「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫ジェメン寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その九:ジェメン寺院



バリの道路は、海岸線沿いに走る幹線道路以外、すべて山側に向かって走っている、と言っても言い過ぎではない。
小さな島に、2,000メートルから3,000メートル級の山々が連なり、山に降った雨は、短い河川をいっきに流れ、深い渓谷を刻んでいく。山側に向かう道は、両側を深い渓谷に挟まれた尾根づたいの道となる。渓谷は、橋を架けるに容易でないほど深い。困難な工事を強いられたろうと思われる橋は、あみだくじの横線ように時々あり、かなりの急勾配になったところにかかっていて、高度な運転テクニックを要する危険な道だ。
バリでは、山側をカジョ(北)、海側はクロッド(南)と言う。南部バリではカジョは北を表し、クロッドは南に当たるが、北部バリでは南に山があり、山側の南をカジョと呼び、海側の北をクロッドと言う。これは、山側が聖なるところ、海側が不浄なところという宗教観からくる呼び方だ。
ウブドの中心から直線で4キロに位置するスバリ村は、ウブド郡に隣接するテガララン郡に属する、両側を渓谷に挟まれた村。スバリ村を包むふたつの川は、ウブドのチャンプアン橋で合流し1本の流れになる。徒歩では、このチャンプアンから尾根づたいの1本道だ。車はかなり北へ上ったテガララン村から横道に入り、橋を渡り南に下るという。コの字に走る回り道をするわけだ。のんびり歩いて40分ほどで行ける村は、不思議なことに、車でも40分ほどかかる。こんな不思議な現象が起こるのは、渓谷を走る道路状況にある。


                   


スバリ村のグスティ・ヌラーから「ジェメン寺院の奉納舞踊で踊らないか」と誘いがあった。
6ヶ月前にも、この村のダラム寺院で奉納舞踊させてもらった。その時に、心地良く踊ることができたので、喜んで引き受けた。再びお呼びがかかったのは、その時の評判がよかったのだろう、と本人は勝手に思っている。
初めてスバリ村で奉納舞踊させてもらったダラム寺院の時には、外国人が踊っているからと演奏者も好意的で、下手なことも失敗も大目に見てくれた。それも2度目となるとそうもいかないだろう。先回より少しでも進歩していなくては、演奏者に申し訳ないし恥ずかしい。
奉納舞踊は、1週間後だ。 ラプラパン村のダラム寺院のオダランで、教えることをあまりしないアノムから「教えてあげる」と言われたことだし、その時の奉納舞踊で、太鼓との息がもうひとつ合わなかったのも気になりだした。この機会に勇気を奮って指導願おうかと。
わたしも、もう初心者ではないし、少しは基本もできていると思う。アノムの手を煩わすことも少ないだろう。それに今さら、幻滅したからといってつき合いが解消されることもないだろう。
こうして、5年の歳月を経て、ついにアノムから踊りを習う決心をした。
アノムの家は、スウェタ通りの西側に平行して走っているカジェン通りの奥にある。スウェタ通りは東西に走るウブド大通りに交わり、モンキー・フォレスト通りに鍵型につながる。この変則十字路がウブドの中心地だ。スウェタ通りの東角にウブド・サレン王宮がある。
かつて王宮は、政治と経済の中心であった。王宮の近くには必ず市場があり、王様は物見台から市場の盛況を見て経済を推測した。時には、朝市に集う女性たちを眺めたり、夕涼みをしたことだろう。サレン王宮の角に残る物見台が、当時を忍ばせる。
カジェン通りは、1メートル四方のコンクリート板が敷き詰められた石畳風のお洒落な道だ。数年前、村人の寄付によって造られ、1枚1枚に寄付した人や店の名前が手書きで刻まれている。旅行者と思われる名前もいくつかある。石畳が終わると、家並が終わる。その奥は未舗装の土の道がしばらく続き、やがて、細い道になる。細い道は、徒歩か自転車、バイクでなら、さらに奥のライス・テラスまで行くことができる。


