「極楽通信・UBUD」



「ウブド奇聞」


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■懺悔の旅



「ストップ! ここで止めくれ」
タクシーからひとりの男が下りた。
30前後の長身で痩身の男は、実直そうなサラリーマンが休暇をもらってバリに来たという雰囲気だ。そして、どことなく男の表情はわずかに暗さが漂っている。ツーリストがみせる楽しげな様子とは違う、思いつめた苦しげな面もちだ。
男はウブドの本通りとパダンテガル通りが交わる地点に来ると立ち止まった。
2000年の夏。男にとって、7年ぶりのウブドだった。
あたりを感慨深げに眺め、同時にその変貌ぶりに驚いている。
7年前のパダンテガル通りの入り口は、戸板を数枚はずせば開店できてしまう、3メートルほどの間口の小さなマッチ箱のような店が軒を連ねていた。今、目の前には立派な2階建ての事務所が建ち、しゃれた店が並んでいる。
男は、パダンテガル通りを南に向かってのんびり歩きはじめた。
こんな歩きにくい歩道はなかった。
車道に下りると、男の身体すれすれにバイクが追い越していった。男は「危ない」と小さくつぶやいた。車やバイクが路上に溢れ、のんびりと歩いておれない。
角の寺院も修復されて、面影が残っているのはビンギンの巨樹だけだ。
見覚えのあるホームステイの看板が眼に入った。このホームステイには1週間ほど滞在したことがある。男は思わず眼をそむけた。本当は来たくなかった。
夕陽の望めたライス・フィールドには、レストランとホテルが建っている。道沿いは店で埋め尽くされ、東京にあってもおかしくないモダンな店が増えた。すれ違う村人もどことなくおしゃれになっている。
いたるところで「インターネット」の文字が眼につく。携帯電話の電子音がときおり聞こえてくる。男が滞在していた頃は電話さえ持っているところが少なかった。
あの頃は、噂が1日で広がってしまうほどの小さな田舎の村だった。歩いているだけで、村人ともすぐに顔見知りになったものだ。こんなことがきのうのことのように鮮明に思いおこされた。懐かしくもある。しかし、男にとってはいまだに心に痛みを伴う懐かしさなのだ。


やがて1軒の日本食レストランの前に来ると、男は一瞬立ちつくした。そして、意を決したようにまっすぐ入り口まで進んでいった。
このレストランは昔のままだ。ここで日本人女性と知り合って・・・。
男の表情がいっそう深く陰った。仲良くなったのを覚えている。
のれんを片手であげると、ひとりのおやじがいた。このはげ頭のおやじが、ここのオーナーだったはずだ。声をかけても、もう俺の顔も覚えていないかもしれない。でも・・・。
男は自分を勇気づけるようにして、おやじに話かけた。
「久しぶりです。覚えていますか」
おやじは、顔を覗き込むように見つめ
「むーん、覚えてるよ」と言った。
まさか、という疑った顔を見せたのを見抜いたのか
「名前は覚えていないが、顔を覚えるのは私の特技のようなものでね。ところであれからどうしたんだ」
やはり覚えていた。
7年前の帰国は強制送還だった。
男は無銭飲食と宿賃の踏み倒しでウブドでいられなくなり、バリ島北部のリゾート・エリア、ロビナまで行ったことを話した。
「そのことは私も知っている。なんといっても君は、店はじまって以来の無銭飲食者だった。そのあとは、そのたぐいの事件が無いからね」
このおやじは、俺の無銭飲食を覚えていたが、罪をとがめようとしない。激しくとがめられるだろうと思っていた。その時には、素直に謝罪するつもりだった。


7年前のその頃、悪い噂が流れはじめたので、俺は逃げるようにウブドを去った。
レンタカーを「3日間の予定」と言って借りた。料金は保証金も前金もいらない後払いだ。ガソリンが運良く3分の2ほど入っていた。ガス欠になるまで走ろうと、とりあえずロビナへ行くことにした。
「ロビナのホテルに7日間泊まったんです。どこかで早く捕まりたいという気持ちもありました。でも、どうしたらいいのかわからないまま怯えていました。まったく楽しくありませんでした」
「それはそうだろう、逃亡生活なんだから楽しいはずはないよ」
「この店で知り合った女性のバッグから抜き取ったカードで、なんとかホテルの支払いをすませました。ウブドに戻る途中、バトゥール山とバトゥール湖を眺望できるキンタマーニの駐車場でガソリンがなくなり車を乗り捨てました。バトゥール湖畔にあるトルニャン村に友人がいるのでそこを訪ねることにしたんです」
「レンタカーがキンタマーニ高原に置き去りにされていたという話は、そういうわけだったのか」
「トルニャン村はバリ・アガと呼ばれる先住民の村として有名なところで、前に1度訪れたことがある。その時に村長の息子と仲良くなった。彼ならきっと匿ってくれるだろう。それに、こんな陸の孤島のような辺境の地なら、誰も気がつかないだろうと思った」
「それでどうだった」
「彼は事情も聞かず、私を家に泊めてくれた。しかし、警察の手はもうそこまでのびていた。レンタカーが予定の3日を過ぎても返ってこないので、レンタカー屋の主人が警察に車の盗難届を出したのです。それで指名手配されていたんです」
「私のところにもレンタカー屋の主人が来たよ。あの頃のウブドの連中ときたら、日本人はみんな知り合いだと思っていたところがあった。確かに、ウブドの日本人旅行者は数えるほどしかいなかった。そういう意味でも、のんびりした田舎の村だったなあ」
「逮捕された時は、ほっとしたというのが本音です。恥ずかしい話ですが、新聞にものってしまったようです。トルニャン村には風葬という奇習がありますが、私の心もこの村で風葬してしまいたいと思いました」
「その新聞は私も読んだ」
「お金が無くなった時に、どうしてすぐに日本へ帰らなかったのだろう。あのころの心理状態は、今でもよくわかりません。デンパサールの留置場に入れられて取り調べのあと、強制送還されました」
「しかし、どうしてそんなことになってしまったんだね」
ことのはじまりは、クタで知り合ったインドネシア人の口車に乗ったのがいけなかった。クタにショッピングモール計画があり、そこで日本人マネージャーを募集しているという話があった。
「ボスが華僑で、知り合いだから頼んであげるよ。イミグレにも顔がきくので、ビザのこともまったく心配ない」
そういわれて、なんの疑いもなく飛びついてしまった。気がついたら有り金全部取られていたというわけだ。無一文になってクタから逃げ出し、ウブドへ流れて来たのだと男は説明した。
「どうしたらバリの神々は俺の罪を許してくれるでしょうか」
見るからに悪いことのできそうもない風貌だ。7年前のことは、魔が差したとしか思えなかった。
今回の俺の旅は、懺悔の旅です。本当に申し訳ありませんでした」
そういって男は、店を出ていった。
「私にもよくはわからないが、もうバリの神様はあなたの罪を許してくれていると思う。旅を楽しんでいくといい」
見送ったおやじの言葉は、男に届かなかっただろう。


バリを訪れる多くのツーリストは、この島に「癒し」を求めてやって来ます。そのまま「癒されて」帰る人たちもいれば、中には逆に思ってもみなかった不運にみまわれてしまう人もいます。
無銭飲食、そして宿代とレンタカー代をすべて踏み倒し、この島で指名手配人として徘徊していた男。男にとってバリは「地上の楽園」でもなく「天国に1番近い島」でもなかったに違いありません。
男が素直に反省し、バリの神様に許してもらえますように、願ってやまない。



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