「極楽通信・UBUD」



「ウブド奇聞」


極楽通信・UBUDウブド奇聞 ≫ 愛息の追憶


前へ次へ


■愛息の追憶



いつものように、晩飯は「居酒屋・影武者」だ。
いつものように、店は繁盛している。席は80パーセントほど客で埋まっていた。
いつものように、入り口を入ってすぐの、庭の見えるテーブルに腰を落とした。
空いててよかった。

「伊藤さんですか」
突然、声を掛けられた。
今から声を掛けますよ、と予告して声を掛ける人はいないと思うが、心の準備をしていなかったわたしは、心臓が驚いて背筋が伸びた。
これだけ混んでいると、ひとりくらいは知り合いがいるもので、たいていは心構えをするのだが、今夜に限ってぼーとしていた。
「ぼーとしているのは、いつものことだろう」わたしのことを良く知る友人の、そんな声が聞こえてきそうだ。
テーブルの横に、ワイシャツ姿の上品な初老の男性が、わたしの顔を覗き込むようにして立っていた。
「はい、そうですが」わたしは膝を正して答えた。
「うちの息子がここにおじゃまして、あなたとお話をしたと思うのですが、その時の様子をお聞かせ願えませんでしょうか」
丁寧な言葉と、奇怪な申し出に、わたしは少しうろたえた。
息子といえども、ひとりの人格をもった人間。
親だからといって、勝手に情報を流すわけにはいかない。
内容によっては、話せないこともある。

愛息がバリを訪れた時期と容貌風体を聞きながら、わたしは、いったいどの人のことだろうと思考をめまぐるしく働かせた。
こういう時、たいていははじめ「覚えていますよ」と相手を傷つけないような返事をしながら、話の途中で思い出したり、最後まで、誰だかわからないまま話を合わせることが多い。
しかし、この時は、違った。無からおぼろげに成長した記憶は、数秒のうちに全景を思い出しだ。
「覚えています。礼儀正しい、おとなしい青年でした」
男性の顔が、こころなしか微笑んだように見えた。
「ところで、どうしてそんなことを聞くのですか」
「それはですね・・・」
と言って、彼の言葉はとぎれた。
考えを整理しているのか、的確な表現の言葉をさがしているのか、それとも言うべきか否かを迷っているのか。
しばらく間をおいて、
「あの子は、死んだのです」と言った。
あまりにも悲哀な言葉に、わたしは「そうですか」という返事を飲み込んだ。
「今回の旅行から帰ってくると、あの子は、すぐに病気になってしまいましてね。
病魔に蝕まれていたのを、わたしはまったく知らなかった。
病状は最悪でしてね。わたしは医者だが、手のほどこしようがなかった。
医者としても親としても、わたしは失格だった。
悔しい思いです」
肩を大きく落として、つぶやくようそう言った。
「あの子は、ひとり息子だったんですよ。私は開業医をしていて、あの子に後を継がせたくて医大に入るようにと言っていた」
医大入学のために、彼は4浪していた。
開業医の父は、ひとり息子をどうしても跡継ぎにしたかったのだ。
医者はなぜか、自分の子供を医者にさせたがるようだ。
安定した高収入が得られるし、すでに地盤があるので、それを財産として譲りたいのだろう。
自分の子供には、無駄な苦労をさせたくないのが、親心だ。
苦労に無駄も有益もないだろうが、わが子には平穏な人生が巡って欲しいと願うのも親心だろう。
わが子といっても、人格を持ったひとりの人間だ。
他人とは言わないまでも、自分の人生は己で決めたい。
親に自分の運命を委ねられても困るという時もあるだろう。
「期待が大きかった。
それが重荷だったのでしょう。
あの子のために、医院を大きくした。
世の中、思う通りにいかないものです」
父親の重圧は、子供たちを非行に走らせることが多いが、彼はそうはならなかったと言う。

わたしの友人にも中小企業の2代目、3代目がいた。
他から見ると、そんな跡継ぎの友人が羨ましかった。
それも将来性があったり、堅実に経営が成り立つものならなおさらのことだ。
羨ましい反面、自分に意思なく、決められた人生も可哀相だとも思った。
「わたしは、あの子が医師に向いていると思ったのです。お互いの声が聞こえなかった。話し合いを持たなかったのが、いけなかった。人生は長いようで短いものです。あの子の好きなように生きさせてやらせればよかった、と今は後悔しています」
毎年、この時期にウブドを訪れる親子が、わたしに会釈をして店を出ていった。
わたしは会釈を返し、この親子なら会話は充分にもたれているだろうと思った。
「女々しいと思われるかもしれませんが、今わたしは、あの子の歩んだ旅をなぞるようにたどっているのです。できるところまででいいから、たどってみたかった。そうすることで、あの子が考えていたことの少しでも理解できればいいと思っています」
お父さんは、息子の旅程をすべて踏破してきたという。
親バカだと言ってしまえば、簡単だが、そうまでしたいという親心もわかる気がする。
「他人に対して気を遣う心の優しい人だったと、どこへ行ってもあの子の評判は良かった。その言葉がわたしにとっては、最大のなぐさめになりました」
話を聞いたわたしは、なぐさめる言葉が見つからなかった。
人間、悲しいこと、嬉しいこと、心に打つことに遭遇すると、言葉が出ないものだ。

わたしは、医者の息子との会話を回顧し、お父さんに話して聞かせた。
彼は、美術大学に入ってデザイナーになりたい、と言っていた。
この旅は、両親の希望を叶えるべきか、自分の希望を貫くかを思案するためのものだ、とも言っていた。
誰だって、ひとつやふたつの悩みはあるものだ。
わたしはウブドに滞在して多くの人と知り合ううちに、くどくどと暗さを説明するより、それを心の底にしまって、黙って生きていくゆくことが大切だということを学んだ。
しかし、わたしは彼の悩みを聞くことにした。
「言い尽くしがたい努力で手にした医院だと思います。親父一代で閉院か他人に手渡すのかと思うと、可哀相な気がします。親父の苦労を考えると申し訳ないような気もする。しかし、僕の人生は自分自身で決めたいのです」と言う。
「インド、マレーシア、タイ、ベトナム、カンボジアとまわって、最後にインドネシアのバリに来ました。そろそろ日本に帰るのですが、まだ気持ちが決まっていないのですよ」
数回、影武者で食事をともにし、明日は日本へ帰るという晩、
「僕、親父の意思をついで医者になることにしました」
バリの空気が彼の心をどう変化させたのかはわからないが、何かが吹っ切れたように、その時彼は、そう言ったのだった。
「あの子が病院のベッドで、わたしに旅の話を楽しそうにしたあと『親父、今年こそは俺、医大に入学するよ』と言ってくれた。しかし、もう遅かったのです」
わたしは目頭が熱くなった。
この手の話に、わたしはめっぽう弱いのだ。
涙腺のコックが全開になるのを、かろうじて止めた。
「以前にはあの子がお世話になり、今回はわたしがお世話になってしまいました。本当に、有り難うございました」
初老の医師は、充血した眼をかくすように、深々と頭を下げて店を出ていった。
テーブルのすみに、涙の染みができていた。
ウブドに滞在していて、わたしは多くの日本人と知り合った。
知り合った人それぞれに、それぞれのドラマチックな物語があるものだ。




Information Center APA? LOGO