「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」



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■6月・6) ロンボク島の夢破れ


山あいの村・ウブドは、こたつに足を投げ入れて、くつろいでいるような居心地よさがある。
1週間の滞在予定が、いつの間にか1ヶ月となっていた。
後ろ髪を引かれる思いで重い腰をあげた。

ウブドは「寝床探しの旅」の候補地に入っていない。
候補地は、サイコロをころがしたり、どちどちどちらにしようかな、なんていい加減な気持ちで決めたわけではない。内戦中の危険な国や大都会を除外し、訪れたことがあるが興味のわかなかった都市を消去した。苦手な寒い冬が襲う国は、避けたい。できれば、暖かいところがいいと、地球儀をまわして赤道に近い国々をなぞってみた。
そうやって、いくつかの国を候補にあげた。トルコのイスタンブール、ネパールのポカラ、タイのチェンマイ、インドネシアの島が選ばれた。
第1候補がインドネシアになった理由はこうだ。
20歳の頃、大学を休学してソビエト経由でヨーロッパ、中近東、東南アジアと1年ほど節約旅行をしたことがある。1ドルが360円の時代だ。その帰路、インドのマドラスからマレーシアのペナン島に海路で上陸した。
この時の船旅の話を簡単に書いておこう。
マドラスで一等旅客室を予約したが、代行業者は、わたしにデッキ席のチケットを渡してとぼけた。「あなたのために、良い客室を予約しておくから」との言葉は、詐欺だったようだ。
片言の英語で文句を言ったが埒があかない。ビザは、この日で切れる。この船を逃したら、不法滞在になってしまう。わたしは渋々、乗船した。業者を信用したわたしが馬鹿だった。
デッキ席は、その名の通りデッキの上だ。
足の置き場もないほどの乗客で埋まっている。わたしは救命具の入った大きな箱と壁の隙間を確保し、バックパックの横に腰を下ろした。一等旅客室とは雲泥の差だろう。
乗客は、シンガポールやマレーシアからガンジス川に巡礼に訪れた帰りのヒンドゥー教徒がほとんど。中には、ガンジス川に死に場を求めたが、死にきれず帰路についている人もいる。
食事は3食付いていて、船底のレストランに出向いて行ってもらう。バックパックで場所を確保し、船底に降りて行く。階段にもレストランにも、乗客はいっぱいだ。人をかき分けかき分け、前に進む。
手にしたカレーは、これ以上薄くできないだろうと思うほど、水っぽいシャビシャビ・カレーとナンだ。それでも、食べないと飢えてしまう。
デッキに戻ると、わたしの腰を下ろす場所がなくなっていた。倒れ込むようにして人を押しのけ、バックパックに腰を下ろした。一度、足を上げると、下ろすところがなくなるほど混んでいる。
船が揺れると、カレーのスープと得体の知れない液体がデッキを流れる。
太陽がギンギンに照りつける日。雨が降りつける日。これが一週間続く。これが、“地獄の航路”と言われる所以だ。一等旅客室で、悠々と船旅をしたかったな。
ペナン島に上陸したあと、シンガポールに入国するという旅の計画であったが、当時のシンガポールには、長髪のヒッピー風旅行者は入国できないという噂があった。この時のわたしは、長髪にアフガン・コートを着た、まさにヒッピーの風貌。そんなことで、シンガポールとその南に控えるインドネシア諸島の旅をあきらめ、進路を北に変更しマレーシアからタイに入り帰国した。
今回は、22年前に入国を果たせなかったインドネシアを加えて、候補地の筆頭にあげた。

行き当たりばったりの無謀ともいえるわたしの旅に、友人がロンボク島の情報を与えてくれたのは幸運だった。ロンボク通の友人は、ギリ・トラワンガンで撮ったビデオを見せてくれた。透明度の高い海水から海底の珊瑚礁が、日本庭園のように美しく見えた。人工的なものがまったく感じられない素朴な島が気に入り、ここで生活したいと考えるようになっていた。
友人から「訪ねて行くといい」と、小さな紙片を手渡された。紙片には、アルファベットで「TIO」という名前と彼の住所が控えてあった。「TIO」を並べ替えると「ITO」になる、こんな偶然も、わたしの旅の強い見方になるような気がしてくる。
友人がティオと別れたのは、半年前のこと。半年前の情報は、西海岸にあるスンギギ海岸とそのすぐ上にあるギリ・トラワンガンだった。
「スンギギは、最近になって観光開発の手が入った海岸だ。そこの土地が、日本では考えられないほどの安さで売られている。ギリ・トラワンガンにも、まだ安い土地があるとティオは言っていたので、行ってみるといい」と友人は教えてくれた。
大海原をウインドサーフィンで、野山をトレイル・バイクで駆けめぐるのが、わたしの夢でもある。ギリ・トラワンガンなら、そんな夢が叶いそうで、期待に胸がふくらんだ。
30代の頃、ライブハウスを経営していたことがある。そんな経験を生かして、海岸沿いでライブ・ミュージックの聴けるレストランでもやろうか。そうすれば、日本から遊びに来たライブハウス時代の仲間たちが、演奏を楽しんでいける。そんな計画を胸に秘めた。
インドネシアのことをまったく知らないわたしには、ワラを掴むような心細い情報でもありがたかった。こうして、インドネシアの数ある島々の中からロンボク島が選ばれた。
まず、紙片に書かれた「TIO」という人物を旅の足がかりにすることにした。


