「極楽通信・UBUD」



3「埋没した財宝のゆくえ」





考古学博物館に行くことにした。
というのは先日、日本料理店・影武者で、インドネシアの島々をくまなく廻って仕入れをしている古物商の金子さんと同席した時、興味のある話を聞いたからだ。
「バリに、マジャパイト王朝以前の骨董品があまり見つかっていないのはおかしいね。スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェシ島などの大きな島や、それ以外の小さな島々には、マジャパイト王朝以前の銅器や貴金属、仏像などがよく売りに出されているのに」

マジャパイト王朝は、1293年から1520年まで東ジャワで栄えた王朝だ。11世紀から400年近く続いたバリのワルマデワ王朝は、マジャパイト王朝ガジャ・マダ将軍率いる軍勢によって1343年に征服された。そうして、バリ文化のジャワ化がはじまった。
ワルマデワ王朝が栄える以前にも、バリではすでに何人もの王がいたことが記録で残っている。
そうなると、バリにはそうとうの財宝かあると考えてもいいうわけだ。ゴア・ガジャ、グヌン・カウィなど、大きな遺跡が残っているにもかかわらず、金、銀、宝石など財宝の話はまったく聞かない。
「400年も続いた王朝があったのだから、かなりの数の王が即位したはずだ。そうなると、その王墓があるはず。その時代は、土葬だった。土葬されれば、副葬品が必ずある」と金子さんは言うのだ。
「そうですよね。遺跡以外にも、多くの貴金属が発掘されていてもおかしくはないですよね」と私は素直な意見を述べた。そして、単純に財宝探しでもしようかと考えはじめていた。こんなふうにシンプルな発想をするところが、私のパーソナリティでもある。

霊峰グヌン山の山ふところに大きなゴア(洞窟)があり、歴代の王がそこに葬られているのだ。そこには毒蛇や大蛇、サソリがいて、人間が容易に入り込むことができない。そこに財宝が隠してあるのかもしれない。すっかりインディージョーンズになった気分で、私は胸をときめかしたのである。
というわけで、次の日さっそく、何か手がかりでもないかなと考古学博物館を覗いてみることにした。かなり以前に、そこには行ったことがあるのだが、その時の記憶は、大きな石棺があったことくらいであとは何も覚えていないのだ。とにかくもう1度行って、マジャパイト王朝以前の遺物が展示してあるのか調べてみることにした。

その博物館は、ウブドから6キロほど東へ行ったペジェン村にある。
ペジェン村付近から数々の遺跡が発見されたところから、ワルマデワ王朝はこのあたりにあったと考えられる。そんなことから博物館もこの地にあるのだろう。
ゴア・ガジャの大駐車場前を通り過ぎ、しばらく行くと十字路に出る。右折するとギャニアールの市街へと続く道。私はグヌン・カウィのあるタンパクシリンに方面に左折した。
すこし進むと博物館の建物が右手に見える。ガイド・ブックにはインドネシア語でMuseum Purbakalaと書いてあるが、看板には「MUSEUM ARCHAEOLOGY」になっている。
バイクを木陰に止めて、入り口をくぐった。
入るとすぐ正面右手に、方形屋根の大きな建物がある。建物の中には、ブルーの開襟シャツを着た男たちがたむろしていた。左手は塀で仕切られている。どうも公共の博物館の入口らしくない。

入館料を払う受付が見あたらない。壁に狭い門があったので入ってみた。
中央に方形のあずまやがあり、ここでもブルーの開襟シャツを着た男たちがたむろしていた。いったい彼らは何者だ。博物館の職員にしては多すぎし、客である私を見てもこれといって興味をしめさない。何かの事務所が、博物館を囲むように数棟ある。あとで友人に聞くと、ブルーの制服たちはやはり考古学博物館の職員なのだそうだ。
狭い庭の四隅に小さな建物がある。どうやらこれが博物館の展示館のようだ。私は右手の建物の入った。西洋人男性が1人、鑑賞していた。
内部はたった3坪(6畳)ほどの広さで、壁3面にガラス棚があり、青銅製の道具、鐘や銅鼓の出土品が展示してある。説明版には、1960年と書かれてある物が多かった。1960年は、この博物館が設立した年だ。いつの時代のものかは記されていないが、有史以前の文明が残した数々の遺品が集められていることは確かだ。ちなみに、一般に公開されたのは、1974年のことだ。

