「極楽通信・UBUD」



「ウブド奇聞」


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■お父さん、ごめんなさい



ここは、ウブドの村はずれにある居酒屋。
私は、そこの主人。
いつのまにか定位置になってしまった庭に面した座敷で、丸柱に背をもたれかけて、庭を眺めるのが今の私の楽しみだ。

視線の中に、門をくぐって入って来る、客の姿が見えた。
「また、来てしまったわ」
彼女たちは私を見つけると、庭の途中で、再会の第一声を発した。
私は、座敷から首を伸ばして「久しぶりです」と声を返した。
店に入って、まず、お母さんが「去年は、たいへんお世話になりましたね!」と、しとやかな顔をほころばせた。
続いて娘さんが、お母さん似の上品な笑顔で「こんにちは」と挨拶してきた。
母娘は、3年前から毎年10日間ほどの休暇をウブドで過ごしている。
昨年は3泊4日の短い滞在だったが、タイミング良くバトゥアン村で大きなオダランがあり、私が案内した。

その日は小雨模様で、寺院の境内は足下がぬかるんでいた。
母娘は、それを嫌がる様子も見せずついてきた。
バリの正装に身を包んだのが嬉しかったのか、母娘は、露店を覗いて「日本の夏祭りと同じ」とはしゃいだり、ワルンの長椅子に腰掛けて、前を通り過ぎる正装のバリ人をウオッチングしながらコピ・バリを啜った。
しきりに、バリの慣習について質問してきたのを思い出す。
姉妹のように仲の良い母娘だった。

今年は、お父さんをまじえての親子3人旅だ。
両親は、ともに地方都市で活躍する役者だ。
著名人を相手にしたTVの対談番組の司会をしているお母さんを、私は見たことがある。
お父さんも、大スターと共演するほどの役者だ。
2人とも、私にとって世界の違う雲の上の人物だ。
「立ち話も何ですから、まず坐ってください」
私は、囲炉裏席に親子を案内した。
母娘が、この席を気にいっていたのを私は覚えていた。
囲炉裏は今、フタがしてあるが、以前、寒い夜には薪をくべたこともあった。
南国の島で囲炉裏に火を入れるなんてと、いぶかしく思われるかもしれないが、ウブドは乾季になると日本の初秋と同じくらい冷え込む日が数回ある。
日本が夏の時期に、南半球にあるバリは肌寒い季節だ。
ウブドの夜の囲炉裏も、これはこれで風情があった。

親子3人と私は、囲炉裏を囲んで腰を下ろした。
まだ腰も落ち着かない状態のうちに、娘さんがひとり姿勢を正した。
そして唐突に「お父さん、ごめんなさい」と言ったのだった。
そのひとことに、その場の光景は凍結してしまった。
その凍結を解凍するのは自分の役目だと言うように、彼女は言葉を続けた。
「私のわがままを許してください」
父親は、その言葉の意味することを理解したのか、瞬きを一度すると凍結から解けた。
「もういい! もういい!」
その言葉は、低く重く響いて娘に伝わったていった。
胸に込み上げてくるものを押さえるかのように、父親は、焦点の合わない眼で一点を見つめている。
親子にとっては、人生のうちの一場面なのだろう。
人生の一場面が、この一瞬、切り取られ集約されたのだ。
しかし、私には、なんのことかさっぱりわからない。
私は、スポットが当てられた舞台のひと幕を見る気分で、彼ら見ている。
父親が、目頭を熱くしているのが感じられる。
その場の雰囲気が、詳しく話を聞かないうちに、私の瞼の奥をじんわりと熱くした。

娘さんは、ひとりっ子だった。
両親は当然のように、娘を自分たちと同じような役者にするつもりだった、と話し始めた。
1年前、娘は役者としてデビューするために、記者会見をすることになった。
記者会見は有名ホテルで、各TV局の取材陣の待ちかまえる中で行われることになっていた。
地方都市としては、大きなイベントだった。
しかし娘は、記者会見の席をすっぽかして、顔を見せなかった。
結果は、両親の役者としての仕事を1年間干されてしまうことになった。
もちろん、娘は役者になっていないままだ。
私は、すでに役者になっているものだと思っていたので、この話を聞いて驚いた。
娘さんは、個性豊かな美人だ。
両親ともが役者という純粋培養の女優のタマゴだ。
彼女の将来は、お母さんのような性格俳優になるだろう。
きっと素晴らしい女優に成長することだろうと、私は心密かに期待していた。
これまで一度も両親に逆らったことのなかった娘さんが、今回は大きな抵抗したのだ。
娘さんは、記者会見をすっぽかすことで、何かの意思表示がしたかったのだろう。
両親は、その時、その理由を問いただすことをしなかった。
娘さんが、壊れてしまうのではないかと心配したからだ。
娘は、健やかで明るく素直に育った。
甘やかすことも多かったが、だからと言ってわがままな性格ではない。
なによりも積極的なところがいい。
両親は仕事に忙しくて留守がちで、すれ違いも多く、一家団欒の時間を持つことが少ないと、以前、お母さんが言っていたのを思いだした。
両親の愛情、それも、共に過ごす時間が欲しかったのではないか。
有名人を親に持つ子供の気持ちを私には理解することを出来ないが、ふとそう思った。
娘の気持ちは聞いていないが、親としてはわかってあげたい一心で、今回の旅に出た。
普段、仲の良い親子だが、将来について話合ったことはない。
親の一方的な考えで、役者になることを薦めたのかと、今は、反省しているようだ。
「ごめんなさいね、ご主人。こんな内輪の話を聞かせてしまって」
お母さんが、濡れた瞳で私にそう言った。
私は、答える言葉がのどにつまって、顎を引いた。

「不思議ね、ウブドに来ると素直な気持ちになれるの。なんだか胸が熱くなって、自然に『ごめんなさい』の言葉がでてきた。囲炉裏の神さまに背中を叩かれて、胸につかえていたものを吐き出した感じ」
娘は、もういつもの笑顔に戻って、そう言った。
お父さんの顔も、晴れ晴れとしている。
ウブドは、訪れる人を「素直でいい人」にさせてしまう魔力がある。
隠し事なく、正直な気持ちが言葉となって出てくる。
バリの空気がそうさせてしまうのか、いつの間にか、思いやりのある人間になっている。
心のわだかまりも取れ、今回の旅は、親子水入らずの素晴らしい旅になりそうだ。
「それでは、食事にしましょうか」
私は清々しい気分で、お父さん、お母さん、娘の順にメニューを手渡していった。



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