「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫ デサ寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その十:デサ寺院



今年も、あますところ残り少なくなった。
暴動騒ぎも落ち着いて、遠ざかっていた旅行者も、バリ島は安全だとわかるとさっさと戻ってきた。
年末年始をバリで過ごそうとする旅行者で、ウブドは、いつもと変わらない年末風景となった。
わたしはチフスを患ったあと、いまひとつ体調がすぐれず、奉納舞踊の誘いを幾つも辞退していた。今年はもう踊ることはないかと、あきらめかけていたところへ、誘いが来た。
年末の29日、クトゥ村のデサ寺院で、スマラ・ラティが奉納することになったのだ。わたしは、もちろん参加させてもらうことにした。
今年初の奉納舞踊が、スマラ・ラティだった。そして、今年最後になるかもしれない奉納舞踊がまたスマラ・ラティ。これに因縁めいたものを感じても不思議ではないだろう。
会場は、彼らが毎週火曜日に定期公演を行うクトゥ村のワンティラン(共同体の集会場)だ。普段アノムたちスマラ・ラティのメンバーが踊る舞台で、スマラ・ラティの演奏で踊ることができるなんて、わたしにとっては、檜舞台に出る夢のような話だ。
たったの20分だったが、アノムからトペン・パテの手ほどきを受けて、わたしの踊りは変わった(と本人は思っている)。スバリ村の奉納舞踊も巧くいったし、どう変わったか、アノムに見てもらう絶好のチャンスでもある。


                   


最後になってしまったが、尊敬するアノムのグループ「スマラ・ラティ」について説明したい。
ガムランは、元来、王宮や村(バンジャール)が所有し、おもに儀礼のために催されていた。アノムは、今までのような古い習慣にとらわれないで、純粋に芸術性を求めて活動できる集団を創りたいと考えた。目的を同じくする 芸術アカデミーの学生や卒業生、そして、ウブド近郊の村々の優秀なガムラン奏者と踊り手たちが、その考えに賛同した。
1988年、グループは結成された。
グループ名は「スマラ・ラティ」。
デワ・スマラは愛の男神、デウィ・ラティは月の女神の意味だ。
わたしがはじめてスマラ・ラティを観たのは、1990年のことだ。プリアタン村にあるダラム・プリ寺院のワンティランで行われていた、毎週月曜日の定期公演だった。
エナジーを奪うように鷲づかみに取り出され、官能のスープ鍋に投げ込まれ、溶けるまで煮込まれてしまったように、わたしは感動した。
寝床(すまい)を探す旅でウブドを訪れたわたしに、ここに長期滞在してみようと決心させる大きなきっかけを与えてくれたグループだ。
演目は、ラマヤナ物語。マハバラタ物語と並び、インドの2大叙事詩のひとつである。このふたつの物語は、バリ芸能のモチーフになることが多い。
ラマヤナ物語が演じられる前に、アノムのバリス・トゥンガルが踊られる。これは、スマラ・ラティの目玉演目だ。アノムの踊りは、グループ結成前からすでに有名で、それだけを観るためにバリを訪れる旅行者もいる。わたしもご多分にもれず、アノムのバリス・トゥンガルに魅了されてファンになったひとりだ。
ラマヤナ物語も、バリを代表すると言ってよいほど技量の優れた踊り手たちによって、1時間半上演された。もちろん演奏も素晴らしく、充分に満足できる舞踊劇を観せてくれた。
1992年、初の日本公演帰国後、ダラム・プリ寺院の公演会場は、地元プリアタン村のグループに明け渡すことになり、会場はウブドの東・クトゥ村デサ寺院のワンティランに移った。
公演日は火曜日に変わり、演目はラマヤナ物語から、日本公演で好評だったプログラムに変更された。
新しいプログラムは、意表をつく幕開けだった。
会場の照明が落とされると、激しいシンバルの音が会場の外から聴こえてくる。儀礼の行列の時に使われるシンバルを中心にしたガムラン、バラ・ガンジュールだ。
シンバルの音は、客席のうしろにある入口から入ってくる。観客は振り向き、行列がステージに上がるのを眼で追う。
メンバーのひとりが扮した白装束の僧侶に先導された踊り手に続いて、演奏者たちのバラ・ガンジュールが入場してくる。
客席の中央通路を行進し、舞台に上がって行く。全員が定位置についたところで、照明が灯される。
思いがけないオープニングの演出に、観客は興奮した。
演目は、バリス・トゥンガル、レゴン・ジョボック、クビヤール・トロンポン、タルナ・ジャヤなどの踊り中心の舞台となった。
バリス・トゥンガルは、もちろんアノムだ。
レゴン・ジョボックは、アノムの妹オカとアユ・ワルン(実家がワルンをしているので、友人たちはこう呼んでいる)。ふたりの美貌もさることながら、息の合った踊りはため息が出るほど魅力的だ。
クビヤール・トロンポンの踊り手は、今は亡きデワ・マハルディカ。
クビヤール・ドゥドゥックの変形で、トロンポンと呼ばれる楽器を演奏しながら踊る。中性的踊りを要求されるこの踊りで、今もって彼の右に出る者はいない。2度目の日本公演のあと病に倒れ、1996年9月13日に惜しまれて、この世を去った。クビヤール・トロンポンの踊りを観るにつけ、優雅で華やかに舞う彼の姿がオーバー・ラップしてしまう。
タルナ・ジャヤは、アノムの妻女アユだ。遠くからでも表情のわかる顔の作りと舞台で映える長い手足など、恵まれた容姿を兼ね備えている。
彼女のタルナ・ジャヤは絶品で、その力強さは、観ている者を圧倒し引き込んでいく。
はじめから終わりまでパワー全開で、観客に眼を離す隙を与えない。12〜13分もある長い踊りにもかかわらず、あっ!と言う間に終わってしまう。盛り上がったところで、断ち切られるように終わり、もっと観たいと余韻が残る。
新たな公演は、踊り手の個性が充分に発揮された見応えのあるものとなった。観客は感動し、多くのファンを作っていった。
1994年のデンマーク公演出発前の定期公演では、メンバーの意気込みと裏付けされた自信から熱気あるステージを観せてくれた。パワー・アップされた舞踊と演奏に、観客の拍手がなり止まず、ガムランの公演では珍しいアンコールとなった。
スマラ・ラティの活動は、グループの定期公演や奉納芸能に留まらず、グループ以外の優秀なガムラン奏者や踊り手、時には、かつて活躍した人などを招き、特別公演を催したりと、文化の保存、育成にも力をそそいでいる。そんな活動も気に入って、わたしは、ず〜と応援している。


