「極楽通信・UBUD」



「神々に捧げる踊り」


極楽通信・UBUD神々に捧げる踊り≫プナタラン・パンデ寺院



■第二章 奉納舞踊の一年

 その七:祭司の寺院



「ぜひ、わたしの村のオダランでも奉納舞踊をして欲しい」
コンピアンは、あちこちの村の友人から頼まれ、よくひとりで出かけて行く。
前々から、シドゥモン村の友人にも頼まれていて「その時には、イトサンも一緒に行かないか」と、わたしはコンピアンから誘われている。
シドゥモン村は、バリ島東部カランガッサム県にある。広大な棚田が続く風光明媚な村だ。わたしは、この美しい景色を見に、幾度か訪れたことがある。まったく俗っぽさのない、山あいの静かな村だ。
コンピアンは、1度も行ったことのない遠い遠いカランガッサム県へ、ひとりで踊りに行くのが怖くて、わたしを誘っている。何か想像できない事態、たとえば、トゥンクラ村で起きたレヤックの話のように、悪霊に取り憑かれるのを恐れているのだ。
異邦人のわたしは、そんなことにはおかまいなしで、奉納舞踊ができることを楽しみにしている。


                   


「1週間後の10月6日に、カランガッサム県のブドゥクリン村のオダランで踊るぞ!」
コンピアンから奉納舞踊の誘いがあった。
「あれっ、シドゥモン村じゃなかったのか」
いぶかしげに訊くわたしに「確か、ブドゥクリン村だと言ったと思う」とコンピアンは曖昧な返事をする。
今回は、シドゥモン村の友人の招待ではないようだ。
シドゥモン村で踊れないのは残念だが、ブドゥクリン村も興味が惹かれる。
ブドゥクリン村は霊峰アグン山の麓、水の離宮ティルタ・ガンガの近くで、チャカプンという芸能が残っている村だ。
チャカプンは、男たちが車座に坐り、謡う。竹笛スリンとルバブと呼ばれる胡弓に似た弦楽器が伴奏に使われ、謡の間に口でガムランを真似た合いの手を入れる。手振りは踊るように、表情はユーモアたっぷりに演じられる。夜、椰子酒を飲み交わしながらはじまり、興がのれば翌朝まで続くという。
カランガッサム王国が勢力を誇っていた時代、バリはヒンドゥー文化がもっとも高揚していたと考えられる。もちろんガムラン音楽も、華やかだったであろう。今でも、カランガッサムのガムランのレベルは高い。そんな歴史のあるガムランで、踊ることができるかもしれない。今回の奉納舞踊も、楽しいものになりそうだ。


