「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■12月・23)魔法使いのおばあちゃん現れる


ミユキの屋台の常連客の顔ぶれが変った。
イラストレーターの山根さん、ドイツ人青年のステファン君、白いシャツがよく似合う道木さんが旅立ち、代わりにフォトグラファーの小原さん、映像関係で最先端の仕事をしている堀さんとエリさんのカップル、そしてえんちゃんとちーちゃん母娘が加わった。まだ小学校低学年のちーちゃんは、宇宙人と交信できるという不思議な特技(?)を持っていた。
ある日、そんな顔ぶれが集まる中、由美さんが腰痛で困っていた。
ワルンの長椅子に腰掛けるだけで「痛い〜っ!」とうなっている。持病がひどくなったようだ。
由美さんは、顔を歪めながら、サラスワティ祭礼日の翌日(8月12日)に我が身に起こった悲惨な事件を、常連客仲間に話している。
真夜中、宿泊先のスタッフの女の子とチャンプアンの川へルンルン気分で行った由美さんは、バリの文化に触れたい一心で他のバリ人と同じように全裸になって沐浴を始めたのだそうだ。
その日はバニュ・ピナロの吉日で、バリ人はデウィ・サラスワティの恩恵を受けるために身体を浄める。人々は早朝まだ暗いうちに起き、近くの川や海岸へ行って沐浴をし、心身を清めるのである。
わたしもバリの慣習を少しは知るようになってきてはいるが、自分が参加するほどまでではない。そんな風習があるのかと、興味を持って耳を傾けた。
彼女が言うには、初めのうちは気がつかなかったが、そのうち、周りの視線が自分に注がれているのにハッとしたと言う。なんと、自分の裸体が橋の上から懐中電灯で照らされていたのだ。
「恥ずかしくて逃げるように帰って来たわ!」
腰痛の痛みを我慢するかのように、悔しさを吐き出していた。日本人の白い肌が珍しかったのだろうと、その時の状況を自己判断する。
由美さんの話が終わるのを待ち構えていたかのようにアグン・ライが、「バトゥアン村に腕のいいマッサージ師がいるよ」と伝えた。
アグン・ライは、由美さんの話す日本語は理解できなかったが、腰が痛いのはわかったようだ。
由美さんはワラをも掴む思いで「連れて行って欲しい!」とお願いしていた。
ちょうどその場に居合わせたわたしは、アグン・ライとともにバトゥアン村へ由美さんを治療につれて行く約束をした。

次の日、アグン・ライとわたしは、由美さんが滞在しているホームステイに迎えに行った。
テラスにある竹製の椅子に腰掛けて待っていると、しばらくして、由美さんが部屋から出てきた。わたしとアグン・ライは「それでは出発しようか」と腰を上げた。
由美さんが腰の痛みを気使いながら、扉に鍵をかけようとした時だった。
ひとりの老婆が、中庭の向こうから歩いて来た。
老婆は、なんの躊躇もなく真っ直ぐに由美さんの部屋を目指しているようだった。
近くで見る老婆は薄汚れた上着とサロン姿に、束ねた長い白髪の裾は乱れ、歯も口の中も赤黒く染まっていた。
「こ、この人物は、いったい何者なんだ?」
シワ深い顔に、鋭く光る眼がある。タダモノではなさそうだ。風貌からは乞食にも見える。
わたしとアグン・ライ、そして由美さんの3人は、異次元の物でも見たように互いに顔を見合わせた。
誰にも、ひとことも声をかけずに老婆はテラスに上がり込むと、呆気にとられている由美さんの腕をいきなり掴んで部屋の中に連れ込んだ。彼女の顔には「?」印が浮かんでいた。
扉は、内側からカンヌキがしっかり掛けられた。部屋が「関係者以外立入り禁止」の特別な空間に変ってしまったようだ。
わたしとアグン・ライは、わけのわからないまま、無言で椅子に腰を戻した。
深々と椅子に腰を落としたわたしは、これはアグン・ライが彼女の容態を気遣いマッサージ師に出張してもらったのだろうと考えていた。「黙っていて脅かしてやろう」とジョーク好きなアグン・ライが考えそうなことだ。実際、由美さんは歩くのさえたいへんな様子だった。わたしはアグン・ライの心配りに感心していた。
ほどなくして扉が開き、老婆がテラスに出てきた。
老婆が大声で何やら怒鳴ると、ロジャーが何ごとかと駆けつけてきた。老婆はロジャーに「マッサージをするので油を持ってこい」とジェスチャーで示した。「アーアー、ウーウー」としか声を発しないところをみると、おそらく耳が不自由なのだろう。
ロジャーは顔に当惑のシワを寄せながら、老婆の頭から足の先までジロジロといぶかしげに見つめたあと、あまり気乗りのしない表情でうなずいた。
ロジャーから椰子油の入った椰子殻のお椀を受け取ると、老婆は部屋に戻り再び扉を閉めた。
・?・?・?・?・?・?・?・?
1時間ほどして、老婆は部屋から出て来た。
老婆はアグン・ライの顔も見ず、もちろんわたしの顔も見ないでホームステイを去っていった。約束でもあったように堂々と現れ、堂々と去って行った。
あの老婆は何者だったのか、そして、約1時間、われわれが外で待っている間、部屋の中では何がおこなわれていたのだろうか。

