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バリ島滞在記「ウブドに沈没」


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■12月・24)日本食料理店の開店計画


サクティの家は、2階の骨組みが完成し、脇に積み上げられたアランアラン草の屋根材が葺かれる日を持っていた。来年の5月には、新居として住むことができるかも知れない。楽しみだ。
1階は、正面から見て左手に台所。台所を少し飛び出させ、残りの中央に扉、左右に小窓を作ってもらうように頼んでおいたが、いつのまにか全体が左右対称になっていた。これがカルタの望みなんだろうと文句をつけるのをやめにした。

いよいよ、ウブド初の日本食料理店の誕生だ。
わたしは目立つことを避けるわりには、人真似が嫌いなこともあって “初”というのにこだわるようだ。思いついて始めたことが、偶然、わたしの地方では初だったということが多い。“初”であるだけに商売は難しい。あきらめも早いので、商売は頓挫することが多かった。「先取りし過ぎだよ」のアドバイスは、褒め言葉だとして受け入れた。
場所は、できるだけ村外れの目立たない場所にしたい。これも、心のどこかに日本食料理店の開店を許していない現れだろう。目立たない場所には、今のところ貸店舗は建っていない。そんなわけで、土地を借りて建物から造ることにした。
外国人は、日本人がいつもすき焼きやしゃぶしゃぶや寿司を食べていると思っているかもしれないが、これらは特別の日にしか食べないご馳走だ。特にわたしの家では、そうだった。バリ人のバビグリンみたいな存在かな。
わたしの店は、日頃日本人でも食べないような料理でなく、いつも食べているような家庭料理にしようと決めた。オーソドックスな日本人の食事と日本家屋のディティールで、日本人の生活を少しでも、他の国の人に理解してもらいたい。
変則だが、キッチンは道路に面したところに建てることにした。外観を日本人ならわかる程度の蔵造りに似せ、壁は白黒市松模様に塗り分ける。白黒市松模様はここではポレーンと言われ、バリ人なら誰でも馴染みのある模様だ。この建物が、アイキャッチャーになるだろう。
欧米人には不評を買うだろうが、すべて座敷席。6畳間に床の間も造ろう。自在鍵の吊られた囲炉裏も必要だ。テーブルの高さも日本と同じ。座布団も用意しよう。池のある日本庭園も外国人には受けるだろうな。池の形はバリ島。もっともくびれたクタ辺りに橋を架けることになるだろう。
こんなふうにして、店のコンセプトが決まっていった。
店舗の外観は、できるだけウブドの景観を損なわないように気をつけるつもりだ。屋根瓦と柱を黒くして、壁に土を塗れば日本風になるはず。ほとんどバリ式建築でOKだ。
日本で、カフェバーが流行った時代、クライアントの要望でコンクリートの地肌をそのまま内装にした店舗をいくつもデザインした。わたしは、この無機質なデザインが心地良いとは思えなかった。わたしの目指すデザインは、自然を感じる暖かさだった。ウブドでは、できるだけ環境に合った自然体の店舗を建てたいと考えている。


                      