思いがけないプレゼントをもらったような、嬉しい情報がある。奉納舞踊に、バポ・シジョーも出演するというニュースだ。ワヤン・クリッは、バトゥール山麓のブキット・ムンティック寺院で観ることができた。今回は、バポのトペン舞踊が間近で観られるわけだ。
一緒に出演する人物が、もうひとりいる。
その人物が、われわれの車に同乗するというので、コンピアンの家で彼を待つことになった。そして現れたのが、丸顔のおっさん顔に幼さが残る小太りの男性だった。こんな体型の男性が、トペン舞踊に向いている。あとの楽しみが増えた。
おっさん顔の男は、ウブドにあるカントール王宮の王族のひとりで、チョコルド・オカだと自己紹介した。王族の末裔とは思われない、木訥な人柄に好感が持てた。
ウブドで王宮と呼ばれているのは、中心部の十字路を挟んで7つある。雑誌などによく取り上げられるのは、北東角にあるサレン王宮だ。
北西にあるカントール王宮は、観光客にはほとんど知られていない。
インドネシアがオランダ植民地時代に、政府の役所であったところからカントール(役所)と呼ばれるようになったと聞いた。
領主チョコルスド・グデ・ラカ・スカワティは、1920年の後半にドイツ人のヴォルター・シュピースやオランダ人のルドルフ・ボネなど、西洋人芸術家を招き、芸術集団ピタ・マハを作り上げた人物だ。1931年のパリ植民地博覧会には、バリ舞踊公演を行うなど、バリの芸術発展に多大な功績を残した。インドネシア独立前、東インドネシア国の大統領に就任した人物でもある。おっさん顔のチョコルドは、その孫というわけだ。
ところで、バポは迎えに行くのだろうか。そうなると、また、先回のように待たされることになるかもしれない。
車は3台。
先頭の車は、われわれを招待した村の青年が運転している。同乗者がいないところをみると、この車がバポを迎えに行くのだろう。
チョコルド・オカが、2台目の車の助手席に坐った。招待した青年とオカは知り合いのようで、コンピアンの家で挨拶を交わしていた。
わたしの運転する車にコンピアンが同乗した。もちろん荷台には、トペンと冠の入った籠とふたりの衣裳バッグが積んである。
先頭の車が発進した。
わたしは、オカの乗る2台目の車のあとに続いた。
ボナ村に入ると、先頭の車がスピードを落として大きくカーブした道で止まった。2台目とわたしの車も、それにならって停車した。
木陰から、大きなバッグを持った2人組の男性が現れ、2台目の車に乗り込んだ。彼らはバポのお手伝いだろう。
ボナ村は、竹細工が有名だ。
どこまでも竹製品の店が続く。太い竹で作ったベッドや椅子テーブルなどの家具店が多い。竹の家具が店頭から姿を消すと、今度は最近人気のロンタル椰子から作られたバッグや小物の店が続く。それが途絶えたあたりが、バポの家だ。
車は、見覚えのあるバポの家にさしかかった。ところが、先頭の車はスピードをゆるめることなく通り過ぎた。一体どうしたんだ。バポを迎えに行かないのか。
困惑するわたしの心を無視するように、車はあっという間にギャニアールの中心街を通過してしまった。
バポはまだ、どの車にも乗っていない。すでにほかの車で向かったのか、それともあとからやってくるのか。バポのトペン舞踊が観られないかもしれない、と心配になってくる。
バンリ県を素通りして、クルンクン県の県庁所在地スマラプラ市に入った。
賑やかな市街地を抜ける坂道を下ると、バリには珍しい幅の広い河に出る。振り返ると、丘に密集して建つ家並みの間に、イスラム教寺院モスクが見える。
バリ島のイスラム教徒は、ジャワ島に近い西部バリや都市部に集中している。クルンクンは、王朝のあった古い都市。かつて交易の中心であったことから、今でもさまざまな宗教の人々が混在している。
インドネシアは一神教しか認められていない。イスラム、クリスタン、プロテスタント、ブッダ、ヒンドゥー、国で認められているのはこの5つの宗教だけだ。国民は、身分証明書に信仰する宗教を記載する欄があり、必ず、この5つの宗教のうち、どれかを信仰しなければならない。