今でこそ、押すも押されもしないグループに成長したスマラ・ラティだが、結成当初は、さまざまな苦労があった。
ウブド・サレン王宮の所有するグループで看板の踊り手であった、アノムとアユの退団。そして独立。新しくグループを結成することになった。それに不満を持つ人々は、彼らに練習場を提供してくれなかった。
「ほかの村にお願いにいっても、掌をひらひらさせて皮膚病の犬でも追い払うように扱われた」。
アノムは、当時のことを今では懐かしく語る。
ウブド村から遠く離れた村で、隠れるように練習を重ねる日が続いた。
グループのメンバーに対しても嫌がらせや邪魔が入り、練習ができないことも何度もあった。そんなことでグループを脱退して行く者も出た。収入のないグループに、メンバーは手弁当で参加した。
そして1990年、いよいよ定期公演をすることになった。
定期公演は旗揚げしたものの、ウブドの観光案内所でチケットは扱ってもらえず、旅行者が訊ねても案内所では何も教えない。そんなことから、メンバー自らチケットを売って歩いた。
まったく情報のない状態で、メンバーが誘った観客が前列に10人も満たないという、寂しい日が何ヶ月も続いた。それでもメンバーたちは、いかにも楽しそうに公演している。本当に、バリの芸能が好きな奴らだ、と感心させられた。
わたしは、この素晴らしいグループをどうしても紹介したくて、友人や旅行者に「これを観ただけでも、バリに来た甲斐があったと思いますよ」。こんな誘い文句で、スマラ・ラティの公演を観てくれるようにと率先して推薦した。そして、観た人の期待を裏切ることなく、いつも感謝された。
そうするうちに、日本にも情報が流れるようになり、スマラ・ラティの公演日に合わせて旅行日程を決める人まで現れた。
わたしは、毎週欠かさず出かけて行った。
毎回、今夜はどれだけの観客が入いるか、自分のことのように心配した。客の入りを見て、一喜一憂する日々が続き、観客が少ないと、自分の責任のように落ち込んだ。そして、観客の少ない分だけ、人一倍大きな拍手をした。
「お客少なかったね」。
さも、わたしの責任のようにアノムに話かけると「少なくてもいいんだよ。われわれの演奏と舞踊が好きな人が、ひとりでもいいから観てくれれば、われわれはそれで満足だ」。
模範的な答えが返ってくる。
何と言っても実力のあるグループ。公演を重ねるごとに観客は増え、国内、国外から幾人かの理解者が現れ、助けられ、頑張り続けた結果が今のスマラ・ラティの姿だ。
最大の理解者は、アユのお母さんイブ・アユだった。
アノムとアユ夫妻の2人3脚に、イブ・アユはいつも暖かい声援を送っている。金銭面での応援もしている。収入の乏しいグループを、ここまで育てあげたイブ・アユの功績は大きい。公演のある日には、必ず、孫を連れて観に来ている。どっしりした体格は、頼れる肝っ玉母さんだ。
イブ・アユもかつてはオレッグ・タムリリンガンの踊り手として活躍していた。時々、踊って観せてくれるが、そのしなやかな動きは全盛期を想像するに充分だ。