ミユキに、誰か土地を探してくれる人はいないかと、頼んでおいた。理由はわからないが、ミユキはカルタのことを信用していない。彼なら信頼できるとミユキが紹介してくれたのは、恋人アグン・ライの長兄だった。
ウブドの中心から北に3キロほど行ったテガランタン村にある彼の家をミユキと訪ねた。テガランタン村にはカルタの実家がある。2人は同じ村の出身なのだ。
大きな樹のある寺院前を通り過ぎると、アスファルトの道は土道に変わり道幅が狭くなった。
今にも倒れそうに傾いた土の塀の前に、バイクを止めた。塀の中に、土壁の貧相な家がいくつも並んでいるのが見える。
そのひとつにミユキに案内され、わたしは土のテラスに腰を下ろした。
家寺も荒れていた。
お父さんはすでに亡くなっているが、この家には長兄の他にミユキの恋人アグン・ライと弟アノム、妹プルナミとお母さんが住んでいる。
黒豚が一匹、庭を歩いている。
しばらくして、奥から痩せて神経質そうな男性が現れた。
「アナッ・アグン・オカです」と自己紹介した。人見知りしない性格か、笑顔で迎えてくれた。
彼は、県の教育委員会に勤める公務員だ。村人に、ブリ・オカ(オカ兄ちゃん)と呼ばれ親しまれている、とミユキは教えてくれた。
「伊藤です」と挨拶をして、わたしはブリ・オカに握手を求めた。
ミユキが「オカちゃん」と呼んでいたので、わたしも「オカちゃん」と呼ぶことにした。この方が親しみを込められる。
お父さんがいないので、オカちゃんは弟妹の父親がわりでもある。彼は、家庭が貧乏だったことを語った。多かれ少なかれ、バリ人にはそれなりの苦労話がある。
オカちゃんの苦労話はこうだ。
小学校の制服が一式しかなく、土曜日学校から帰るとさっそく洗濯をする。そうしておけば月曜日には着ていけるというわけだ。普段は、ほとんど裸に近い格好だったという。
長男のオカちゃんは、3人の小さな弟妹の面倒と生活を助けるため、田んぼで田ウナギを掴んできては市場で売っていたと言う。田うなぎ取りは夜、カンテラ片手に行われる。収穫は田うなぎ20匹ほど。時にはタニシやカエルが加わることもある。
この村には、まだ電気が通っていない。電気代、水道代、燃料代の出費がないので、米さえあればなんとか食べていける環境でもある。野菜と果物は庭で採れる。 別れ際、オカちゃんはミユキに耳打ちした。
「伊藤さんの保証人になってもらうのにピッタリの人物がいるから心配いらない、とオカちゃんが言ってるよ」とミユキが伝えてくれた。

オカちゃんが探してくれた土地は、ウブドの南に隣接するプンゴセカン村だった。
モンキーフォレスト通りを並行して走るハヌマン通りを南下すると、右折して猿の森に通じる道と左折してプンゴセカン村に続く道のYの字に出る。以前、ガチョウの親子は右折して猿の森のある方向に歩いていった。
今日のわたしは、左折してプンゴセカン村に向かう。ここから先は、初めて踏み込む土地である。
Yの字の三角地のプンゴセカン側に簡素な掘っ建て小屋が、峠の茶屋といった風情で商いをしている。大きなピンクの麦わら帽子をかぶった愛嬌のあるお姉さんが、土産物を売っていた。
小屋の向こうは、見渡す限り田んぼだ。
建築予定地は、周囲に田んぼしかない寂しいところ。まさに村外れ。
2キロの道標がある。ウブドの変則十字路から2キロの地点ということだ。サクティの家と同じ2キロの地点。偶然だが、こんなところに運命的なものを感じる。
これより南に行くとプンゴセカン村の集落がある。プンゴセカン村はプンゴセカン・スタイルと言われる花鳥風月の絵画で名が知れている。
それと、高名なバリの呪術師の屋敷がある村だ。サダ・ブダヤ歌舞団ガムラン公演の記念冊子「芸術の島・バリ」に、宗教人類学者・中沢新一氏の随筆「ファルマコスの島」が掲載されていた。その文章に中に、呪術師になるための基礎訓練を呪術師K・Lから伝授したとあるが、K・Lはクトゥッ・リエール(Ketut Liyer)氏のことだろう。村人から「日本人が数ヶ月滞在していた」と聞いているから間違いない情報だ。その後、中沢新一氏の体験を読んだ日本人青年が1ヶ月程、クトゥッ・リエール氏に師事したが、彼は精神障害を患って帰っていったとも教えてくれた。
空き地に立つと、稲の穂先が静かに揺れた。さわわさわわ、と表現するにふさわしい風情だ。
田んぼの向こうには鬱蒼とした椰子の木の森がある。そのまた向こうには、アグン山がくっきりと浮かび上がっていた。振り返ると「カフェ・クブク」と「猿の森」の緑が見えた。
田んぼの中の一軒家になってしまうが、このロケーションの素晴らしさに一目惚れしてしまった。こんな不便なところなら、日本食が必要な人だけが来てくれることになるだろう。これなら目立たずに営業できる。
借地は2.5アール。2000年までの10年間を契約した。


