「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」



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■1月・25)居酒屋・影武者の工事開始


1991年元旦。
熱帯の太陽が、草、花、木々を眠りから醒ましてゆく。
わたしにとって、バリで初めて迎える新しい年の夜明けだ。
新年は年に1度、自由に使いなさいと、すべての人に同じ条件で配られる真新しい1枚の白い布だ。無垢な白い布をどう使うかはその人しだいというわけだ。
バリ人は、バリの伝統的な暦に基づいて生活している。210日を1年とするウク暦と、暗月(新月の前日)からつぎの暗月までを1ヶ月とし、12ヶ月を1年とするサカ暦のふたつだ。
彼らにとっての新年は、ウク暦の祖霊が還ってくるガルンガンの祭礼や、サカ暦の静寂の日と呼ばれるニュピだろう。西洋暦の新年は、まったく関係ないものと言ってもよい。
1年の計は元旦にありなんてあらたまった気持ちになろうにも、まわりのバリ人が普段と少しも変わらない生活を送っていては、とてもそんな気分になれない。
それでもなんとか正月気分を味わおうと、長期滞在の仲間が集まってバリで用意できる食材でおせち料理もどきを作ってみたり、おとそ代わりに日本酒を飲んでみたりと試みる。
ところが、外は椰子の梢木に強い陽差しがガンガンと照りつける風景だ。
わたしの正月は、こたつに足を投げいれ、みかんの皮を剥きながらと相場は決まっている。寒くない正月なんて、富士山の頂に雪がなくなったような風情のないものだ。これでは、いっこうに雰囲気がでない。
そんな味気ない正月だが、屋台街は賑わい、ミユキの屋台にも年末年始にかけてツーリストたちが多く訪れて忙しい。わたしたち常連も、慌ただしいが楽しい時間を過ごす。
正月三が日も過ぎると台風一過、ツーリストの姿が消え始める。


                      

オカちゃんが、タンパクシリン村で材木が安く手に入るかもしれないという情報を仕入れて来てくれた。
タンパクシリン村はウブドから北に10キロほど離れた、10〜14世紀の遺跡が多く残る村として有名だ。
さっそく、わたしとオカちゃんは下見に出掛けることにした。オカちゃんの運転する軽トラックの助手席にわたしは座った。
「ティルタ・ウンプル」と呼ばれる、聖なる泉の湧く寺院の前を通り過ぎると、道は大きく左折した。
しばらく進むと道路沿いに、つい先ほどまで並木のように立っていたと思われる椰子の木が幾本か倒されていた。実をつけなくなった古い椰子の木は、切り出して材木にするのだそうだ。真っ直ぐ伸びた椰子の木は、柱材に適している。わたしは、早々に椰子の木を6本購入した。
横倒しになっている大きな木が眼に入った。
わたしはオカちゃんに「これは売るのかな?」訊いてみた。
オカちゃんが村人に尋ねると「そうさ」と答えようだ。
その大木も買うことにした。
梁と飾り柱とテーブル用に切り落とす箇所を指定して帰ってきた。
店舗の主な部分の材木が手に入った。これは大きな収穫だ。
現場監督は、土地を探してくれて名義人にもなってくれたオカちゃんだ。これがウブドではルールになっているようだ。
オカちゃんは、実家のあるテガランタン村から大工さんを集めてくれるという。バリ人はできるだけ、仕事を家族や同じ村の人に頼む。これもバリ人が大事にしている、助け合い精神のひとつなのだろう。
大工さんといっても、左官工事、タイル工事、建具工事、塗装工事、水道工事、造園工事となんでもこなしてしまう器用な人たちだ。
棟梁は、寺院の祭礼や儀礼にたずさわる、プマンクと呼ばれる僧侶だった。