カジェン通り


勇気を奮って来たものの、形式ばって教えてもらうのも気恥ずかしい。あくまでも、ふらっと立ち寄り、そのついでに教えてもらうことになった、という自然な成りゆきを装うために、今日は練習着は持って来ていない。どこまでも優柔不断な自分の性格が、嫌になってくる。
塀の脇にバイクを止め、門をくぐった。
「家に来るように」と言われてから、すでに1ヶ月近くも経っている。まだアノムは、教えてくれるだろうか。この場の及んで、まだこんな心配をしている。
家寺の横を通り内に入ると、中央の1段高くなった建物のテラスにアノムと奥さんのアユの姿が見えた。長椅子に坐って西洋人の夫妻と思われる来客とくつろいで話しをしている。長椅子は、ワルンの木製ベンチとは違い、クッション付きの豪華な応接椅子だ。こんな時、彼らの生活レベルを推し量ってしまうという下品な性格が、わたしにはある。
アノムは、アロハシャツに折り目の入ったスラックス姿。アユは、お洒落なシャツに粋なカマンを巻いている。ふたりは普段でも、きちんとした身だしなみをしている。
わたしはアノムに、眉を動かす挨拶を送り「あくまでもふらっと」という顔でテラスの端に腰を掛けた。
陽射しの熱い、昼下がりだ。
しばらくして、アノムが長椅子から身を乗り出して、わたしに話し掛けてきた。
お互いの近況とあたりさわりのない軽口を交わしながら、わたしは、いつ踊りを習う話を切り出そうかと躊躇している。
「3つの間違いを教えてください」。やっとの思いで、お願いした。
「そうか、よしよし、やっと来たか」とでもいうように、アノムの顔がゆるんだ。
西洋人の来客に失礼することを告げて、アノムはわたしに「こっちへ来い」と促す。アノムのあとについて、敷地の奥にある練習場へと向かった。
練習場につくと、アノムはアロハシャツを脱いでタンクトップ姿になった。
「まず、基本が間違っている。踊りには決まりがある。それが出きてからアレンジするのはよいが、基本にもとづいたアレンジでないと演奏者が迷ってしまう」と言うが早いか、サトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッ、いきなり拍子を数え踊り出した。
アノムがわたしの前で踊っている。わたしは、彼のうしろについて真似をした。
格好よく踊るアノムの姿を見て、当然と言えば当然だが、あまりの違いに愕然とし恥ずかしさで身体が硬直する。
「イトサンは背が高いから、重心をしっかり下ろさないと棒立ちに見える。できるだけ腰を下げるように」
彼の背の高さに合わせようとすると、高さを埋めるために20センチは重心を低くする必要がある。アノムのこの小さな身体が舞台に立つと大きく見える。これが磨かれた芸のなす技だ。
「両手は下げずに、高い位置で構えるように」
アノムの眼は生き生きと輝く。踊りが大好きなことがよく伝わってくる。わたしは、言われる通りにした。
「トペン・パテは大臣の役、威厳を持って力強く踊らなくてはいけない」
首筋に汗をかいて、真剣に教えてくれる。
「イメージとしては、城を守っている大臣が、くせ者はいないかと正面を見据える。すると、左の方角に何者かの気配を感じる。しかし、そこには誰もいない。再び正面を見据える。くせ者が右に移動したのを感じる。すみやかにそちらを見るが、くせ者はいなくて、動物のようだ。大丈夫だと安心して正面を見る」
正面、左、正面、右。正面と見据えるのが、トペンの基本だ。
舞台の四隅を、まんべんなく踊ることも基本だ。これは、東西南北、すべての神々に対する感謝の意を込めるという意味だ。あるところでは驚いてみたりと、的確でわかりやすいアノムの指導にわたしも踊れるつもりになってくる。
20分ほどの練習だったが、しっかり汗をかいている。半分は、緊張からくる冷や汗だろう。
「3日も習えば大丈夫だ。また、明日来るように」
そして、親切にも、足運びと動作の名称をメモ用紙に描いてくれた。
そんな親切にも報いず、わたしはこの日の1回だけの練習で再び足が遠のいてしまった。やはり、習っていても緊張してしまうのだ。また、真剣に教えてくれることにも恐縮してしまう。なんと言っても、わたしの憧れの人なんだから。
アノムには申しわけないが、こんな生徒もいるのだとわかって欲しい。
いつかは、こんな気持ちを打ち明けなくてはと思っている。なんて、まるで憧れの女性にでも対する気持ちのようだけれど。そして、指導料も払っていない。「なんて生徒だ」ときっと怒っているだろう。3つの間違いを、具体的に教えてはくれなかった。
自分で、気付けと言うことか。


                   