由美さんの証言を再現してみよう。
「何が何だかわからないまま部屋に引っ張り込まれたけれど、このおばあさんは本当にマッサージ師なんだろうか? 半信半疑のわたしにおばあさんは、『裸になってベッドに横になるように』と命令した。命令するといっても、おばあさんは『アー、ウー』としか言わない。こちらが恐る恐る声をかけてもなんの反応もない。わたしはますます恐ろしくなった。
ジェスチャーからすると、マッサージをしてくれるということはわかる。渋々服を脱ぎはじめると、おばあさんは前歯の欠けた歯をむき出してニターッと笑う。その口が吸血鬼が血を吸った直後のようで、真っ赤っか。思わず身体が縮まってしまいそうだった」
老婆が噛んでいたのは、キンマと呼ばれる葉に粉末の石灰とビンローをくるんだシリー・タバコと呼ばれるもの。少々覚醒作用があるらしい。噛んで出た唾液は、飲み込まないように吐き出す。ピューと飛ばした唾液は血のように赤い。
「この腰の痛みを癒してくれるのなら誰でもいい。わたしは正体不明の老婆に身を任せることにした。それに、この老婆には逆らえない何かがある。痛い腰に顔をゆがめながらベッドに横になった。
老婆は部屋の片隅にある机の上に線香の袋があるのをめざとく見つけ、中から3本取り出すと、そこにあったマッチで火をつけた。
3筋の紫煙をともなった線香を胸から額へ額から胸へと3度繰り返し、口もとではぶつぶつと念仏でも唱えている。これがマッサージをはじめる前の、老婆の厳粛な儀式のようだった。
椰子油を掌に移し取ると、うつ伏せになるように命じた。首筋から脊髄へと猛烈な力が加えられた。
数分して・・・・突然、老婆の手が止まった。患部を見つけたのだ。
『ここが痛いのだろう』と言わんばかりに『ウーン、ムムムーッ』と叫んでいる。
教えてもいないのに、どうして腰の痛いのがわかったのだろう。バリには、こういう能力を持った人がいるとは聞いていたが、この老婆もそうなのか。
これが噂に聞く、呪術師バリアンなのかもしれない。
老婆はていねいに患部をマッサージしたあと〈ここを触ってみろ〉と、わたしの手を掴んで腰に持っていった。指先に、豆粒大の小さなしこりを感じた。
老婆がマッサージを続けた。腰から足に向けて強くさすっている。
しばらくして、今度は手を膝の裏にもっていって当てさせた。なんと、先ほどのしこりが膝の裏に移動しているではないか。マッサージで、しこりをだんだんと足の下へおろしているようだ。
次に手を当てたところは、アキレス腱だ。またしても、しこりが移動していた。これが何を意味するのか理解できず、ただただ、不気味なしこりが移動をすることが不思議だった。
老婆は次に、アキレス腱を親指と人差し指で挟むようにして何度もさすった。
そして、突然『ウンッ!』と大声をあげた。
老婆は自信ありげな笑顔を見せて、アキレス腱を触ってみるように示した。
しこりはあとかたもなく消え去っていた。
〈もう、悪いものは外へ捨てた〉と身振りで老婆は説明した。と言っても、外へ出したしこりは眼には見えない。
そのあと整体まがいの治療をし、背骨をねじられ、ボキボキ音をさせて治療は終わった。
老婆はわたしの身体にサロン布を掛けると、〈起きあがってみなさい〉と身振りで伝えた。
恐る恐るベッドで上体を起こしてみた。驚きのあまり声が出ない。腰の痛みがまったくなくなっていたのだ。 日本で何度も医者に通い治療をしても、まったく治らなかった椎間板ヘルニアの痛みが消えている。腰痛は老婆の手によってしこりと化し、体内から抽出されたのだろうか。
『これは奇跡だわ! おばあさん、すごい!!』。思わず喜びの声をあげた。
〈足を床につけないようにベッドの端に腰掛けるように〉。老婆はジェスチャーする。
新しい線香に火がつけられた。
老婆は線香を、わたしの身体のまわりと足もとにかざした。清めの儀礼のようだ。
〈合掌するように〉と示すと、老婆はわたしの両手を包み込むようにして、お祈りをした。
儀式は終わった。
幾らかのお金を渡すと、老婆は何事もなかったかのように扉を開けて出ていった」

由美さんがテラスに現れた。
「魔法のように治ってしまったわ。ところであのおばあさんは誰が呼んでくれたの?」
わたしとアグン・ライは、お互いの顔を覗いた。
アグン・ライは今の今まで、わたしが呼んだマッサージ師だと思っていたと言う。
3人の顔に「信じられない」という表情が同時に浮かんだ。
突然現れた老婆に、どうして彼女が病気だとわかったのだろう。そもそも、なぜここにやって来たのだろう 。老婆は彼女の部屋を目指して一直線に中庭を歩いて来た。
信じられないことが眼の前で実際に起こった。これは神からの使いとしか考えられないほど、不可思議な事実だ。
アグン・ライが連れて行くことになっていた、バトゥアン村のマッサージ師との約束は反故になったが、何はともあれ、由美さんの腰痛は治まった。
この時から老婆は、由美さんにとって「魔法使いのおばあちゃん」となった。


つづく


※《「極楽通信・UBUD」ウブド奇聞》: 《魔法使いダドン》を、参照しました。



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