いよいよ「居酒屋・影武者」の建築工事の始まりだ。
以前は田んぼであったろうと思われる空き地には、雑草が生い茂っている。土地は、奥に行くにしたがって低くなり、最終的には1.5メートルほどの段差になる。平らにするには埋め立てる必要がある。
トラックで土が運ばれてきた。
トラックは荷台がオートマチックに傾いて土が落ちるというダンプカーでない。なんと、土は人力によって下ろされた。下ろされた土もまた、人力で運ばれる。ネコ車(工事用の手押し一輪車で、土などを運ぶ)でもあれば助かるのになと思いながら見学している。奥の低くなった土地に、バケツを使って何度も何度も往復する。土は、クワで広げられていった。
土を盛るにしたがって借地の2.5アールの全貌が現れてくる。ここに自分の店が建つと考えただけ興奮してくる。
雑草が刈り取られ、竹で組まれた小さな資材置き場が造られた。
資材が盗まれることがあるので、資材置き場には若者が2人泊まり込むことになった。ここの連中は、ひとりだと泊まれない。寂しがりやなのだ。男同士抱き合って寝ていることもよくある。
盗んだ資材を売りに来る輩もいるので、物売りからは買わないようにと、わたしは棟梁から注意された。
泊まり込むことになった若者の1人は、4ヶ月前にミユキの屋台をクビになったコップリンだ。コップリンはバイクや車のクラッチを意味する言葉で、気が変わりやすいという意味らしい。彼の性格を表したあだ名だ。
オカちゃんを訪ねた時に見た、今にも倒れそうな傾いた家にコップリンは住んでいる。オカちゃんとコップリンは親戚だ。オカちゃんと同じアナッ・アグンで先祖は王族か貴族だった。バリのカーストは現在、称号として残っているだけだということがこれでわかる。こんな言い方は、コップリンに失礼か。
コップリンは、ミユキの屋台に顔を出すわたしに「イトサン、ウブドに滞在し始めて何ヶ月になる?」といつも訊いてくる。「3ヶ月」と正直に答えようものなら「3ヶ月もいて、インドネシア語ができないのか」と嫌みの一言が返ってくる。
わたしの語学力の進歩は、確かに遅い。それにしても、中学校もろくに通わずに中退した15〜6歳のガキに言われる筋合いはない。と言っても、堪忍袋の緒が切れて言い争いになることは、今のところわたしの語学力では心配はない。
テガランタン村の大工さんたちは、建築現場まで片道1時間かけて歩いてやってくる。日の出とともに起きる彼らは、朝8時には、もう現場に来て仕事を始めている。
終業は、早く家で寛ぎたいのか、川での水浴びに間に合わせるためか、農夫たちが農作業を終えるように日が暮れる前には仕事を終えて家路を急ぐ。わたしの時計では、夕方5時だ。
彼らは時計を持っていないが、かなり正確な時間で帰っていく。プトゥル村に帰る白鷺と同じだ。もしかすると、白鷺の帰還は彼らの時計替わりになっているのかもしれない。
時計はなくとも、日の出、日の入り、太陽が真上に来た時などの自然の法則を一日の節目として生活しているのではないだろうか。
そんなことから彼らとは時間で約束せず、朝、昼、夕方と大雑把だ。わたしもそんな時間感覚に慣れてきた。

基礎工事がはじまった。
行政から、将来道路が拡張される予定があるからと、道路から4メートルのセットバックを強いられた。駐車場にするには、ちょうどよい広さだ。真ん中に電柱が残るのが不便で不格好だがしかたがない。
土台となる位置に大きな穴を掘る。コンクリート・ブロックを平積みにし、コンクリートで固めていく。セメントの値段が高いからか、コンクリートに砂利の割合が多い。耐久性が心もとないが、それでも、これがバリ人のやり方だから、それに従うしかないだろう。コンクリート・ブロックもセメントの分量が少ないため、少しの衝撃で割れたり、大雨になると崩れてしまう。
 
ある日のこと、この日は晴天で、遠く霊山アグン山が雄姿を現していた。
素晴らしい景色を見ると、思わず、その景色に向かって小便をしたくなるのもわたしの性分。わたしは、おもむろに現場の北端に立ち、青空に輪郭を見せるアグン山を仰ぎ見ながら、小用を足そうとした。
その時、後ろから、大工たちが叫んだ。
「×!#?・×!#?・×!#?・・・」
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
ジェスチャーで「そこで、小便をしてはいけない」と言っているようだ。
そうだ、アグン山は聖なる山。その聖山に向かっての不浄な行為は、バリ・ヒンドゥー教への冒涜なのだ。わたしは、穴があったら入りたい心境で、資材置き場の裏に隠れて小用を済ました。
その後、大工たちの小便行為を見た。なんと、座り小便だった。司馬遼太郎著『義経』を読むと、高貴な方は座って小用を足すとあった。彼らも身分の高い人たちだったのだ。逆に、女性の立ち小便を見て驚いたことがある。おばあちゃんだったが。

休憩時間にコップリンが「イトサン、コピ飲むか?」とすすめにきた。
コーヒー好きなわたしは「やぁー」と笑顔で答える。こうしてコップリンは、わたしの数少ないバリ人の友人となった。
コップリンは、ドブなのか田んぼの水路なのか判断できない小川でコップを洗う。それを見たからといって、今さら断れない。彼らは、いつもこうして飲んでいるのだから。
コーヒーが眼の前に運ばれた。
大工さんたちの好奇な眼にさらされて、わたしは平然を装い、少し汚れが気になるコップを手にした。これも、彼らとのコミュニケーションのひとつだと信じてコーヒーをすする。コーヒーに使われた水は、向かいのギャラリーの井戸からもらっているので、こちらのほうは安心だ。
大工さんのひとりが、近づいてきた。
彼は、脂ぎったベタベタとした手で、いきなりわたしの手を握ってきた。生まれてこのかた、握手以外に男性に手を握られたことはない。どう対処してよいやら戸惑ってしまう、初めての体験。手を繋いで一緒に歩いた。あ〜気色悪い。
バリの人々は、この手をつなぐという行為はなんの不自然も感じないようで、男同士が手をつないで歩くのは珍しいことではない。恋人のように、しっかりと手を握って歩いている光景をよく眼にする。
このベタベタおやじが言うことに、「影武者」を建てるこの土地はインドネシアの共産党勢力によるクーデターのあった1965年、多勢のバリ人が逃げ遅れ亡くなった場所だそうだ。バリ全体では推定10万が虐殺された。
「そんなところだけどいいのか?」と言いたいのだろう。
わたしは、過去の経験で多勢の霊が漂っている地が商売繁盛になる思っているところがある。名古屋では江戸時代の刑場の跡地に喫茶店を建てたことがある。もちろん、名古屋で有名な喫茶店になった。わたしは、こんな迷信を信じる男だ。
この話を聞いてわたしは、「居酒屋・影武者」が客で賑わうことを確信した。


つづく




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