今日から3日間、ジュメン寺院のオダランだ。
ジュメン寺院は、村に必ずあるカヤンガン・ティガと呼ばれる3つの寺院、デサ寺院、プセ寺院、ダラム寺院とは異なる、それより以前からある由緒ある寺院だ。
3晩、芸能が奉納される。コンピアンとマデ・サディオとわたしの3人は、2日目にトペン舞踊を奉納することになった。
初日の今日は、この村に古くから伝承されている奉納舞踊のバリス・グデが奉納される。バリス・グデは、戦士が戦場におもむく様子を現した群舞だ。アノムの18番であるバリス・トゥンガルは、この踊りから創られた。アノムのバリス・トゥンガルは、彼の技量が充分に発揮できるように、さらにアレンジされている。
大勢の戦士が、槍や盾を手にして整然と、そして、勇壮に踊る。スバリ村に伝わるバリス・ジャゴーは、10数種類あるといわれるバリス・グデのうちのひとつだ。
村道をそれて少し奥まった森の中に、ジュメン寺院はある。境内に入ると、左手にあるあずまやでガムランが演奏されていた。しばらくして、演奏が終わった。
演奏者たちがガムランを持って立ち上がった。それまで、境内に坐っていた村人も、同じように立ち上がった。ガムランは灯油ランプに先導され、寺院を出て村道に向かった。村道までの土道は、昨夜の雨でぬかるんでいる。
このところ、晴れ間が少なく雨の降る日が多い。そろそろ雨期かもしれない。雨期といっても、日本の梅雨のように1日中ジトジトと降り続くことはない。まあスコールが3時間も暴れ回れば、1度は止んでくれる。南国のカラッとした性格の雨を、わたしは気に入っている。緑はいっそう瑞々しくなり、おいしい果物が豊富に出回る季節でもある。
ランプの明かりを頼りに、足もとのぬかるみを避けて前に進む。村人は夜目がきくのかスタスタと進んで行く。それにひきかえわたしは、忍者のようなすり足でオズオズとついていく。
スバリ村の村道は、北に向かって、時たま段差のあるなだらかな上り坂だ。集落は、この南北に走る村道に沿ってある。
ガムランは村道に出ると、更に北に向かって行った。
夜空には真っ黒な雲が厚くたちこめている。満月だというのに、墨でもこぼしたような暗闇だ。ランプが時折、暗い道を掃くように照らしていく。
この村に電気が灯ったのは、3年前のこと。村道は今でも、外灯がない。道の両側は3〜5メートルの高台になっていて、家屋はその上にある。家々から洩れる明かりも道まで届かない。
村のほぼ中央にあたるところに来るとガムランは下ろされ、今来た方角に向けて、道を遮るようにして並べられた。ランプがガムランの前に置かれた。村人たちがガムランを囲むようにして、しゃがみ込んだ。
バリス・ジャゴーは、路上で踊られる。
ランプの明かりが、眼の優しい。スポット・ライトでないのが嬉しい。ランプのなかった時代は、暗いままで舞踊がおこなわれていたのだろうか、それとも、椰子油のたいまつでも焚いていたのだろうか。それにしても、月明かりの下で演じられるバリス・ジャゴーは、さぞかし、神秘的だったことだろう。
演奏者と村人は、遠くジェメン寺院の方角に眼を凝らしている。うっすらと見えるのは、道いっぱいに広がった戦士の衣裳に身を包んだ隊列だ。わたしの坐っている位置から隊列まで100メートルは、離れているだろう。全員が槍を持っているようだが、はっきりとはわからない。
いきなりガムランの強烈な音が、耳元で弾いた。バリス・ジャゴーのはじまりだ。バリス・ジャゴーの隊列は進んでは戻りしながら、じわじわとこちらに向かってくる。やがて、顔が見える位置まで隊列が近づいて来た。
4列縦隊24人の踊り手は、全員が男性で年配の顔が多い。土に挑む農民の顔だ。土臭い素人集団の踊りは、決して優雅とは言えないが、土着的な雰囲気を持ち、気迫に満ちた踊りに圧倒された。
村の男たちによって受け継がれていく、スバリ村のバリス・ジャゴーは、いぶし銀のように渋い。ジェメン寺院のオダランだけで奉納される、伝統芸能だ。
ガムランの前で30分ほど、かけ声も力強く勇壮にバリス・ジャゴーは終わった。


