「極楽通信・UBUD」



18「歯医者(Dr.GIGI)」





歯医者


2004年4月に、友人マデのポトン・ギギ(ムサンギー=Masangih、ムパンダス=mepandas)に参列して歯の芯に響く鈍い嫌な音を聞いて以来、わたしの歯に異変が起きた。バリに来る直前に、日本で治療した虫歯が再発してしまったのだ。と言っても、治療したのは15年前のことだ。
バリ人のアドバイスで、ジュプンの木の樹液が痛み止めになると聞いてはさっそく塗り。ベキチョ=Bekica(食用のかたつむり)の体液が効くと言われれば試してみた。どちらもまったく駄目だった。バリ人は、本当にこんなことで痛みを止めているのだろうか。
しかし、丁字(チュンケ=Cingkeh・バリ語/クレテック=kretek・インドネシア語/クローブ=Cloves・英語)はよく効いた。虫歯につめると、痛みがすぐに消えた。丁字には麻酔作用があるそうだ。インドネシアのタバコには、ほとんど丁字が含まれている。だから彼らはいつもぼ〜っとしているのかもしれない。だが、丁字を詰めた歯の痛みは一時的におさまっているただけで、治ったわけではない。元凶を治すには、やはり、歯医者に行く必要がある。

ウブドには、よい歯医者がないと言う噂。以前、バイクで転けて前歯を折った知人が、ウブド近郊の歯医者に行った。差し歯は、既成の物から選ぶのだそうだ。それでは合うわけがない。日本で治療し治せばいいと、彼は噛み合わない差し歯をつけて日本に帰った。
ウブドの粗雑な歯医者には行きたくはないし、かといって、デンパサールの歯科医院に出向くのもめんどうだ。もっともわたしが、歯医者へ行かない理由は、治療される時の痛さが嫌いだからだ。

居酒屋「影武者」の店主・由美さんも歯痛になった。彼女の歯痛を横目にみながら、わたしの痛みはもうそろそろ引くだろうと楽観していた。しかし、いっこうに痛みは治まるようすをみせない。自分で抜いてしまおうと思うほどの痛みだ。指でグルグルと動かしてみたが、簡単には抜けそうもない。映画「キャスト・アウェイ」のように、スケート・シューズのエッジで叩いてやろうかと思ったが、あいにく持って来ていない。
すでに、入れ歯の長兄に言わせれば「入れ歯と自分の歯では、味覚が格段と違い、食事の美味しさにも影響する」のだそうだ。できれば自分の歯にこしたことはない。今なら、虫歯を抜くこともなく治療できる。
痛みを鑑賞しながら寝たこともある。痛みの少ないうちは、こんなことでも気が紛れる。鎮痛剤を4時間おきに飲んだが、これも効かなくなってきている。毎日、痛みとの戦いだ。「そんなに毎日痛いのなら、早く歯医者に行けばいいのに」と思われるだろうが、めんどうくさがりのわたしは、ひょっとして明日には痛みがひくのではないかと、淡い期待を抱いて我慢していたのだ。

こんなふうにして痛みを、この8月まで、だましだましおさめてきた。しかし、痛みはついに頂点に達した。我慢の限界だ。今日1晩、痛みを我慢して、明日は歯科医院に駆け込もう。
この日は、プナンパハン。ガルンガン前日だ。デンパサールにある有名な歯科医院へ、バイクを駆って向かう。
デンパサールの歯科医院は、大きなガラス窓に「Dental Clinic」と英語でレタリングしてある。インドネシア語の「Dokter GIGI」ではないのだ。この看板を見ただけで、外国人や金持ち相手の医者だと理解できる。重いガラス・ドアを押して中に入ると、冷房がきいていて、受付カウンターには大きなテレビがある。いかにも治療費が高そうな構えだ。
受付の女性に「明日はガルンガンで休日ですから、明後日来てください」とバリ人特有の優しく微笑んだ表情で言われた。この日は、予約がたくさん入っていて、検診してもらうことができなかった。さらに2泊3日、歯痛に悩まされるのか。気が滅入ってしまうがしかたがない。経験はないが、死刑の執行を1日延ばされたような気分で「そうですか」と小さく答えて受付の女性に背を向けた。

