「極楽通信・UBUD」



9「奉納舞踊鑑賞のマナー」





ウブド近郊のダラム寺院で、オダランがはじまった。
スコールが上がったのはついさっき。今は、今宵が暗月だとわかるほどたくさんの星が天空で輝いている。雨期もそろそろ終わりだ。
白い衣装を身にまとった高僧の鳴らす鈴が、境内を澄んだ響きで包み込む。
境内に座り込んだ村人たちが、いっせいに両手を額の前で合わせ、お祈りをはじめた。お祈りに没頭する人々の姿は崇高だ。
大勢の村人たちにまじって、アナック・アグン・オカとイ・ワヤンも合掌した。元王族のアナック・アグン・オカと農民のイ・ワヤンは、カースト(階層)は違うが子供の頃からの大の仲良しだ。ふたりとも、中年から老年の域に入ろうとしている年齢だ。
「グン・アジ、今年のダラム寺院のオダランは大規模ですな」
「ヤン、お前ももうろくしたな。今年は20年に1度の大祭だ」
ワヤンは「そういえば、そうだった」と、うなずくように首を大げさに縦に振った。
称号を持ったカースト内の男性は、結婚するとアジと呼ばれる。そして親しみを込めて、称号のうしろだけを呼び(ア)グン・アジとなる。称号を持たないワヤンは、やはり親しみを込めて(ワ)ヤンと呼ばれる。
突然、稲妻のような光が 境内を走った。閃光はたびたび境内のあちこちを浮かび上がらせた。ワヤンはいぶかしげに光の主を捜した。彼の眼差しの先に、4人の西洋人の姿があった。光源はカメラのフラッシュだった。
4人は2組の夫婦のようだ。彼らは腰に布をだらしなく巻きつけ、上着は肌が露わに見えるタンクトップ姿だ。
こんなチン入者が増えたからなのか、寺院の門前には〈寺院内ではカメラのフラッシュ撮影禁止〉〈肌を露出する衣装での入場禁止〉と注意書きが掲示されるようになった。
4人組が、今度は境内の奥にある祠の裏に向かって歩きだした。
これ以上失礼な行為をしなければがいいがと、ワヤンは心配顔になった。だが、ワヤンの心配は的中してしまった。4人組が高僧より高い位置に立ち写真を撮りだしたのだ。
高僧やご神体であるバロンランダなどが登場する時は、人々はそれらより低い位置に身をおかなくてはいけない。境内に座り聖水を振りかけてもらうのを待つ村人たちは「困ったものだ」という顔はするものの、そんなチン入者をたしなめようともしない。
逆に、彼らのような西洋人の信仰する宗教の大切な場所に無礼なツーリスト現れたら、彼らはどう対処するのだろう。アナック・アグン・オカは眉を8の字に寄せ、ワヤンは首をかしげ、ふたりは顔を見合わせた。
ふたりはお祈りを終え、米粒を額につけると、今夜奉納舞踊が上演されるジャボ(外の境内)に向かって歩き出した。今夜はチャロナラン劇が奉納される予定だ。

「グン・アジ、それにしても最近ツーリストの姿を多く見かけるようになりましたな」
ワヤンは歩きながら訊ねた。
「そう、ウブドが観光地として有名になったおかげで、近郊のわれわれの村にもツーリストが訪れるようになったのは、ありがたいことだがね」
「今夜もたくさんのツーリストが来ているが、彼らはバリの宗教を理解しているんでしょうかねえ。わしには、彼らは芸能だけを観に来て、宗教を理解しようとは思っていないように思えますよ」
「そんなことはないとは思うが、どちらにせよ、マナーだけは守って欲しいものだな」
奉納舞踊がはじまる時間にまだ間があるのか、正装の村人たちは舞台のまわりにまばらに座っている。舞台といっても、境内に竹の柱を四隅に立てて仕切っただけの簡単なもの。幕の吊ってあるほうが正面だ。上から、赤い花や黄色の花が先についた椰子の葉で編んだ飾りが下がっている。観客はその外の地面に直接座る。
幕の横には、煌びやかなガムラン・セットがすでに並べられ演奏者を待っている。
「ヤン、とにかくわれわれも座ろう」
グン・アジとワヤンは「ここはおれたちの指定席だ」とでも言うように、ごく自然に、ガムランと反対側の幕に近い最前列に歩み寄り、はいていたゴムぞうりを脱ぐと、その上に腰を降ろした。
「グン・アジ、今夜は、バトゥブラン村から踊り手がきているらしいですよ」
「それは楽しみだ。バトゥブラン村のチャロナランは有名だからな」
ワヤンはポケットから小さなビニール袋に入った噛みたばこを取り出し、グン・アジにすすめた。グン・アジはそれを断って、グダンガラムに火をつけた。