バリス・ジャゴー


奉納舞踊が終わると、道の中央に用意された祭壇の前に、踊り手を前列にして村人全員が坐り込んだ。僧侶の鳴らす透き通った鈴の音を合図に、全員が額の前で両手を合わせるようにして、お祈りがはじまった。
このお祈り風景は、何10年も、ひょとすると100年以上も前から変わっていないのかもしれない。
騒音がない。自動車もバイクも通らない。BGMは、透き通った鈴の音と虫の声。微風に揺れる梢の音。自然の音が耳に心地いい。
祭壇の彼方、北の空に星がひとつ見えた。しだいに、星の数が増していく。厚くたちこめていた黒い雲が流れ出し、銀色に輝く満月が顔を出した。
このあと寺院では、ラプラパン村のオダランで観た「トペン・テゲッ・チャナン・サリ」の奉納舞踊がある。素晴らしい踊りは、何度観ても飽きない。そして、勉強になる。わたしは、寺院に残ることにした。
ガムランが寺院に戻っていった。さきほどとは違う建物に、ガムランは運び込まれた。
竹と椰子の葉で仕切られた楽屋を覗くと、縁台に坐っているリーダーのウィンディ氏の顔が見えた。彼、ひとりだ。
「今夜は、踊らないのか?」。親しみをこめたウィンディ氏の声。
できれば一緒に踊りたいのですが、と言う言葉をわたしは呑み込んで「はい、明日の夜、友人たちと踊る予定です」と遠慮がちに答えた。


                   


昨夜、ウィンディ氏がトペン・パジェガンを演じたと同じ舞台で、今夜は、痩せ(コンピアン)、デブ(マデ・サディオ)、のっぽ(わたし)のトリオが踊る。演目は、わたしのトペンがふたつに、痩せとデブのトペン舞踊劇だ。
まずは、アノムから手ほどきを受けた、トペン・パテだ。と言っても1度だけ。それも、たったの20分。こんなことで成長は見られないだろうが、アノムから習ったというだけて、お守りを持ったような自信が沸いている。
ガムランは、6ヶ月前と同じ村のグループだ。
「お前、また来たか!」
幕の間から、演奏者が笑顔を送ってくる。舞台のある建物は小さくて、村人は建物の外で見ている。村人が好意的だということもあって、今夜のわたしは落ち着いている。
幕から踊り出ると「大丈夫か?」という顔をしていた太鼓奏者のワヤンが「おっ、前回と違うぞ!」という、納得した顔になり楽しそうに演奏をはじめた。
アノムに教えられた通りに、両肩を小さく上下する動作で合図を送ると、面白いようにガムランの音がついてくる。今までの合図は、手首を軽く動かすだけだった。合図が巧く送れるようになると踊りに余裕が生まれ、ためができるようになる。イメージ通りに踊ることができた。トペン・パテもトペン・ムニエールも、どちらも上々のできだった(と思う)。


トペン


「前回より、タイミングのとり方が巧くなって、演奏しやすかったよ」
太鼓奏者のワヤンが、肩を叩いてねぎらってくれた。
演奏者たちの何人かが「バグース(よかった)! バグース!」と声をかけてくれた。
これも、アノムのご教授のたまものだ。しかし、このバグースは、前回よりはよかったという意味だ。こういう時は、謙虚な心で受け止めなくてはならない。
トペン舞踊劇が、はじまった。
しばらくして、コンピアンが幕の裏に引き込んできた。トペンを外しながら「つぎ、イトサン出て」と、いきなり指名してくる。