                   


10月18日は、スマラ・ラティ結成10周年。
メンバーだけのささやかな記念パーティが、定期公演会場であるクトゥ村デサ寺院のワンティランで催された。
すでにメンバーたちが集まっている。
ステージの上では、演奏者たちがおもいおもいの格好でくつろいでいる。奥で背を向けている集団は、カード・ギャンブルに興じているのだろう。彼らはどこへ行っても、時間つぶしにギャンブルをする。
太鼓奏者のチャタールが、憎めない笑顔を見せて遅れて入ってきた。椅子に腰掛けて雑談している踊り娘たちをからかいながら舞台に上がり、ギャンブルのかたまりに入り、背中を見せた。
チャタールはガムラン演奏者のまとめ役だ。人柄もおだやかで、メンバーからの信頼も得ている。作曲家として活躍する若手のひとりだ。
舞台の前には、アノムとアユ、そして、元気に遊び回る彼らの3人の子供たち。イブ・アユが孫たちの遊ぶ姿を見て眼を細めている。
オカも旦那と子供を連れて来ている。アユ・ワルンもいる。チケット売りやガムラン運搬係りの人々の顔も見える。どの顔も、わたしには見慣れた顔ばかりだ。
テーブルが、中央に引っ張り出された。その上に大きなケーキが置かれた。
アノムが、メンバーたちにテーブルのまわりに集まるようにと声をかけた。
メンバーたちが、テーブルを2重3重に囲んだ。
ケーキの上には、1と0のローソクが立っている。
オカによって、ローソクに火が灯された。こんな時、オカは場を仕切る性格だ。
陽気なオカが手拍子とともに「パンジャン・ウムールニャ♪」とインドネシア語の誕生日の歌を唄い出した。みんなもつられて唄い出す。あちらこちらで、メンバーがはしゃいでいる。
歌が終わると、アノムによってローソクの炎が吹き消された。
全員が大きな拍手を送る。みんなの顔がほころんでいる。


スマラ・ラティ


10年間の喜びや苦しみが走馬燈のように巡ってくるのだろう、アノムの目頭がこころなしか濡れているように見える。
ひと口に10年というが、これまでたいへんだったことを想像すると、わたしの目頭にも熱いものが込み上げてくる。
アノムのバリス・トゥンガルの右に出る踊り手は、いまだにいない。
「スマラ・ラティ、10年間お疲れさまでした」
これからも、われわれにバリの暖かいスピリッツを与えてください。
ナシ・ブンクスとミネラルウオーターが、配られた。遠慮がちにしているわたしに、アユがナシ・ブンクスとアクアを手渡してくれた。
ワンティランのあちこちに、ナシ・ブンクスとミネラルウオーターを手にメンバーたちが座り込んだ。ピクニックのような、なごやかなシーンだ。
質素だが、わたしには心温まる感動的なパーティだ。メンバーに混じって食べるナシ・ブンクスは、自称スマラ・ラティ・ファンの会会長としては、感慨無量の味がした。
食事が済むと、ケーキが切られた。この役もオカだ。
ひとりで幾つも持って行く者がいる。家に子供が待っているのだろう。10年もたてば、結成当時、学生だった者はとっくに卒業し、独身だった者の多くは結婚をし、今では子供もいるというわけだ。
10年ひと昔とは、よく言ったものだ。
この原稿を書いている1999年3月16日、イブ・アユの訃報が届いた。
スマラ・ラティの定期公演のさなか。この日、イブ・アユは病院から退院したばかりだった。アノムの家で療養中、台所で転んで病気が悪化してしまったのが原因だ。
つぎの日、ダラム・プリ寺院の仮埋葬にわたしは立ち会った。
あの気丈夫なアユが、わたしの胸で泣き崩れた。
哀しさと悔しさとの混じった涙が、わたしの胸の奥に伝わった。
《イブ・アユの冥福を祈る》