ヒンドゥー教はもともと多神教だが、国で認められるための苦肉の策として、バリのヒンドゥー教団はサンヤン・ウディ・ヤソを最高神とする一神教とした。バリ島民の90%以上がバリ・ヒンドゥー教徒で、残りの10%たらずの人々がそのほかの宗徒だ。
ウブドは、信仰心が篤く慣習が強く残る土地柄で、バリ・ヒンドゥー教以外の宗教が村に入ることを嫌う。そんなことから、少数派の宗徒はひっそりと隠れるように暮らしている。
ヒンドゥー教一色のウブドから来ると、モスクの風景は異質に感じてしまう。
長い鉄橋の上から川上を望むと、河を堰き止めたダムが見える。ダム上の裸の姿は、マンディをしているところだ。横一線に並んだマンディ集団は、電線に止まる雀の群みたいで愉快な光景だ。
鉄橋を渡り、上り坂をしばらく進むと、両側に儀式用に使われる色とりどりの傘を売る店が軒を連ねている。このあたりから道路は右手に大きくカーブして、カランガッサム県へ続く。大きなカーブの途中から、左に入る道がある。シドゥモン村への方角だ。
先頭の車が左折した。2台目の車もあとに続いた。わたしも、ステアリングを左に切った。ブドゥクリン村に行くには、右の道を選ぶのが普通のルート。やはり、シドゥモン村へ行くのか。
コンピアンの顔を覗くと「ブドゥクリン村のはずだ」と主張する。
ブドゥクリン村へは、山道経由で行くこともできるが、カランガッサム県の県庁所在地アンラプラ市経由のほうが、近道だし道もよい。しかし、景色はこの道の方が、ずっと良い。
道の左下方の棚田が、われわれの車と離れるのが嫌だとでもいうように、延々と続いている。 黄金色の稲がたわわに実り、重たげに穂をもたげている棚田では、稲刈りの真っ最中。脱穀作業が、バレーボールのトス練習のようなリズミカルで軽快な音をたてている。稲束を竹で編んだ大きなカゴの端に叩きつけて、中に米穀を落とす昔からの脱穀方法だ。
車が先に進むにつれ、棚田は稲の成長過程を示す教材のように、田植えが終わったところ、稲が少し伸びたところ、かなり伸びたところと変化してゆく。確か先ほど通り過ぎた棚田は、田植えの最中だった。
バリの稲作は、2・5期作のところが多い。田植えから稲刈りまでが、なんと4ヶ月というスピード収穫だ。水利の関係で田植えの時期が田んぼによって異なり、こんな不思議な風景に出合うことになる。
フロントガラスの前に、霊峰アグン山の勇姿がカーブごとに見え隠れする。
牛の親子が道を横切る。バリの牛は、鹿のようなキャラメル色をしている。よく見ると、顔も鹿に似ていて愛くるしい。
アヒルの群団がカーブの向こうから、道をはばむように現れた。
農夫の持つ細い竹ざおの先端についた白い布を目印にして、ヒョコヒョコとついて行くアヒルの群がユーモラスだ。農夫の振る竹ざおを合図に、50羽はいるアヒルの大行列は、車に道を譲るため端によった。従順で礼儀正しく歩く姿は、ひと昔前のガイドに引率された日本人団体観光客を連想させる。
つぎから次へと変化する素晴らしい景色に見とれて、ステアリングを握る手がおろそかになる。 車はシドゥモン村に入った。
先頭の車はスピードを落とす様子もみせず、村を通り過ぎるようだ。コンピアンの言う通り、目的地はブドゥクリン村だったのだ。
待て! 2台目の車が止まった。
運転手が雑貨屋に入ってゆく。やはり、この村のオダランだったのか。それとも、バポがここから乗るのか。いずれにしても、クエスチョン・マークのひとつはここで消えることになる。
運転手が、タバコを手にしてもどってきた。どちらも違ったようだ。これで、シドゥモン村のオダランはなくなった。
画家ウォルター・シュピースのアトリエのあった、イセ村を過ぎるとT字路にぶつかる。左に折れると、スラット村を経由してブサキ寺院に行く道だ。ここもライス・テラスの広がる眺望の良い景色で、わたしの好きな道だ。
3台の車は、ブドゥクリン村へ向けて右に折れた。
この道はアグン山の裾を走る、木立に挟まれた道だ。地形に合わせて造られた道は、カーブや短い坂がいくつも続く。
木々が黄昏色に変化しはじめた。夕暮れが近い。
前の車がスピードを落とすたびに、バポがここで待っているのかと、期待する。
山間の村シベタン村に入ると、オダランがあるのだろう、正装姿の村人を見かけるようになった。


