「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■2月・26)麻薬の売人容疑で危うく逮捕


うろこ雲が大空を覆い隠し、強い陽射しを遮っていた。
夜には、うろこ雲を押しやるように銀色に輝く入道雲が空を埋め尽くしていた。
これが雨季明けのセレモニーだったようで、次の日からは、暑い毎日が続いている。

「影武者」の工事現場に、珍しい人物が顔を見せた。
ビザの保証人になってもらっている、アグン・ラカさんだ。
お世話になっているが、めったに顔を合わすことはない。頼み事がある時は、わたしの方からマス村にある自宅を訪ねている。
マス村の「アグン・ラカ・ギャラリー」で財を成し、昨年、ハヌマン通り南端のY字路付近にレストラン「ベベ・ブンギル」、そして、「影武者」より300メートルほど南下したライスフィールドの中に「アグン・ラカ・バンガー」をオープンした。
保証人になってくれたのは、オカちゃんが近い親戚のひとりだということもあるだろうが、オカちゃんがラカさんの信頼を得ていることも確かだ。
わたしが日本人であることも、おおいに理由となっているだろう。
ウブドはバリ島観光ツアーの途中にギャラリーに立寄りバリ絵画をお土産として購入していくだけの場所だったが、近年、ウブドに滞在する日本人ツーリストが増えてきている。
宿泊者の少ないウブドでバンガローを始めたアグン・ラカさんは、日本人であるわたしの意見を聞きたいのかもしれない。それならそれで役に立とうと考えている。バンガローにお客を紹介することで、感謝の気持ちをあらわすつもりでいる。

ラカさんの親戚でバンガローのマネージャーをしているB君に会ったのは、保証人の書類にサインをしてもらうために自宅を訪ねた時だった。その頃、B君は日本人女性と付き合っていた。彼女の招待で日本へ行くことになり、いくつかのアドバイスをして別れた覚えがある。
B君がその後「イトサンは日本で何か悪いことをして、日本にいられなくなってバリに来たのですか?」と訊いてきた。
「あの日本人を信用してはいけない。あの年齢でひとり、こんなところに長期滞在するのは、きっと怪しい人間に違いない。だから、あまり仲良くしないほうがいいよ」と彼女が言ったのだ。
「40過ぎの男が、一人でこんなところで生活するのはおかしい。きっと日本で悪いことでもしてきたのだよ」と刻印を押されたようだ。
「火のない所に煙は立たない」と云うが、まったく根も葉もない噂を捏造されることもあるのだ。一度も会ったことのない他人に「あの人には気をつけろ」などと、中傷される。良い噂なら心地良いだろうが、悪い噂は気になるものだ。
「眼の前にいるわたしが、そのままの人間だと思うよ」
わたしの言葉に、B君はどちらを信頼したものか迷うような、複雑な顔をしていた。

生き方や価値観が自分とあまりに違っている人間を見ると、勝手に想像を巡らせてしまう。彼女は、30才を越えている。人にはいろいろのタイプがあることを知っても良い年齢だ。
日本に旅たったB君は、彼女が面倒をみるわけでもなく冷たく扱われたそうだ。「こんなみっともない男性だとは思わなかった」と言って、自分は仕事で忙しいからと友人にB君を押しつけた。環境を変えると、それまでの輝きを失ってしまうことは良くあることだ。
彼女は、B君の人柄を好きになったわけでなく、バリを背景に持つバリ人のB君に憧れていただけだったのではないだろうか。
B君は、自分の少ない所持金で細々と滞在していたそうだ。
日本から帰って来たB君は、わたしに「楽しかった」と言うが、彼を世話した友人は「見ていられないほど、可哀想だったよ」と連絡してきた。そして、彼女との関係は消滅した。自分勝手な女だったのだ。
40歳を超えた男がひとりで長期滞在していると、こんなふうに見られるのだと思い知らされた出来事だった。

