マリヨ(I Kutut Marya)

マリヨという踊り手を、ご存じだろうか?
知っているという人は、かなりのバリ舞踊通であろう。
バリ舞踊に興味を持ち調べていくうちに、マリヨという名前は必ず出てくる。バリ舞踊の歴史を語る時、マリヨ抜きにしては語れない。

マリヨは、1895年、デンパサールのブラルアン村で生まれた。
バリ中央部タバナン県の王族アナック・アグン・ヌラー・グデのカレラン王宮に奉公に入り、幼少時代を過ごす。
アナック・アグン・ヌラー・グデは、王宮でたびたび催される舞踊会のおり、マリヨ少年の仕草に注目し、才能を認めた。
そして、彼をムングイのふたりの舞踊の先生、パン・チャンドリ氏とイ・サリット氏に師事するようにした。
こうして、マリヨがはじめて本格的に舞踊を習ったのは11才の時だった。
習った舞踊はチャロナラン劇のシシアン役だ。
しばらくのち、タバナンのパンクン村のガムラン・グループのメンバーとなった。
ふだんは静かで目立たないマリヨは、踊りだすと、めくるめくようにダイナミックで美しいダンサーに変貌した。

 

マリヨは天才的踊り手であるが、どうじに、舞踊の創作にも才能を発揮した。
1915年、北部バリで、これまでの優雅で重厚なガムランから稲妻のように激しいガムラン・ゴン・クビャールが創作された。
ゴン・クビャールは、またたく間にバリ島中に流行していった。
マリヨは、このゴン・クビャールの特徴を生かした舞踊をいくつか創作した。
現在、我々が日頃眼にすることができる舞踊の中にも、彼が創作した舞踊がある。
「クビャール・ドゥドゥック」と「クビャール・トロンポン」は、彼が30才の時の作品だ。
どちらも、現在人気のある舞踊である。

○クビャール・ドゥドゥック(kebyar・duduk)1925年創作。
男性がソロで踊る舞踊。坐った姿勢で踊るところからクビャール・ドゥドゥック(坐る)と呼ばれる。
時には座り込み、時には中腰の姿勢のままで移動しながら踊る。
長い腰布と手にする扇が特徴で、女性的な優美な動きを必要とする踊りだ。
素早い動作と、顔や眼の動きを急激に変化させなければならない難しい踊りである。

クビャール・ドゥドゥック>
デワ・ニョマン・イラワン

○クビャール・トロンポン(kebyar・trompong)1925年創作。
クビャール・ドゥドゥックから発展した踊りだ。
大小10個のゴングを木台に1列に並べたトロンポンと呼ばれる旋律楽器を前にして、両手にバチを持ってクビャール・ドゥドゥックの変形を踊る。踊りの途中でトロンポンのソロ演奏が入る。

クビャール・トロンポン>
デワ・ニョマン・イラワン

これまでの舞踊は、宗教儀礼の重要な1部として奉納されていた。
それは娯楽性のとぼしいものだったと思われる。
そんな時代、マリヨの創作した、このふたつの独創的な舞踊は、かなりセンセーショナルだったことだろう。

マリヨの身体は細く一見華奢に見えるが、実は、強じんな筋肉がついた、美しく均整のとれた身体である。
長く伸びた手足は蛇のようにしなやかにくねり、踊る姿は、妖艶で不思議な色香が漂ったという。
このふたつの舞踊は、そんなマリヨの身体の特徴を充分に生かしながら、クビヤールのスピード感あふれる伴奏をともなった傑作となった。
こうして彼は、バリ島内で押しも押されもしない、屈指の踊り手になった。
その後もタバナンにとどまり、ルバ村に居所した。
その村で、ニ・マデ・ジュレと結婚し、一子を授かっている。
晩年は、学校に勤め、余暇には、闘鶏に熱をあげた。
生涯のほとんどをタバナンで過ごし、タバナン出身と言われることが多い。

 

1952年、プリアタン村のガムラン・グループからマリヨに、グループの欧米公演のための新作舞踊の依頼があった。
その時、創作した舞踊が「オレッグ・タムリリンガン」だ。
オレッグは身体を揺らす動作のこと、タムリリンガンとは蜜蜂。
花と蜜蜂の間に恋が芽生えるさまを、男女のペアが踊る。
これも人気のある舞踊だ。
ほかに「サブンガン・アヤム(闘鶏の踊り)」という舞踊も創作した。
闘鶏狂いだったマリヨらしく雌鶏をめぐって争う2羽の雄鶏を描いた踊りで、男性2人で踊られる。
そのほかに「ンゲジュ(とんぼ取りの踊り)」がある。

 

1968年3月22日死去。享年73歳。
彼の功績を讃え、19741年にタバナン市内にグドゥン・マリヨ劇場が作られた。
現在、残念ながらマリヨが踊る映像の記録を見つけることは難しい。
モノクロの写真が数枚、かろうじて本などでのっているだけである。
しかし、彼の素晴らしい踊りは、人々の口から口へと語り継がれ、今では、伝説にさえなっている。
そして、将来人々がバリ舞踊を語る時、必ず、マリヨの名は登場するに違いない。