                   


スマラ・ラティの定期公演の会場になるワンティランが、いつもと違う雰囲気だ。
それもそのはず、デサ寺院はオダラン(寺院祭礼)の真っ最中。
公演の時、駐車場になる広場にはワルン(屋台)が軒を連ねて、賑やかな祭礼の風情に変わっている。
普段、竹の簡易壁で囲われているワンティランの壁は取り払われ、オープン・スペースになっている。内には、正装の村人たちでいっぱいだ。ギャンブルが開帳されていて、人だかりができている。スマラ・ラティの演奏者の幾人かの姿も見える。
村人をかき分けて、奥の舞台に近づいた。
舞台は照明が当たり一段と輝いている。この上は、わたしにとって未踏の地だ。
プラスチックの白い椅子が、観客が坐るのを待ちわびているようだ。
セッティングの終わったステージを横目に、1歩1歩、踏みしめるようにして、裏にある楽屋に向かった。8年目にしてはじめて、スマラ・ラティの楽屋に入ろうとしている。
開けっ放しの扉から、楽屋の風景が見えた。
床に敷かれたティカール(パンダンの葉で作られた敷物)の上で、出演者が着替えをしている。この顔ぶれからすると、奉納舞踊はプレンボン舞踊劇だ。
わたしは先客に挨拶しながら、未踏の地の楽屋へと踏み込んでいった。
そこは机も椅子もない、殺風景で何の変哲もない部屋だった。
白い壁は黄ばみ、ところどころにカビがはえている。
今まで想像さえできなかった楽屋の片隅に、今、わたしは坐っている。
アノムとアユ、そのほかスマラ・ラティの踊り手たちが、こうして出番前に着替えをしていたのだろう。演奏者たちは楽屋に入ることはなく、ほとんど外でたむろしている。
定期公演の楽屋裏風景が、今は克明に想像できる。興奮して胸が熱くなる。少しウルウルしている。
ゴン(銅鑼)の音がいちだんと大きな音をたてて叩かれた。演奏者に集合の合図だ。
ギャンブルに興じていた者、屋台でコピ・バリをすすっていた者、ただだべっていた者たちは今、舞台にのぼり、それぞれの担当するガムランの前に坐ったことだろう。
そしていよいよ、わたしにとっては聖域であるスマラ・ラティの舞台へ上がるのだ。
外国人旅行者に、踊る機会を与えてくれている程度だと思っていたわたしの踊りも、前座ではなく、劇の1部に含まれる踊りだと聞いて、自覚しなくてはいけないと身を引き締めた。
トペン・パテとトペン・トゥアは、ワン・セット。踊り手はこのふたつの踊りをひとりで続けて踊ることが必修条件だ。
わたしがトペン・トゥアを踊ることができなので、プレンボン舞踊劇に出演する踊り手のひとりが踊ってくれることになった。
まず、わたしのトペン・パテでオープニングだ。
楽屋と舞台の間に暗幕が張られ、そこに狭い空間がある。踊り手はここで待ち、演奏がはじまると意識を集中させ、中央の階段から颯爽と舞台に出ていく。
今、わたしはそこから出ようとしている。
緊張は頂点に達し、心臓が煽られる。こんな緊張の重さに耐えられているのが不思議なくらいだ。
「階段が2段あるから、注意してください」
耳元で声がした。
この声は、マデ・サディオだ。聞き慣れた声に、緊張が少しほぐれた。
自分自身に気合いを入れ、1段目の階段に足を踏み出した。
階段は公演のために特別にしつらえたもので、ベニヤの下地に赤いパンチ・カーペットが貼ってある。素足に化学繊維の感触が伝わった。
もう1段上ると、舞台の正面中央の割れ門に立つ。
幕はない。踊りながら階段を上がっていく。
割れ門で踊るアノムの勇姿が、わたしの踊る姿の上に重なる。
割れ門での踊りの出来が、踊り手の技量を問われる場面でもある。
舞台脇に設置されたスポット・ライトの明かりがまぶしくて、観客の顔がはっきり見えない。
演奏者の顔は、よく見える。定期公演の時と同じ顔ぶれだ。
割れ門でしばらく踊ると、今度は階段を2段下りる。足もとは、まったく見えない。つま先で階段を探りながら、1段1段と舞台へ下りていく。
舞台の中央に出た。
思っていたより舞台は狭い。こんな狭い舞台で、彼らはあんなに激しい踊りを踊っていたのか、と今更ながら感心する。
いつも見慣れたスマラ・ラティの舞台で、わたしは踊っている。
脳裡にしっかりと焼きついているスマラ・ラティの舞台に、自分の踊っている姿をイメージした。幽体離脱したもうひとりの自分が、観客となって舞台で踊る自分を見ているように、自分の踊りが鮮明に見える。
今夜のわたしの踊りは、どこか違うぞ。堂々と、そして力強い。アノムがのり移ったように、巧くいっている。
演奏する時にはいつも気むずかしい顔をしている太鼓奏者のチャタールが、にこやかな顔になっている。ガムランとのタイミングも、ぴったりだ。演奏と踊りが一体になった時の心地良さを味わえるのは、踊り手の特権だ。
中央の割れ門に立って、舞台を振り返る。
観客に向かって両手を胸の前で合わせ、聖域での踊りを終えた。