床の間を造るための丸太を切っていたわたしは、手を休めてラカさんに会釈した。
ラカさんは、中に入って来ようとしない。いつも見せる優しい笑顔がない。いつもと違って、どこか緊張しているように見える。
ラカさんは手首を振って、こちらに来いと手招きした。
わたしは、手にしていたノコギリを床に置き表に出ていった。
「お久しぶりです」。片言のインドネシア語で挨拶した。
「大事な話がある」。ラカさんは、こわばった表情に、言葉は固かった。
店の中には、大勢の大工さんが働いている。表に呼んだのは、聞かれてはまずい内容なのだろう。そんなラカさんの興奮が伝わって嫌な胸騒ぎがした。
「どうしました?」。わたしは、取りあえず話を促すように訊いた。
「さっき、わたしのところにイミグレーションに勤めている友人が訪ねてきた。彼は、イトサンが大麻の密輸で疑われていると言っている」
日本にいる時、手にしたことはある。その頃のことが今、この遠い異国の地で影響するとは考えられない。ウブドは、大麻を吸っても許されるような開放的な雰囲気があるのは確かだ。ウブドで知り合ったツーリストと1、2度喫煙したことはあるが、それはささやかなものだ。
大麻は、インドネシアのスマトラ島西端・アチェ地方で豊富に採れる。マジック・マッシュルームは、ウブドでも容易に手に入る。ピッピーたちには、そんなところも楽園だと考えていたのだろう。いかにも覚醒して描いたと思われる、バリ絵画を見ることもある。
つい最近、以前ロジャースに泊まっていたあるドイツ人男性と日本人女性が、大麻所持で逮捕されたという噂を聞いたばかりだ。このところ取り締まりが厳しいようだ。男性は裸足で村を徘徊し、よく大声をあげて彼女と喧嘩をしていた。
「ギンジとフジコという名前の人物を知っているか?」
ラカさんが心配顔で訊いてきた。こんな時代がかった名前の知り合いは、わたしにはいない。うさんくさい話になってきた。
「クタで捕まったギンジとフジコという日本人カップルが、ウブドに滞在しているイトサンに、大麻を日本に運ぶとように頼まれたと自供している」
生真面目な性格なラカさんが、かなり動揺している。保証人に迷惑をかけることはできない。
「どうすればよいでしょうか?」
「早く手を打たないといけない。今夜、イミグレーションの友人がお前のホーム・ステイに訪ねると言っているので話し合ってくれ」
「わかりました。身に覚えがないことですが、直接訊いてみます」
昼下がりの農道での会話にしては、シリアスな内容だった。


                      