                      

あとは、料理人探しだ。
わたしは、料理がまったくできない。息子と暮らしていた時は、必要に迫られて料理を作ったこともあった。オムレツ、野菜炒め、カレー、スパゲティ、おにぎり。ほかに何を作っていたのだろう。メーニューには、限界があった。美味しくもない料理を、文句も言わず食べていた息子が不憫だった。
できれは、料理はしたくない。わたしには、据え膳なら、ひとことも文句を言わずに美味しいと言って食べる特技がある。
プロの日本人料理人を雇うほどの規模ではないし、そんな高級店を造るつもりもない。バリ人に料理を教えることになるだろう。
わたしは、料理人に由美さんを考えていた。
彼女は、父親と弟の食事を何年も作っていたと聞く。家庭料理だが、わたしはそれで充分だと考えた。
それに彼女は今、「憧れのバリ」が「大好きなバリ」に変わりつつある。ひょっとすると、長期滞在を受け入れるかもしれない。
就業ビザの心配はあったが、目立たなければ大丈夫だろうと、わたしはいたって楽観的でいる。
ミユキの店で、わたしは由美さんに「日本食料理店を開店したいと思っているのだけど」と相談をした。
「料理人ではないが、料理をすることは好きだから」と、協力することを約束してくれた。
彼女はいずれ日本に帰るつもり。あくまでも開店にこぎ着けるまでの応援で、腰を落ち着けることは考えていないだろう。しかし、わたしは、彼女に将来的に手伝ってもらおうと目論んでいた。

店名についてだが、いつどこで、どのようにして決まったのか、うろ覚えだ。
ミユキの屋台で常連客が集まった時か、長期滞在の面々がロジャースに顔を出した時だったか、まったく思い出せない。誰がいたのかも忘れている。
とにかく雑談の中でのこと。
「伊藤さん、店の名前はもう決まった?」と誰かが訊いてきた。
そう言われてみれば、今まで店名について真剣に考えたことがなかった。
「いや、まだだ。何か良い名前はないだろうか?」。わたしは参考程度と考えて期待もしないでそう言った。
雑談は、テーマが決まって盛り上がった。全員が思いつくまま、口々に発言している。
その時、いくつかの名前が出たが、どれも今ひとつピンと来なかったのだろう、その時の状況が浮かばない。
誰かが「“影武者” はどう?」と言った。
わたしは、心の中で「それだ!」と直感していた。
店名についてはそれで終わり、雑談は誰かの新しい恋人の話に流れていった。
後日、わたしは店名 “影武者” について考えていた。
“影武者” の本来の意味とは離れるかもしれないが、“影”というフレーズがわたしの生き方に通じるものがあった。
わたしの生き方は、目立ちたくない。自分が表に出ることを好まない。人の影になって動く。縁の下の力持ちがという意味ではなく裏側にあって指示をする人、影の首謀者が気質に合っていると思っている。そんなところが直感に触れたのだろう。
そして、いかにも外国にある日本食店料理店というイメージだ。
ちなみに、黒澤明監督の映画「影武者」が、1980年公開されていたことをわたしは知らなかった。
「いいね、影武者」。わたしはひとり満足している。
こうして日本食料理店の名前は「居酒屋・影武者」と決定した。
「影武者」という店名を考えてくれたのが誰だったか、うかつにも思い出せない。(誰か心当たりある人がいたら名乗り出て欲しいと思う。お礼を言わなければならない)
そして、幸いというか生憎といくか、わたしの建築資金が足らなくなってきた。
わたしは、由美さんに共同経営の話を持ち出した。
こんなことろがミユキの言う「ウブドの無責任男」の由縁かもしれない。
由美さんの心中は理解できないが、共同経営については快諾してくれた。


つづく



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