仲間がトペン舞踊を演じている時は、自分の出番が終わったからといって着替えることはしない。全員の踊りが終わるまで、トペンと冠を籠の上にのせて、何事もなく終わることを祈って待つことにしている。もしかして出番があるかもしれないと予感はしていたが、いざ指名されてみると浮き足立ってしまう。
わたしは、病気の老人を演じることになった。
シドゥモン村の祭司の家寺での奉納舞踊では、空振りに終わった老人役。あの時は。すっかり意気消沈してしまったが、今夜は、1度成功を経験しているマデ・サディオが相方だ。彼の軽妙なアドリブに助けられて、今夜はきっと巧くいくだろう。
コンピアンの「はい、出て」の声を合図に、わたしは幕から出た。腰の曲がった老人は、おぼつかない足取りで、今にも倒れそうだ。マデに声をかけられても、まったく聞こえないようだ。舞台正面前まで来て、やっと声が聞こえたようで立ち止まる。そして、ゆっくりと振り返る。
「おぅ、そんなところにいたのか。見えなかった」と言わんばかりだ。
よぼよぼと、舞台中央にいるマデに近寄っていく。
「どこから来ましたか?」
「日本人ですか?」
「宗教は仏教ですか? 神道ですか?」
本来はバリ語だが、わたしのために、彼はインドネシア語で話しかけてくる。
観衆は、日本人が演じているのはわかっている。
老人の返事は「アーアー、ウーウー」と唸るだけで、言葉になっていない。
急にお腹を押さえて
サキッ、サキッ(痛い、痛い)」
ろれつのまわらない、空気の抜けるような声で訴える。
それを見て驚いたマデは
「お腹が痛いのか?」
「いや、歯が痛いんだ」
老人は、そう答える。答えながら老人は、押さえている場所が違うのに気がつく。そうとうぼけている。
老人は、おもむろに懐から歯ブラシを取り出した。わたしの衣裳バッグには、どういうわけか歯ブラシが入っていた。今夜の即興劇は、小道具に歯ブラシを使うことにした。
歯が痛いのは、虫歯かあるからだ。歯を磨けば、痛みも取れると老人は思っている。ところが、手は不自由で小刻みに震えている。歯ブラシは、顔の前を行ったり来たりで、思うように口の中におさまらない。
老人はしかたなく歯ブラシの方へ顔を近づけようとするが、今度は、歯ブラシが逃げて行ってしまう。挙げ句の果てには、震える手に持つ歯ブラシが顔に向かってくる。向かってくる歯ブラシを、顔を左右に動かして避ける。
「大丈夫ですか?」
マデが心配顔で聞く。
その言葉を無視して、歯ブラシを持った震える右手を左手で押さえ、口へ無理矢理持っていく。震える手で、歯が磨けるというのがオチだ。
この間、マデは老人の不可解な行動を、観衆にわかるように解説している。
マデがバリ語で、何か聞いてきた。
「シン、ナワン(知らないよ)」。老人は、バリ語で答えた。
観衆が、大爆笑した。日本人がバリ語をしゃべったのを喜んでいるのだ。
今回も、マデ・サディオのアドリブに助けられて、わたしの芸もさまになった。自己採点は花マルだ。
老人は、おぼつかない足取りで、幕のうしろに消えた。
少しの言葉でも、外国人がバリ語を話すとバリ人は喜んでくれる。こんな時、もっとバリ語が話せたら楽しいのにと、いつも思う。
太鼓奏者のワヤンが「来年のオダランにも必ず来て、踊って欲しい」念を押すように言った。
わたしのつたない踊りに、喜んでくれた村人たちに、感謝感謝である。