夜7時、庭を見渡せるように開け放した扉の向こうに人影が現れた。約束の人物か。
わたしは、テラスで彼を迎えた。
バリ人には珍しい長身の男だ。面長な顔から、用心深い眼が執拗にあたりを見回した。どう見ても人がよさそうには見えない第一印象だ。
ここで話をするわけにはいかないので、部屋に入れてくれという態度。思った通り、悪質な魂胆がある顔だ。
テラスには、小さなテーブルが一つと竹の椅子が2つある。たいていの訪問者は、ここで話をする。わたしは、しぶしぶ男を部屋の中に招いた。
男は、隙間を見つけてタイルの床に直接腰をおろした。狭い部屋に2人座ると、お互いの顔が1メートルと近くになる。
わたしにとって狭いながらも快適な空間が、一瞬にして重苦しい陰湿な空間となった。
男は、役人独特の慇懃な態度でわたしの顔を覗き「ナカン・プトラだ」と名乗った。
「これは、保証人に大変迷惑がかかる話だ」
ナカン・プトラは、小さなつぶやくような声でしゃべり始めた。
「あなたの保証人であるラカさんは、わたしの古くから友人だ。彼ら夫妻に迷惑のかからないようにしたい。
ここには、わたしの好意で来ている。だから、正直に話してほしい」
わたしは、このうさんくさい情報を持ってきた人物を、まったく信用していない。
「さっそくだが、あなたは大麻の売買に関与していないか?」
ナカン・プトラの陰険な眼が、異様に光って見える。いけすかない奴だ。
「わたしには、身に覚えがないが」
嫌疑をかけられた容疑者は、こんな気分なんだろう。
「それでは、ギンジとフジコという名前に覚えはないか?」
「そんな古くさい名前の友人を持った覚えはない」
わたしの態度が、自然に横柄になる。
動揺しないわたしの態度に、ナカン・プトラは表情に不満の色をあらわした。動揺するはずがない。まったく無関係な話だ。何かを思考するかのように、彼は、しばらく沈黙した。
「知らないといっても、明日の朝には警察がおまえを逮捕しに、ここへ来る」
「つれていかれてもかまわない」と突っぱねた。旅の途中、誤認逮捕で留置されるのも話の種だ、と軽く考えている。
インドネシアは、麻薬は違法だ。捕まると、かなり厳しい刑になると聞いている。それでも、かなりのところまでは、金で解決できる。
警察官と売人がぐるになって、旅行者を罪に陥れることもある。売人が旅行者に近づき、無理矢理、大麻を旅行者の手にのせる。旅行者が、手にしたところに警察官が登場して逮捕だ。汚い手口だ。警察官が旅行者に大麻の入った袋を持たせ、現行犯逮捕というひどい話もある。
「刑務所に入れられるぞ。それでもいいのか?」
念を押すように、ナカン・プトラは言ってくる。
「刑務所に入れられてもかまわない。わたしは警察へ出頭して、身に覚えのないことを話したい」
「それでは、保証人のラカさんに迷惑がかかるのではないかね」
この言葉に、わたしは大きく反応した。
戸惑いが見えたところを見計らったように「ジャカルタのイミグレーションと警察、バリの2カ所のイミグレーションと警察、それぞれのボスにそれなりの金を払えばもみ消せる。わたしは、そのつてを知っている」 「そんなことをしなくても、わたしは裁判で勝つよ」
ナカン・プトラは、あからさまに渋面した。そして、キリンのような長い首をさらに伸ばし、遠くかなたに思いをはせ、何かを模索するかのような眼になった。眼が現実に戻ると、こんどは、見下すような視線で話かけてきた。
「パスポートを見せてくれてないか」
嫌疑のかかっている事件と、パスポートは無関係のはずだ。ナカン・プトラは、どうしても、わたしにいちゃもんをつけたいようだ。
素直にパスポートを手渡した。渡してから気がついた。わたしのパスポートは、曰く因縁つきのパスポートだ。
ナカン・プトラは、パスポートを一目見るなり「このスタンプは偽物だ。スタンプが滲んでいるのは、悪いことをしているので慌てて押している証拠だ」
妙な理由をつけながら、ナカン・プトラは困ったような顔を見せた。
「明日、警察がこれを見たら、必ず、おまえを脅かすだろう。なんとかしなくては」
いつのまにやら、矛先は大麻の密輸入からビザの話になっていた。
もみ消すためには、袖の下がいる。弱味を握られたわたしは、保証人に迷惑をかけたくないという理由から、金を払うことにした。袖の下の金額は、わたしの銀行預金残高を知っているかのように、残額のすべてだった。明日、銀行から引き出してナカン・プトラに渡すことにした。
これで、わたしの全財産はきれいになくなる。


                      

ナカン・プトラのアドバイスで、急遽シンガポールへ出国することになった。空港には、ナカン・プトラが出向いて、無事イミグレーションを通過した。
靴下を履くのも久しぶり。お上りさんのようにしてシンガポールへ行った。
シンガポールは、整然とした美しさの街だった。わたしは秩序だったものには疲れる。どちらかというと、バリのような混沌とした乱雑さと曖昧さが好きだ。
シンガポールから帰国すると、スタンプでいっぱいになったパスポートを新しくした。
ロジャーに頼んでいた怪しげなスタンプは、このあと、イミグレーション内の同僚による密告で摘発された。同僚でもある、ほかの偽スタンプ・グループの密告だった。
続くようにして、ナカン・プトラが逮捕された。彼も偽スタンプ・グループの一派だったようだ。地方新聞「バリ・ポスト」に大きく取り上げられていた。


つづく




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