シベタン村は以前、偶然に通りかかりオダランに遭遇した。
急坂のS字カーブの途中にある寺院だった。はじめのカーブをまわったところで、正装の男性に立ちふさがれバイクを止められた。前方から、オダランの行列が来るところだった。


シベタン村


厳粛な行列に、車は速やかに止まり、行列に道を譲る。沿道の人々は、神々に対する畏敬の念をあらわして道端で腰を低くする。わたしも急いで道端にバイクを寄せ、側溝に腰をおろした。
数人の男たちに担がれた3台の御輿が、S字の大通りと交差する高台の道から下りてきた。御輿を担いでいる男たちは、すでにトランス状態だ。御輿は寺院の門前で立ち止まった。門前では、僧侶が道に供えられた山のような供物を前にして、お祈りをしている。


シベタン村 シベタン村


御輿は寺院に入ろうと力強く突き進む。しかし御輿は、見えないものにはばまれて門の前で跳ね返される。何度目かの挑戦で、やっと中へ入っていった。つづく御輿も同じように挑戦し、やはり、何度目かで入っていった。
トランスしていた男たちは、祭壇の前で僧侶から聖水を振りかけられて正気に戻っていった。 白昼、こんな出来事に遭遇して呆気にとられたことを思い出す。


S字カーブを下れば、ブドゥクリン村はもう一息の距離だ。
先頭の車がスピードを落とした。
車は、道の右側に寄っていく。そして、停車した。
トイレ休憩だろう。山間に入って少し肌寒くなり、わたしもトイレに行きたかったところだ。
先頭の車から、青年が下りた。
青年が、われわれの車に近づいて来た。
「おつかれさま。つきました」
何とここは、白昼トランス御輿を見た寺院の真ん前だ。わたしは、車の中で困惑している。ここは、まだシベタン村だ。もしかして、今夜の奉納舞踊はこの寺院なのだろうか。今回は、よくクエスチョン・マークが点滅する。
青年は車から下りた、わたしに「ここが、わたしの家です。どうぞお入りください」流暢な日本語で話しかけてきた。
青年の名前はアグース。日本人専門のツアー会社でガイドの仕事をしているらしい。どうりでに、日本語が巧いわけだ。
われわれを奉納舞踊に呼んでくれたのはアグース。アグースがチョコルド・オカを招待し、チョコルド・オカがコンピアンを誘ったようだ。そして、わたしがついてきたというわけだ。
今回の奉納舞踊は、シドゥモン村でもブドゥクリン村でもない、シベタン村だった。到着するまで、どこで踊るのかわからないのも、バリ的と言えばバリ的だ。
テラスに案内された。
未だに、バポ・シジョーの姿は見えない。


                   