しばらくすると、クバヤ(ブラウス)とカマン(腰布)で正装した女性の1団が、グン・アジとワヤンのうしろに立ち止まり、何やら外国語でしゃべり出した。ひと目でツーリストとわかる東洋人だ。
彼女たちの年齢は、20代後半から30代前半といったところか。真っ白な肌にバリの正装がよく似合って美しい。だが、髪の色がすごい。金髪に茶髪、赤・白・緑のまだら髪、きわめつきは緑髪だ。バリの娘は、そんな色に髪を染めないので、まわりから一斉に注目されている。全員が申し合わせたように、同じようなナップザックを抱えて、どこに座ろうかと迷っている。
グン・アジとワヤンは自分たちが座っていた前列を彼女たちにすすめると、うしろにさがった。バリの人々は、ツーリストにバリの芸能をより理解してもらおうと、よく観えるようにと気を使って席を譲る。
いよいよガムランの演奏がはじまった。
いつのまにか、舞台のまわりは村人で埋め尽くされていた。
演奏曲が終わると、バロンのための曲が演奏された。
光輝くバロン・ケケの登場だ。立って観ていた村人たちがその場に座り込んだ。バロンはススオナンと呼ばれるご神体だ。
「グン・アジ、先ほどから気になっているのですが、われわれの前に陣取っている六人の女性、あれは日本人ですかね」
「そうだと思うが、日本人女性も昔と変わったなあ。何と言っても、緑色の髪の毛には驚いたね。あれでは宇宙人だ。ランダより、緑髪の宇宙人のほうが、わたしはよほど怖いよ」
グン・アジはそう言って、ニヤリと笑うと、おどけるようにして首を縮めた。
シシアンと呼ばれる魔女ランダの弟子たちの踊りが踊られた。いよいよ、チャロナラン劇のはじまりだ。
シシアンが幕の裏に引っ込むと、続いて幕からは老婆の姿をした役者があらわれた。未亡人チャロナランだ。チャロナランはクライマックスでランダに化身する。

夢中で観ていたワヤンが言った。
「グン・アジ、バトゥブラン村のチャロナラン役とランダ役は同じ役者が演じるらしいですぞ」
「それが本当なんだよ、ヤン」
「しかし、わしは今まで、別々の役者が演じているのしか見たことがないですよ」
「チャロナランがランダに化身するのだから、同じ役者が演じるほうがリアリティがあるというものだ」
「それもそうですな」
ワヤンはうなずくように、首を大げさに縦に振った。首を縦に振るのは、納得した時のワヤンの癖だ。
その時、前列の例の彼女たちが「疲れたわね」と言って正座していた足を崩し、六本の大根のように白い足を前に投げ出しはじめた。
劇がはじまって、もうかれこれ2時間近く地面に座り込んでいるので、足腰が痛くなるのはわかる。だが、バリでは足は「不浄」のものである。足を人に向かって伸ばす時は、家族の間でも「ちょっと失礼」と言って断るくらいだ。
ワヤンは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、グン・アジの耳元でささやいた。
「ああグン・アジ、ご神体が舞台にいなくてよかったっですね。いくら日本人の足でも、あれでは許されませんよね」
足が聖なる方角や他人に向くのは、時には、とんでもない失礼になる。最前列はスポット・ライトの皓々とした光が届き、全員の視線にさらされている。バリの人々の好意で最前列に座って鑑賞しているのだから、礼を失しないように気をつけねばならない。そのためには、バリのこのような「常識」は知っておく必要がある。
舞台に眼を戻すと、上半身裸の男が幕から飛び出してきた。白い絵の具を塗りたくったような厚化粧だ。観衆は男を見ただけで大笑いだ。ユーモアのある動作のひとつひとつに大爆笑している。もちろん、グン・アジとワヤンも笑っている。ワヤンは笑いすぎて、咳き込んでいる。
3人の道化役が舞台に揃って、ドラマがはじまった。まるで、大阪漫才かどたばた喜劇である。
「グン・アジ、情けない顔の化粧をした、甲高い声の若者が、今売り出しのクトゥット・スワンドですよ」
「そうか、伝統芸能の担い手が減っているご時世、若い者が活躍することは嬉しいことだ。どんどん若い人に出てきて欲しいものだ」
バリ人の楽しげな反応と裏腹に、前列の女たちは、居心地が悪そうにソワソワしだした。バリ語のドラマなので理解できないのである。
「つまんない、何言ってるのかわかんないもの」
彼女たちのそんな会話が聞こえてきそうだ。グン・アジとワヤンは、こんなに可笑しい漫才が理解できない彼女たちを少し可愛そうだと思った。

時間は深夜0時にもうしばらくだ。
肌寒くなり、前列の女性たちがいっせいにバッグから上着を取り出して羽織った。全員が上着に腕を通さずに羽織る姿はどことなく異様だ。
すると、ふたりの女性が席を立った。
彼女たちが戻ってくると、今度は他のふたりが席をはずした。どうやら交代でタバコを吸いに出ているようだ。人前で吸うのをはばかっての行動だろうが、バリ人にとって、舞台は今、最高におもしろい場面。こんな時に前でうろちょろされてはかなわない。のこりのふたりも席を立っていった。
さすがのグン・アジも、ちょっと迷惑そうな顔をしている。
照明が落とされると、ランダがジェロアン(奥の境内)の門から現れた。いよいよクライマックスだ。
ランダは右手に持った白い布を高々とかざし、時計仕掛けの人形のような不器用な足取りで舞台に向かってくる。すでにトランスをしているようだ。
6人の女性がいっせいにカメラを手にした。
ランダが彼女たちの眼の前に来ると、フラッシュが皓々と光った。
グン・アジとワヤンは驚いてしまったが、すぐ、その顔には悲しみとあきらめの表情が浮かんだ。まわりのバリ人たちも皆、同じような反応を示した。
事を大げさにしたり、言い争ったりするのを極力避けるバリの人々は、こんな無礼なツーリストを見て見ぬふりをすることが多い。しかし、彼らの心の中では、こんなツーリストを見て、さぞ残念に思っていることだろう。もしかしたら、怒っている人もいるかもしれない。
注意書きに従うのはもちろんのことだが、バリ人の宗教儀礼は彼らが平和に暮らしていくための大切な行事。われわれツーリストは、礼儀作法をわきまえ失礼のないように見学したいものです。




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