ガルンガン明け。予約した時間に歯科医院に行った。
先生は出掛けているという。これでは予約した意味がない。いつものわたしなら、ここはバリだからと納得するところだが、歯痛の時はそんなおおらかな気持ちにはなれない。待合室の椅子で30分ほど待たされた。
わたしを治療してくれたのは女医さんで、大きなマスクをした顔がとても美人だ。コンピューター画面の設置された近代的設備の椅子に腰をおろすと、女医さんがペダルを踏んで椅子を倒した。倒れ過ぎて頭が逆さになり血が頭にのぼりそうだ。椅子が少し起こされた。
女医さんはアシスタントの女性と雑談しながら、治療は始まった。麻酔注射はしないようだ。ペン型ドリルの回る高い金属音が顔の前で響く。わたしの顔は、きっと引きつっていたことだろう。
顔の上でバリ語が飛び交う。何を話しているのかはわからないが、こんな時に聞くバリ語はわたしの気持ちを落ち着かせてくれる。女医さんの虫歯治療は手際よく進んだ。もう痛みはない。 女医さんが中座した。

わたしはアシスタントの女性に「質問してもいいですか?」と声をかけ、「このドリルで歯を削る感触は、ムサンギー(ポトン・ギギ)の時と似ていますか?」と訊いた。アシスタントは「いいえ、ムサンギーは爪をヤスリで磨くのと同じよ」と答えて微笑んだ。
女医さんが戻ってきた。
「あなたの友人は、歯を抜いた」とニコニコしながら教えてくれた。女医さんは、隣の治療室を覗いてきたようだ。由美さんも我慢できなくなったのだろう。彼女も同じ日に治療をすることになっていた。
わたしは歯型を取られ、義歯を埋めるまでの応急処置であるプラスチックを埋めてもらった。1週間後に義歯を埋めに、来院する時間を予約した。虫歯を抜かれた由美さんは、すでに医院をあとにしていた。
帰りの足でバトゥブラン村の由美さん家に立ち寄ると、彼女はテラスでアゴを押さえながら、供物作りを手伝おうとしていた。よほど痛むだろう、眼の焦点がさまよっていた。これでは今日1日痛みで悩まされることだろう。カシアン(=Kasihan・かわいそう)

1週間が過ぎ、明日は義歯入れる日だ。
深夜TVで洋画を放送していた。男優が「パーフェクト」と言った場面で、インドネシア語字幕スーパーは「サンポルナ」と出た。タバコの銘柄にサンポルナというのがあるが、この時初めてパーフェクトという意味だと知った。よし、明日治療が成功したら女医さんに「サンポルナ」と言おうと心覚えした。
  今日は、予約時間ピッタリに椅子に横たわった。眼の前の女医さんは、先日の違う女医さんだったが、やはり、大きなマスクの似合う美人だ。義歯が合わないのか、技工士と思われる男性に、ふてくされた物言いで注意している。女医さんは、ペン型ドリルで義歯を削りながら、マスクの中で不平を言っている。

途中で、女医さんが変わった。今度の女医さんは、義歯を一度チェックすると、わたしの虫歯を削りだした。どうもこちらの女医さんのほうがベテランのようだ。義歯を虫歯に試すことを数回すると、力強く押し込んだ。義歯は、すんなりとおさまった。噛み合わせもしっくりした。新しい歯を舌の先で確認すると、いったいどの歯が虫歯だったかわからないくらいだ。
女医さんが「どうですか」と訊いてきた。わたしは、すかさず「サンポルナ!」と答えた。マスク美人の女医さんの眼がにっこりとした。こうして、わたしの永い永い歯痛生活が終わった。ちなみに治療費は200万ルピア。この時点のレートで25,000円だ。




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