日は、スハルト政権32年間の長期独裁に終止符が打たれた歴史的な日にもなった。副大統領のハビビが大統領に昇格したが、彼もスハルトの息のかかった人物で、あまりクリアーな政治は期待はできそうもない。
現在のインドネシア経済危機を打破できるのは、メガワティ女史以外ない、と次期大統領候補として彼女の人気は急上昇。
メガワティは、インドネシア建国の父スカルノ初代大統領の長女。スカルノがバリをこよなく愛していたことから、バリ人もスカルノを尊敬し、ひいてはメガワティびいきだ。
そんなことからメガワティの率いる政党ペー・デー・イー(PDI=Partai Demokrasi Indonesia)のシンボル・カラーの赤色が今、バリ島中を覆い隠す勢いである。
敵対するゴルカル(Golongan karya)のシンボル・カラーである黄色のバイクに乗っていた知人が、ゴルカルの一員と見なされ、赤い群団に取り囲まれ危うく袋叩きに合うところだったと、興奮気味に話していた。黄色のシャツを着ているだけでも危ないのだ。
安全を保証される通行手形は赤色で、シャツ、帽子、バイク、今はなんでも赤だ。車には、外から一目でわかるようにP・D・Iのステッカーを貼ったり、旗を見えるところにつけていないと、頻繁にパレードしている赤い群団に通りすがりの一撃に合う。わたしは、バイクのバック・ミラーにP・D・Iの赤色の小旗をつけている。
そして本題の戻して、今夜の登場の方法だが。
その通行手形の赤色の旗を小道具に使おうと、さきほどバイクから外してきた。
幕の間から、赤色の小旗を突き出しガムランに合わせて左右に大きく振った。
観衆が、小旗を指差して歓声をあげた。
小旗を引っ込める。
もうひとつ意表をつきたいが、今夜の舞台は屋外のオープン・スペース。観衆に見つからずに、うしろにはまわれない。しかたがないので、小旗を背中に差し込んで、幕を勢いよく開け舞台に飛び出した。
「メガワティ! メガワティ!」
大人から子供まで、全員のメガワティ・コールがかかった。
やはりメガワティの人気は凄い。幕開けは成功だ。
舞台に、犬が迷い込んできた。
わたしは犬を追い出そうと、おどけるようにして脅かす。そんな脅しにお構いなしに、犬は舞台を走りまわる。それを見て観衆が沸く。こんなことも村人は笑いにしてしまう。それならば、とわたしは犬を相手に踊ることにした。踊りに合わせるように、犬は動きまわる。
思いがけない犬との共演で笑いを取るとこができ、上機嫌で踊りを終えた。
はたして、これがバリ舞踊なのかと問われると困ってしまうが、とりあえず村人が喜んでくれたことは確かである。


                   


トゥンクラ村の奉納舞踊を、友人がデジタル・ビデオで撮ってくれていた。もちろん、わたしの踊ったのも入っている。
今まで何人もの友人から、踊っているわたしの写真をプレゼントしてもらった。写真はどれも、格好良く決まっている。そんな素晴らしいポーズの写真を見て、ビデオで見たいと考えた。
数日たって、ダビングされたビデオがわたしの作業場に届けられた。
喜び勇んでテープを持ち帰り、さっそくテレビのつけ、ビデオのスイッチを入れた。
・・・テレビに映し出された、はじめて見る自分の踊る姿に唖然とした。開いた口が塞がらないとは、このことだ。本人としては、もっと巧く踊れていると思っていたのに。恥ずかしくて、凝視できない。
写真はカメラマンの腕で、ナイス・ショットの可能性がある。ところがビデオは、踊り手の技量がそのまま映し出される。そんなことも考えず、踊りが巧くなったと勘違いして、ビデオをダビングしてもらった。よせばよかったと「後悔、先に立たず」大後悔の汗が噴き出す。
「ビデオを見て、悪い部分を直したら」と心温まる意見もあるが、まったく見るに耐えない代物だ。しかし、これが現実だ。この現実を直視しなければならないのは、わかっているが、今のわたしには、自分の恥部を見る勇気がない。ビデオ・テープは、誰が訪ねて来ても見られることのないように、二重包装して引き出しの奥にしまい込んだ。
そんな結果になろうとは夢にも考えず、わたしの奉納舞踊は上機嫌で終わった。
そして、チリ・スマラの初遠征奉納も大成功のうちに終わった。
次の日、デサ寺院の奉納舞踊で事件が起きた。
この夜は、バンリから招いたグループのチャロナラン劇が奉納された。その中で、死体役の男性が終演後、突然倒れ、バンリへ帰り着く前に車の中で亡くなったと言う。
普通、死体は作り物のことが多い。それは、人間が演じた場合、演者が死ぬこともある危険な役だからだ。
前々から話しには聞いていたが、実際に身近に起こったのははじめてだ。
詳しく聞いてみると。
劇が上演される前、トゥンクラ村の世話役が「お祈りをしてください」と、お願いしたにもかかわらず死体役の男性は断ったそうだ。
村人は、それが原因ではないかと危惧している。
「わたしは、レヤックに魔術をかけられたのだと思う」。コンピアンは全身を震わせて、そう言った。
わたしの首筋にヒヤリと寒気が走り、全身に鳥肌がたった。コンピアンの腕にも、やはり鳥肌がたっていた。
霊的に強い聖獣バロンや魔女ランダを演じる者は、必ず、踊る前とあとにはお祈りをする。ランダに立ち向かう大臣役やトランスの演者も、悪霊がのり移らないようにお祈りを欠かさない。
バリの宗教儀礼の奥深さを、かいま見せられた事件だった。




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