トペン


楽屋に入ると、アノムがあとから入って来て「良くなったぞ」とひと言。
踊ったあとの暑さに増して、そのひと言でいっそう身体が熱くなった。
「つぎは、トペン・トゥアを踊れるようにしとけよ!」
そう言い残して、アノムは楽屋を出て行った。
汗をたっぷり含んだTシャツを脱ぎ、踊ったあとの余韻と楽屋の雰囲気をゆっくりと味わい、正装に着替えた。ウドゥン(正装用の鉢巻き)は、アノムからもらったお古のウドゥンだ。アノムのように踊れますようにと、今夜はげんをかついで縛って来た。その成果もあったようだ。
着替えを済ますと、プレンボン舞踊劇を観賞するために客席にまわり最後列のイスに腰を落とした。
踊ったあとも帰らずに、最後まで観る。踊ることも好きだが、観るほうがもっと好きだ。
舞台の上で、メンバーのミーティングがはじまった。
ワンティランを出ようとするわたしを見つけて、メンバーたちが
「スラマッ・タウン・バルー(良い新年を迎えてください)」。口々に声をかけてきた。
そう言われてみれば、もう深夜0時をとっくに過ぎて、今日は30日だ。そして明日は、大晦日。
アノムが、眉を動かす挨拶をしてきた。わたしも同じように眉を動かし、胸の前で手を合わせた。そして、おおきな声で「スラマッ・タウン・バルー」。
全員に挨拶をして、その場をあとにした。
普通なら、公演が終わったあとメンバーは、お疲れさま会の打ち上げをするだろう。奉納舞踊では、それはない。みんなで成功を噛み締めるということもない。神々に捧げて、個人々完結してしまう。少し寂しい気もするが、これが彼らの公演のスタイルだ。
お祈りをするために、わたしは寺院に入った。
これが今年最後のお祈りになるだろう。
村人の去った静かな境内には、お祈りに使った供花が庭いち面にひきつめられている。わたしは、花のジュータンに腰を下ろし、心を穏やかにさせた。
僧侶がわたしに、供花と線香の入った籠を差し出し「奉納舞踊ご苦労さん」。ねぎらいの言葉をかけてくれた。
チュンパカの花の甘い芳香が、優しく漂ってくる。
手にした花の新鮮な薫りを胸に吸い込むと、嘘のように自意識が消え、胸の中に光が射し込んで来るようだ。得も言われぬ至福に満ちた時が流れ、格別に気持ちが落ち着く。
あらゆるものに対して、感謝の気持ちが心の芯から沸き上がってくる。
指先に花を挟み、合掌した手を静かに額まであげる。
意味や意義を知らないわたしは、宇宙の平穏と地球の平穏、そして、生きているすべてのものが平穏でありますように、と祈る。
無神論者のわたしにも、宗教的感情が生まれるほど、お祈りの情景は平和で穏やかだ。こんな宗教なら信じてもいいと、今では、にわかバリ・ヒンドゥー教徒だ。
頭上には、星が美しく瞬いている。眼を凝らすと、それはおびただしい数だ。そのすべてが宝石のように、天上で輝いている。
星は2重になり、3重になり、霞んで見えなくなった。
眼に涙が、溢れ出した。
思わず頭上で合掌し、平穏に感謝した。
そして、今年1年間、さまざまな寺院で奉納舞踊させてもらえたことに感謝した。
割れ門の上の南十字星が、そんなわたしを見守っていた。


         了




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