                      

プラマ社のバスが、ウブドからロンボク島のアンペナンまで出ている。
ロンボク島のアンペナンまでバスでダイレクトに行けるわけではなく、バリ島側のパダイバイ港までバスで行き、そこで乗客はバスから下りフェリーに乗り込む。フェリーは、4時間ほどでロンボク島のレンバル港に到着する。レンバル港でプラマ社の迎えのバスが待っていて、それに乗って州都マタラムまで行く。全行程約8時間だ。
友人か紹介してくれたティオは、アンペナンに住んでいる。まず、彼を捜すことにした。
西海岸にある港町アンペナンまでは、マタラムからベモに乗った。
ティオに連絡がつくと教えられたロスメンは、アンペナンの港に続く商店街の1角にあった。
ロスメンは、中庭を囲むようにしていくつかの狭い部屋があった。トイレは、共同のが2つある。
そこに宿をとり、薄暗いロビーにいた初老の人物に、ティオに会いたいと告げた。初老の人物は宿の主人だったようで、さっそく若い従業員に声をかけた。「ティオに会いたい日本人か来ていると伝えろ」とでも言ったのだろう。従業員が、慌ててロビーを出て行った。
夜遅くなって、ティオはロスメンにあらわれた。
ティオは背が高く、五平餅を思わせる顔の中国系インドネシア人だった。個性が感じられないのが少し不満だが、控えめでおとなしい好青年だった。

次の日、ティオとわたしは、ロスメンの暗くて狭いロビーで軽い朝食をとりながら、今日これからの行動を打ち合わせた。ティオの話では、スンギギ・ビーチの土地はほとんど大手ホテル業者に売却され、わずかに残る小さな土地も高騰しているという。今後、早期にリゾート開発され、近辺には、わたしの嫌いな歓楽街もできることだろう。
決断は、早い方が良い。スンギギ・ビーチをあきらめて、ギリ・トラワンガンに渡ることにした。
「ローカルの交通機関で行こう」と伝えると、ティオは絶句するように驚いていた。友人がどう紹介しているかわからないが、わたしはビジネスをしに来たのではない。ティオは、土地を探しに来た日本人だから、きっとタクシーでもチャーターするとでも思ったのだろう。わたしは、寝床を探しに来ただけだ。
ロスメンから歩いて5分もかからない十字路から、小さな乗合バスに乗った。ひなびた村の四つ辻で、中型乗合バスに乗り換えた。野生の猿が、道にたむろしている峠を越え、塩の香りのする風が吹く村でバスは止まった。チドモと呼ばれる馬車が、客を待っていた。鬱陶しい値段交渉を終え、狭い木箱の荷台に乗った。
20分ほどチドモに揺られると、白砂の海岸に4〜5隻の小舟が繋留されている港に着いた。バングサル港だ。 小舟は、定員の20人が集まらないと出航しない。
チドモが、次々とツーリストを運んでくる。ほとんどが、サバイバルに耐えられそうな、屈強な白人ツーリストたちだ。女性も、逞しい肢体の持ち主ばかりだ。
こんな不便な観光地を訪れる日本人は少ないとみえて、今のところ、わたししかいない。
1時間ほどして、人々が海岸に向かって歩き出した。人数が集まったのだろう。何の説明もないのが愉快で「いいな〜のんびりしていて!」なんて、ニコニコ顔で列についていった。
膝まで海水につかりながら、ボートに乗り込む。
限りなく透明に近い海は、海底の珊瑚礁がどこまでも続いているのが見える。沖合に、ギリ諸島の3つの島影が見える。左手の一番大きいのがギリ・トラワンガン、中央がギリ・メノ、右にあるのがギリ・アイルだ。ギリは、現地ササッ人の言葉で「小島」と言う意味だと、ティオが教えてくれた。
島影を見ながら約30分、ボートはギリ・トラワンガンの海岸に錨をおろした。
白砂の海岸に、降り立った。