                   


今夜は、オダラン最終日。 奉納芸能はチャロナラン劇だ。チャロナラン劇と聞くと、腰が落ち着かない。3晩続けてジェメン寺院に通うこととなった。
スバリ村へ向かう途中、テガララン村あたりから雨が激しく降り出した。帰り道ならこのまま突っ走ってしまうところだが、今から芸能を観るのに、濡れては風邪を引いてしまう。開演時間には間に合わなくなるが、雨が小降りになるまで土産物屋の軒先で雨宿りをすることにした。
小雨の中を走り、ジェメン寺院に到着した時には雨は止んでいた。すでに、チャロナラン劇ははじまっている。
ちょっと前まで、ここも大雨だったのだろう、境内にはところどころに水溜まりができている。雨に濡れた境内にはビニール・シートが敷かれ、その上でチャロナラン劇は行われていた。ガムランは建物の中で演奏され、観衆も建物の中で観賞している。
雨のため開演時間が遅れ、たった今、バロンの踊りが終わったばかり。今夜、登場したバロンは虎のバロン・マッチャンだ、と村人が教えてくれた。
バロンには数種類ある。
われわれ旅行者がよく眼にするのは、獅子のバロン・ケケだ。バロン・マッチャン(虎)のほかに、バロン・バンカル(豚)、バロン・シンガ(ライオン)、バロン・ルンブー(牛)などがある。そして、トルニャン村のバロン・ブルトッ。変わったところでは、大きな張り子人間、バロン・ランドゥンがある。
ビニール・シートの舞台では、魔女ランダの弟子シシアンの踊りがはじまった。
踊り手は、ふたり。ひとりは、スバリ村に古くから残るジョゲッ・ピンギタンの踊り手のコルミさんだ。ひとりだけに伝承されるスバリ村のジョゲッ・ピンギタンの踊り手に、コルミさんは神によって選ばれた。バリならあってもおかしくない話だ。
ふたりの踊り手は、それぞれが自由に個性的に踊っている。薄暗がりの中、どちらも恐ろしさの漂う表情と振りつけで、魔女そのものだ。神がかっていると言ってもいい。
お爺さんがひとり、中央に出て踊り出した。女性的に腰をくねらせ、なかば放心状態の踊りだ。隣にいた村人が「あのお爺さんは、踊るのが好きなんだ」と教えてくれた。
シシアンが退場すると、場内の照明が明るくなった。
顔一面に白いどうらんを塗りたくった村人役がふたり、おどけた仕草で登場してきた。先ほどまでのおどろおどろした妖気ただよう雰囲気が、今度は陽気な場面に変わった。ひとりはグスティ・ヌラーの弟マデだ。マデが、よく通る声でセリフを喋っている。
つづいて、ふたりの村人役が登場してきた。ひとりは妊婦に扮装した男性だ。みんながよく知っている人物なのだろう「○○○が女装している」と指を差して笑っている。劇は、疫病が流行って困っていることを、コメディ・タッチに展開してゆく。
「スバリ村の人々は、できれば村人たちだけで奉納舞踊したいと考えている。今回の役者は全員が村人で、衣裳もすべて村人の手作りです」。グスティ・ヌラーから、こんな話しを聞いて驚いた。
昔はどこの村も、こんなふうに、村人たちによって芸能が奉納されたのだろう。村人総出の手作りの祭りに、出演する者も鑑賞する者も、学芸会の発表にも似た興奮と楽しみを得たことだろう。村の生活に、芸能がいかにも溶け込んで民衆のものになっているかを、スバリ村で眼の当たりにした思いだ。決して技術的に巧いとは言えないが、これが本来の奉納舞踊だという気もする。
突然、いくつかの明かりが消され、あたりが暗くなった。
境内の四隅から、豆電球の薄明かりに照らし出されて、奇怪なお面の4人組が現れた。魔女の手下の悪霊たちだ。塗料がところどころ剥げているところをみると、かなり年代物のお面のようだ。それが、かえって恐ろしさを醸し出している。
劇中の村人役には、悪霊の姿が見えないことになっている。見えないのをよいことに、悪霊たちは村人にいたずらをする。村人は、得体の知れないものの気配に怖がっている。これにも、観衆は大爆笑だ。
遠くから、シンバルの激しい音が聴こえてきた。腕時計を見ると、深夜0時を少し過ぎている。悪霊が徘徊する時間だ。先ほどから、夜霧が境内を乳白色に包み込んでいる。シンバルの音は、どんどん大きくなって寺院に近づいてくる。霧に霞んで、数々の炎が見える。時々、奇声が上がり炎の柱が立つ。
白黒模様のサロンを腰に巻いた上半身裸の青年たちが、手に手にたいまつをかかげ寺院に入って来た。竹で造った御輿があとに続いている。御輿の上には、白装束の作り物の死体がのっている。これは、葬式のシーンだ。
境内で地の霊に供物を捧げると、御輿は下がって行った。
誰もいなくなった舞台に、いよいよチャロナラン・魔女ランダの登場だ。霧の中から現れた魔女ランダの姿を見て、村人は潮が引くように後ずさりして腰を低くした。立派とは言えないが、これもかなり年代物のお面で迫力がある。わたしの全身に、鳥肌が立っている。
グスティ・ヌラーが、わたしを見つけて近づいて来た。村人と同じ正装をし、大勢のなかに混ざって坐っているにもかかわらず、バリ人は眼ざとく見つける。バリ人の眼がよいのか、それともわたしがよほど浮いているのか。
「今夜の魔女ランダは、この寺院に古くから伝わるお面が使われています。このランダを10メートル以内で見ると、あとから熱が出るから気をつけてください」と注意された。
そんなばかなと思いながらも、できるだけ10メートル以内で見ないように心がけていた。しかし、なにせ狭い境内のこと、どうしても眼に入ってしまう。
ランダは10分も踊るとトランス状態になり、叫び声を上げて寺院の外に向かって走り出した。村人たちは総立ちになり、幾人かが慌ててランダの両脇をかかえた。ランダと村人たちは、村の南端にあるダラム寺院の方角へ足早に向かった。
奉納芸能は終わった。終演は深夜2時近かった。
チャロナラン劇は、途中で帰ると悪いことが身に振りかかると言われている。わたしが最後まで観ている理由は、そんなことではない。何か、わたしの知らない思いがけないことが起こるかもしれない、という期待からだ。そして、今夜もそれを裏切らない芸能を観ることができた。
今回のスバリ村のオダランは、3日間ともバリを深く感受するに充分なものだった。


                   