奥にある、ひとつの建物に入った。ここには、ワルマデワ王朝時代のサンスクリット語で記された碑文があった。それにしても、展示品の数は寂しいほど少ない。
奥の建物に向かおうとして気がついた。建物の壁に、ABCDの看板がそれぞれついている。私はD館から逆回りして見学していたようだ。
B館で陶壺を見たあと、A館に入った。 A館に入ると、正面のテーブルが受付になっていた。これでは見つけることは出来ない。
壁を背にして、ブルーの開襟シャツを着た男がテーブルについていた。「入館料は帰りでいいです。金額は寄付です」と男が英語で説明をした。入場料が寄付なんて、いかにも管理がずさんなことが想像できる。

ここには、石器時代の石斧や火打ち石、石で作られた家庭用品がガラスケースの中に展示してある。先の男がうるさく話しかけてきて、ゆっくりと見ることができない。大声でしゃべる人の良さそうなその男は、カフェ・アンカサのコテツ君の名前を出した。男はコテツ君がペジェンに滞在している頃、居候していた家の主人だった。
A館を出て、奥の割れ門を入った。オープン・スペースの中央は、浅い池になっていて石彫から水が流れていた。池を囲むように切り妻のあずまやがあり、ここには石棺が展示してある。この石棺は、紀元前500年頃から紀元後1〜2世紀にかけて東南アジア一帯に栄えたドンソン文化の遺品だ。ドンソン文化の遺物として、プナタラン・サシ寺院に保管されている直径160センチ、高さ186センチの世界最大の青銅鼓が有名だ。プナタラン・サシ寺院は、考古学博物館から600メートルほど北上したところにある。

石棺1石棺2石棺3

石棺は、当時の権力者や尊敬された人物の柩だ。大きさはそれぞれで、小さく平らなものもあれば、長くて大きなものもある。どちらも、遺体が納められるにはスペースは狭かった。ここに副葬物を入れたとしても、数少なかっただろう。副葬品が石棺の中に入っていたのか、それともまわりに埋められていたか訊いてみたかったが、とんでもない質問のようで控えた。コテツ君の知り合いに変な奴がいると思われても困る。
あまりの少ない展示数から考えて、出土された物は統治したオランダによって持ち出されたか、もしくは王墓を発見した村人が世間に秘密にして内外の業者に売りとばしてしまったのか、それとも、プロの墓泥棒がいるのか。それにしても、まだまだ埋没していると思われる。

A館に戻り、勇気をだして「まだ、発掘されていない財宝があるでしょうね」と係員と思われる男に訊いてみた。「もちろん、まだまだ、たくさんあると思うよ。しかし、どこにあるかまったくわからないのだ」
どのあたりに王朝があったのか定かでないのに、墳墓の位置を推測するのは人類学者でもできないことだ。
度重なる噴火によって地中深く埋もれてしまったのだろう。そうすれば、雲を掴むような話で、私の力ではとてもとても発掘することは無理だ。こうして、宝探しの夢は1日ににして飛散したのだった。

それにしても、私がいる間の入館者は、私と西洋人男性の2人だけだった。ここはあまりツーリストに人気がないのだろう。
肩を落として博物館をあとにして思ったことは「パンフレットや解説書などを作って、もっとPRすればいいのに」とお節介気分になったことだ。それに、入館料はやっぱりチケットを切って欲しいな。ちなみに私は、5,000ルピア置いてきた。
財宝が確かにどこか眠っていて、それを探し出すヒントのようなものがここにあったら、おそらく10万ルピアくらいは置いてきたかもしれないが、こんな管理のずさんな博物館ではどうせ職員で山分けでもしてしまうのだろう。
ともあれ今回は、インディージョーンズになりそこねたようだ。待てよ、インディーなみの冒険をするには、かたわらに魅力的な美女も必要だ。むむむ、財宝より、こちらを探す方が困難かもしれないなあ。




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