一般的にバリ人の家には、お客の接待や家族の集う部屋はない。これらは、もっぱらテラスでおこなわれる。そして、日本との習慣の大きな違いは、一家団らんのための食卓がないことだ。家族そろって食事をする習慣がないからだ。バリ・ヒンドゥー教では、食べることは欲望のひとつで、他人に見られることを嫌う。そんなことから、食事は台所に用意された作り置きのご飯を、1人ひとりが気ままな時間に自由な場所でとる。台所の片隅で、ご飯とおかずののった皿を左手に、ひとり、ただ空腹を満たすだけの食事をする。
こんなバリ人の殺風景な食事風景を見て、われわれ日本人は奇異に思う。同じようにバリ人も、外国人がひとつのテーブルを囲み、しゃべりまくる食事を見て奇妙がっている。
食事にまつわる、こんな話がある。
守護霊のために、皿の端に食事の少しを分ける人。この友人は、自分の誕生と共に、この世に生を受けた霊的四人の兄姉(カンダ・ウンパット)に供えている。カンダ・ウンパットは、正しく扱われる限り、生涯その人を守護するという考えからだ。
地の霊のために、少しのご飯を床に供える人。この友人は、もちろん屋外でもそうする。ハイキングに出かけた時、おもむろにバナナの葉を小さくちぎりご飯を少しのせ、みんなが坐るスペースの四隅に置いてお祈りした。そうしてから食事をする。場所を借りたお礼だと言う。こうしておかないと、地の霊に悪戯されるからだ。
どちらも、篤い信仰心からくるおこないだ。
案内されたテラスは狭く、4人が坐るだけで窮屈だ。テラスの前は、高い塀。おまけに暗い。あまり居心地はよいとはいえない。奥に広いテラスが見えたが、出入り口に近いテラスに案内されたところをみると、すぐに寺院に行くつもりだろう。
この村のどこかで踊ることは確かだ。
トランス御輿のあった寺院に、オダランの飾りはなかった。となると、どこの寺院だろう。途中、見かけた正装の村人たちが行った寺院だろうか。
「そろそろ寺院へ方へ行きましょうか」
正装に着替えたアグースが迎えに来た。
「歩いて行きますので、車から荷物を下ろしてください」
われわれは籠と衣裳バッグを車から取り出し、アグースのあとに続いた。
歩き出すと、山間の爽やかな空気にのってガムランの音が聴こえてきた。
S字カーブの坂道を30メートルほど上り、左手にある路地に入った。
ガムランの音は、この奥から聴こえてくる。
塀に囲まれた路地の突き当たりに、ランプの明かりに照らされた真新しい赤レンガ造りの割れ門が見える。
10メートルも歩くと割れ門の前に立った。ガムランは、この寺院の境内で演奏されていた。
「どうぞこちらへ」
アグースは、寺院に隣接する一軒家のテラスに、われわれを誘導した。
われわれはテラスに上がり、荷物を片隅に置き、坐り込んだ。
「すぐに、父親が来ますから」
そう言って、アグースは席を外した。
しばらくして現れた人物は、髪を頭の上でまとめ白装束に身を包んでいた。この清楚な身なりは、祭司プダンダのトレード・マークだ。
祭司は、われわれと同じテラスに腰をおろし、滅多に見かけることのない温和な眼差しで優しく話しかけてきた。遠路はるばる訪れたわれわれに、祭司はていねいにお礼をのべた。オダランは、祭司の家寺だった。そして、アグースは祭司の息子というわけだ。
プダンダは、ブラフマ階層の人のみがなることのできる僧侶で、きわめて神に近い存在だ。祭司になるには、宗教的な知識に精通し、相当の修行を積む必要がある。バリ人にとってバリ・ヒンドゥー教は絶対的なもの。その信仰を司る祭司は、信徒からたいへん尊敬されている。
家寺も、寺院と同じように何年かに1度大きなオダランが巡ってくる。階層に関係なく、お金のある家では規模も大きく、芸能が奉納されることもある。舞踊劇が奉納される時には、招かれた踊り手が家族の知り合いだということもあって、劇中でその家の話題にふれアット・ホームな雰囲気で展開される。
この日は、バリの暦で吉日にあたり、あちこちで儀礼が行われている。バポ・シジョーは、奉納芸能の掛け持ちで予定がつかなくなり、ボナ村で乗ったふたり組がピンチ・ヒッターとして送り込まれたそうだ。
背が低く痩せた風体は、とてもトペンの踊り手には見えなかった。人は見かけによらぬもの。てっきりバポの荷物持ちだと思っていたふたりが、バポの代わりの踊り手だったとは、まことに失礼な間違いをしたものだ。
今夜はピンチ・ヒッターを中心にして、トペン舞踊劇を奉納することになった。
心残りは、バポ・シジョーのトペンがお預けになってしまったことだ。しかし、観たいと望めば、いつか必ず観られる。願いは叶うものだ。楽しみは、あとに残しておいたのがよいかもしれない。
テラスから境内が見渡せる。
明かりの届かない片隅に、竹が井桁に組まれた闘鶏場が見える。
男衆が熱中した昼間の熱気が、今なお闘鶏場に陽炎のように残っていた。まさに、夏草や、つわものどもの夢の跡だ。
闘鶏は、バリ・ヒンドゥー教の厳粛な生け贄の儀式。流される血で地の霊を鎮めるのだ。生け贄には、牛、山羊、子豚、子犬、アヒル、ひよこ、りす、いたち、亀などなど、バリに棲むあらゆる生き物が捧げられる。動物愛護団体が見たら腰を抜かしてしまいそうだ。
ブサキ寺院の大祭には、108種類の生け贄が神々に捧げられると言う。神に捧げられた動物たちは、来世において高い位の動物として生まれ変わると考えられている。
儀礼での闘鶏は、3組と決まっている。鋭利な刃物を、鶏の左足首に縛りつけて戦わせる。負けた鶏からは、容赦なく血が流れる。バリ人持ち前の興奮体質が、これを儀式だけでおさめることなく、自分たちの楽しいギャンブルにしてしまった。
娯楽ですめば、楽しいギャンブルだ。ところが中には、麻薬のように虜になっていく者も現れ、泥沼から抜け出せず、負けは借金をうみ、ついには家や土地を手放すはめになる。一家離散、挙げ句の果ては自殺なんて生臭い話も聞く。
こんなことで、インドネシアではギャンブルは御法度。しかし御法度のはずの闘鶏も、時にはオダランの資金集めのために公然と開帳される。


子供たちの歓声が聞こえた。
しゃがみ込んで、コチョカンと呼ばれるサイコロ・ゲームに熱中しているようだ。サイコロ・ゲームと言っても、立派なギャンブル。子供のころからのギャンブル熱が、大人になって闘鶏に熱中する素質を育むのだろう。
こんな風景を眺めながら、もてなされたナシ・チャンプールでお腹を満たす。