快晴の太陽が燦々とあたる生成のカーテンは、黄金色に輝いていた。昼近く、身体が熱くて眼を覚ました。カーテン越しに射し込む強い陽差しのせいだろうと思ったが、額に手を当ててみると熱がある。寒気がするわけでもないし、鼻水も咳も出ない。ひたすら身体が熱い。今までの経験から察するに、単なる風邪には思えない。
虚弱体質のわたしは、腹痛は1日に1回、風邪は1週間に1度は必ずかかる。病院が嫌いで、いつも自力で治す。症状が重い時には、しかたなく常備薬を飲むことにしている。
体温計の水銀は、40度の目盛りまで上がっている。これは高熱だ。解熱剤を飲むと、しばらくは熱も下がる。しかし、すぐにまた熱は上がってくる。何度も解熱剤を飲み、何度も汗で濡れたシャツを着替える。
夜になっても、熱はいっこうにおさまらない。身体が沸騰してしまいそうなほどの熱に悩まされ、ベッドの上でのたうちまわる夜。部屋の中央に下がっている、お気に入りの大きなランプシェードに、たくさんの『死』の文字が浮かび上がって見える。竹ヒゴでこさえた鳥籠型のランプシェードには、漢文で書かれた紙が貼ってある。『死』という文字だけが特別に太く書かれているかのように、眼に飛び込んでくる。今まで気がつかなかったが、こんなにあったかと驚いてしまうほどの数だ。
『シ』と、声を出して発音すると、空気が洩れるような切ない音がした。口先に人差し指を1本立てて「秘密だ」と言っているのと同じ発音だった。2回続けて言うと、ものを追い払う時に使う嫌な言葉になった。
これは『死』の予言か。わたしに霊感はないが、もしかすると、これがわたしにとって最初で最後の霊感なのかもしれない。
ガラス窓の上部にある小さな空気抜きの窓から、得体の知れない物がたくさん覗いている。眼を凝らしてよく見ると、外のひさしに映る部屋から洩れる明かりだった。カーテンの皺や部屋の影という影が、やはり得体の知れない物に見えてくる。これは、高熱からくる幻視症状か。
ひとすじの冷たい風が、頬を撫でていった。そして、身体が動かなくなった。声を出そうとしても出ない。焦れば焦るほど、わたしの心は、暗黒の深い溝の中に、真っ逆さまに落ちていく。
これは呪縛だ! 魔女ランダの呪縛だ!
昨夜のチャロナラン劇で、ランダを近くで直視したのがいけなかったのか。グスティ・ヌラーが言っていた通り、これは、ランダのたたりかもしれない。熱と呪縛にうなされて、いち夜が明けた。


翌日、バリの伝統的医師・バリアンに診てもらおうか病院に行こうか、どちらにしようか迷った。ランダのたたりならバリアンだ。もしかすると、最近友人がかっかたデング熱かもしれない。デング出血熱は、おもに熱帯圏に発生する風土病。蚊を媒介にして人に感染し、時には死亡することもあると聞いている。
まずは、病院に行くことにした。ウブドに滞在して、はじめての病院行きだ。
もどかしい手つきで、服を着た。悪い熱の入った風船に包まれたような不快な身体を、友人から借りた車に押し込んで、自らハンドルを握りウブドの公共診療所に出かけた。
見慣れたウブドの風景が、今日は陽炎がかかったように歪んで見える。わたしの身体は、もう別世界へ行ってしまったのか。風船に包まれた動くのもままならない身体を引きずって、診療所にたどり着いた。
ここまで来れば、半分治ったようなもの。あとは医者に診てもらえば治るのだ。言い聞かせるようにして、受付の婦人に「病気なんですが」。少し元気を出して伝えた。
すると婦人は「今日、先生は来ませんよ」のひと言。
空港ロビーで搭乗予定の飛行機のキャンセルを伝えられ、行き場を失ってしまった時と同じショックを診療所の待合室で味わっている。病院に医者がいない。空港で飛行機が飛ばない。まったく予想もしなかった言葉だ。
身体にまとわりついていた風船が、この冷酷な言葉に異常反応をしめして、熱はどんどん上がっていく。熱気球になって、飛んで行きそうだ。熱気球となってしまった身体は、地に足が着かない。
もうろうとした思考回路で、薬だけでももらって帰ろうと「薬はいただけませんか?」。蚊の鳴くような声で訴えた。
すると、婦人は「それはできません。明日もう一度来てください」。事務的に、なおかつ丁重に断わられた。
早く家に戻って、横になりたい。しかし、せっかくここまで不自由な身体を引きずって出てきたのだ、もう一踏ん張りしてマス村にある24時間営業の診療所へ行こう。
マス村の診療所の女医さんはテキパキとした対応で、風邪と診断した。
ランダのたたりでもデング熱でもなかった。
これで一安心だ。ビニール袋いっぱいの薬をもらって帰った。
ところが、今夜も熱と呪縛に悩まされた。熱はいっこうに下がらない。