船着き場の向こうに、粗末な茅葺き屋根のバンガローが点在しているのが見えた。太陽が容赦なく照りつける、サバンナの村に立った気分だ。
砂浜を離れ、おそらく島を一周しているだろうと思われる海岸線の道に出た。頻繁に使われているうちに、切り開かれたという感じの土の道だった。プラマ社のオフィスも簡素な小屋だった。
「知り合いのレストランがある。そこに泊まろう」とティオは言いい、太陽の昇ってくる方向に歩き出した。 粗末な小屋は、ツーリスト向けのバンガローだろう。いくつか通り過ぎると、バンガローがなくなった。船着き場付近がもっとも賑わっている地域で、それを離れると寂しくなる。
島道が左にゆるくカーブをする地点にある、オープンエアー・レストランの前で、ティオは立ち止まった。板切れに青いペンキで「エキセレント」と書かれた看板がある。
レストランには、客も店員の姿もない。
ティオは、わたしを制して、レストランの奥に入っていった。
数分して、ティオが3人の若者と出てきた。若者たちはレストランのスタッフで、わたしがティオの知人であるとわかると、笑顔で握手を求めてきた。ティオのスポンサーになる人物とでも紹介されたのだろうか、それとも根っからフレンドリーな性格なのだろうか。
スタッフのひとりが「エキセレント」は、アンペナンにいるティオの友人が経営していると教えてくれた。
レストランの奥にあるスタッフ部屋のひとつを、わたしの寝室に解放された。
わたしはスタッフ部屋に荷物を置き、さっそく、海パンに着替えて海に向かった。シュノーケルは「エキセレント」がレンタルしていた。
「エキセレント」前の白砂の浜から10メートルほど沖に入り、身体を横たえ波に漂った。水面に顔をつけ、海底を覗いた。ビデオで見たと同じ色とりどりの珊瑚礁の美しい庭園が、そこにあった。透明度100%、20メートル下まで良く見える。まるで、空を飛んでいるようだ。シュノーケルを付けて波に身体をまかせていると、30分ほどで船着場に流れ着いた。
スタッフが、目と鼻の先にある海岸で、イカを獲ってきた。わたしは、新鮮なイカだから刺身で食おうと提案した。イカを細く切るのは、わたしの役目になった。日本人ツーリストが置いていったという醤油と練りワサビで、イカそうめんの夕食にありつけた。こんな、ワイルドな生活も魅力的だ。
ギリ諸島の状況は、半年間で大きく変わったようだ。スタッフたちの話では、ギリ・トラワンガンは国の観光開発計画に含まれ、一般の人は購入できないことになったという。情報は、すでに古いものになっていた。
ギリ・トラワンガンで数週間を過ごした。
ツーリスト向けの高床式バンガローは、灯油ランプに、塩水シャワーだ。隙間だらけの床からは、下が見える。トイレは、説明したくないほどお粗末な物だった。
電気もなく、井戸水は塩を含んでいるが、こんな海辺の粗野な雰囲気も、わたしは嫌いではない。
夜には、無数の夜光虫の乱舞と、サンド・シャークと呼ばれる80センチほどのサメが、波打ち際で戯れるところが見られる。
ギリ・トラワンガンの海岸からは、バリ島の聖峰アグン山とロンボク島の最高峰リンジャニ山を左右に望むことができる。両峰のサンライズとサンセットの光景は、雄大で美しい。
しかし、わたしは、ここでの生活に、どこか物足りなさを感じていた。


                      

ウブドで過ごした、1ヶ月を反芻した。
ウブドでの生活は、映画の予告編を見て早く本編が見たいと期待がわくような、魅力がある。英語もインドネシア語も満足に話すことのできないわたしは、借りてきた猫のようにおとなしく暮らしていた。それでも、ウブドにはウキウキさせられる、何かを感じた。
歴史的遺跡や建造物が残っているわけでもないウブドは、バリ島のどこにでもある、ごくありふれた田舎の村だろう。しかし、ウブドには、町として機能するために重要な文化と創造の匂いがする。
旅にとって大事なのは、名所でも旧跡でもない、その土地で出会う人だ。人と人との関わりの最も美しい行為が、優しさだろう。人間関係がうるさいほど、人間関係は濃い。ウブドは、そんな人間臭さが残っている。
そして、日本とは別の意味の豊かさを感じる。
ティオには申し訳ないが、ロンボク島の長期滞在をあきらめ、わたしはバリ島ウブドに戻ることにした。


つづく


※現在(2012/7/14)のギリ・トラワンガンは、こちらで。
ギリ・トラワンガンの旅(Gili Trawangan)


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