真新しい祭壇の前に静座する祭司とアグースのうしろに、われわれも腰を下ろした。
祭司がマントラを唱え、お祈りがはじまった。
唱えられるマントラの意味はまったく理解できないが、お経に似た節回しと祭司の低い声が心を落ち着かせる。
今夜踊るそれぞれのトペンの裏に、祭司がペンで何やら書き込んだ。どうやらサンスクリット語のようだ。意味はわからないが、魂を吹き込まれたことは確かだ。わたしのトペンも、一段と神聖なものとなった。
祭司自らの手からいただいた聖水に、にわかヒンドゥー教徒のわたしも、有り難い気持ちになる。


                   


お祈りをした境内の中央門から出たところが舞台になっていた。
舞台は、高さ1メートルほどの竹の骨組みにベニヤをのせ、その上にカーペットを敷いたものだ。
今夜のトップ・バッターは、チョコルド・オカだ。
彼の踊るトペン・パテは、ちょこまかと飛び跳ね、まったく威厳のない大臣で可笑しかった。元気に跳ねまわり過ぎて、ついにはベニヤの床を大きな音をたててぶち抜いてしまった。
オカは自前の衣裳を持っていないので、今回は、コンピアンから借りた。コンピアンは貸したおかげで、ジャウッを踊ることになり、自分の踊りたいトペンが奉納できなかったことをしきりに残念がっていた。おまけに、踊り終わった汗をかいたままの衣裳を返され、オカの無神経に呆れ返るように怒っていた。
「わたしは、奉納舞踊で踊るのが好きです。これからも誘ってください」
オカは、憎めない顔で言っていた。しかし、このあとコンピアンは彼を1度も誘おうともしない。
わたしは、トペン・ゴンブランを奉納することになった。
今夜は舞台から飛び降り、子供たちのサイコロ・ゲームにちん入して脅かしてやろうと考えていた。
ところが舞台に出ると、先ほどまであったコチョカン屋が、境内のどこを見渡しても見つからない。子供たちばかりの客で、商売にならなかったのだろう。早々と店仕舞いしてしまったようだ。予定が大幅に狂ってしまったが、コチョカン屋の胴元がするバケツを振る真似をして「コチョカン屋はどこへ行った。ゲームがしたかったのに残念だ」とジェスチャーでお茶を濁した。
ベニヤの床は、トランポリンのようによく跳ね、足がもつれる。それに、オカが見事にぶち抜いた床穴が心配で、おちおち踊っていられなかった。
舞踊劇では、ちょい役で出演した。病気の老人役だ。顔色の白い老人のトペンをつけ、サプットの白い裏地を肩までめくり上げると、白一色になり病人ぽくなる。


ボンドレス


この役は1週間前に、カフェ・アンカサのコテッちゃんの結婚披露宴で演じたのがはじめてだった。その時には、相方のマデ・サディオが、お客に日本人が多いことを考えて日本語のセリフをまじえてくれた。その絶妙なアドリブに助けられて、わたしの芸にも大爆笑をもらい劇らしくなった。
それに気をよくしての再挑戦だ。
今回の相方は、バポのピンチ・ヒッター。
声を掛けて欲しいところで声は掛からず、インドネシア語で話しても返事が返ってこないオーバー・アクションの演技をしても、相方からは何のリアクションもない。わたしの未熟なアドリブは、壊れた歯車のように噛み合わず、空回りするばかり。まったく盛り上がらない。
バリ人相手の予測できるアドリブと違い、わたしの未熟なアドリブがまったく理解できず、面食らって言葉も出なかったのだろう。
観衆からは、ほどこしの笑いも取れず、すっかり自信をなくして舞台を下りた。
バリ語とは言わないまでも、もう少しインドネシア語が話せたら、こんな場面でもなんとか乗り越えられるのに、と日頃の勉強不足を後悔した。
さすがにコンピアンは、ボナ村のふたり組と即興にもかかわらず、息のあった演技を観せた。ふたり組も、さすがにバポのピンチ・ヒッターだけのことはあり、安心して観られる演技だった。
奉納舞踊は、とどこおりなく終了。
コンピアンが悩んでいた、遠い遠い山奥の知らない村で、悪霊に取り憑かれるのではないかという心配も杞憂に終わった。
祭司とアグースの丁寧なお礼の言葉に見送られ、無事、帰路についた。




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