その次の日、心配で駆けつけてくれた友人が、名医と評判の高いタマン村の診療所を紹介してくれた。
わたしは、まったく車を運転する力もない。友人にハンドルをまかせ、助手席のシートに身を沈めた。評判通りの名医なのだろう、待合室は患者でいっぱいだ。患者の中に知り合いのバリ人がいた。彼と眼が合い、バリ式の眉をあげる挨拶を送った。いつもなら近くへ行って「アパ・カバール?」と挨拶をするところだが、お互い病気の身体で「元気ですか?」はないだろう。いたずらっ子が、いたずらの現場を見つけられてしまった気まずい思いで苦笑いをして、入り口にもっとも近い椅子に腰を落とした。
医師は、白髪の混じる初老の男性だった。昼は、州都デンパサールにある大きな病院に勤務している優秀な医師だそうだ。
診察のあと「明日、チャンプアンにある診療所へ、この用紙と尿と便を持って行くように」。何やら書き込んだ用紙とビニール袋いっぱいの薬を手渡された。
夜は、また熱と呪縛に悩まされた。
これは、やはりランダのたたりなのか。明日も症状が変わらないようなら、バリアンに診てもらおう。
翌日、チャンプアンの診療所で、タマン村の医師に言われた物を提出すると、血液を採られた。「デンパサールの病院で検査しますので、結果は明日の昼に出ます。明日の昼過ぎにまた来てください」。どうやらここは、精密検査や健康診断をするところのようだ。
検査の結果が出るまで、バリアン行きは延期することにした。
今夜も熱と呪縛に悩まされる。深夜に眼をさますと、決まって4時44分だ。今日で3日間、この時間になるとうなされて眼を覚ます。偶然にしても、4(死)が3つも並ぶ不吉な数字だ。高熱は続き、どうにでもなれと弱気になるほど身体が衰弱している。


翌日、検査結果の用紙をもらってタマン村の診療所へ出かけた。
病気はティパスだっだ。
ティパスという病名に聞き覚えがある。友人がかかって、10日間高熱で寝込んだやつだ。ねずみの食べ残した物を口にしたことが原因だ、と友人は言ったが、わたしはねずみの食べ残しを食べるほど卑しくもないし、そんなひもじい思いをするほど貧乏はしていない。
マンディの水桶の底に、ねずみの排泄物が沈んでいたことがあった。思い起こせば、その水桶の水で、歯を磨いたことがある(ような気がする)。ひょっとすると、それが原因かもしれない。
「薬を飲んで、できるだけ栄養を採るように」と先生に言われて、帰った来た。
親しい友人が、ティパスを辞書で調べてくれた。インドネシア語のティパスは、日本ではチフスのことだった。それを聞いて、わたしはうろたえた。チフスといえば、即、隔離しなくてはならない伝染病だ。重症だと死ぬこともある。
わたしは、その言葉を信じようとしなかった。そんなわたしの心を推し量ってか、友人はすでに電話で医師にチフスと確認していた。これはもう否定できない事実だ。しかし、心配には及ばない。医師は帰って療養すればよいと言ったのだ。わたしのかかったチフスは、隔離しなくてもよい種類のものかもしれない。
タマン村の医師は、ほんとうに名医だった。診断から1週間後、わたしは平熱に戻りチフスは治った。体調が快復するには、さらに1週間が必要だった。
療養中のわたしに家に、グスティ・ヌラーが訪ねてきた。
てっきり見舞いに来たのかと思ったが、熱にうなされていた話をすると驚いていた。病気だったことを知らずに訪ねてきたようだ。グスティ・ヌラーは、原因はランダにあると信じているかのように「チャロナラン劇を観たあとは、必ず、お祈りをしなくちゃいけない。でないと、魔女ランダのパワーが身体に入ったままになってしまう。一緒にお祈りしましょう、と誘ったのにイトサンは帰ってしまった。それがいけなかったんだよ」。真剣な顔で話す。
屋根裏のチチャック(やもり)が「チチ・チチ」と鳴いた。このタイミングの鳴き声は、学問の女神サラスワティが「そうだそうだ」と賛同したのだと言われている。
「ほら、本当だろう」とでも言いたげに、グスティ・ヌラーの顔が誇らしげになった。
どちらにしても、今のわたしは、熱と呪縛から解放されて、ひと安心しているところだ。わたしは、彼の言葉に逆らわず「そうだね」と相づちをうった。




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