「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■6月・8) ワヤン・カルタとの出会い


今夜も、夢遊病者のように、屋台街へ向かって歩きはじめた。
いつものように、いつもの時間に、いつもの屋台に行く。
ロジャースから一番近い店が、行きつけの屋台になった。お気に入りの店というわけではなく、味に探究心のないわたしには、どこでもよかった。こんな、ずぼらな性格に、自分でも驚いている。

屋台の薄汚れたテーブルを挟んで、同席した日本人ツーリストと旅の話をすることがある。
思いのほか、ウブドは日本人のツーリストが訪れる。行きずりのツーリストと話をすることが、今の生活の活性剤になっているようだ。この調子なら、日本が恋しくなることもないだろう。
この日も、日本人カップルのツーリストと同席していた。
ふと、男性が嫌な物でも見つけたような、憂鬱な表情になった。わたしは、男性の視線の先を見た。バリ人にしてはあか抜けした服装をした青年が、こちらに向かって近づいてくるところだった。青年は、甘いマスクに優しい微笑みをたたえた、昔風に言えば、紅顔の美少年といったところだ。
テーブルの端に両手をついて、カップルに挨拶した。流暢な日本語だ。
「わたしの名前はワヤン・カルタです。日本のカルタと同じです。カルタと呼んでください」
わたしに話しかけてきた。これが、彼の自己紹介のパターンなんだろう。
また、ワヤンだ。
ロジャース・ホームスティの主人はワヤン・ロジャー、そこで働いているお手伝いさんもワヤン。今回は、ワヤン・カルタだ。ワヤンばかりだから、彼は「カルタと呼んでください」と言ったのだろう。
のちに知ることになるが、バリ人の名前は、男女にかかわらず第一子がワヤン、第二子がマデ、第三子はニョマン、第四子はクトゥット。5人目からは、またワヤンに戻るという。旦那がワヤンで奥さんがワヤンで、その長男か長女はワヤンで、結婚してその旦那か奥さんがワヤンということもありうる。そして、子供(孫)が生まれるとワヤンになるわけだ。
バリは、称号にカーストの名残りがある。また、カーストによってバリ語の言葉使いも異なるという。
10パーセントが称号を持つカーストで、ワヤンがつくカーストは称号を持たない。単純に計算しても、90パーセントの4分の1がワヤンだ。今は、国の政策で子供を2人までと奨励している。そうなるとワヤンの比率はもっと多いことになる。果たして、バリ人の何パーセントがワヤンなんだろう。
おまけに、親戚兄弟の大家族。ワヤンと名前を教えられ、家を訪問して「ワヤンさんいますか?」と訊ねて、何人の人が「ワヤンは、わたしです」と答えるだろう。彼らを見分けるには、どうすればいいのか、先が思いやられる。
「名古屋から来た伊藤博史です。よろしく」と、わたしは挨拶を返した。
カルタは、笑顔を絶やさず、眼のほうは、時折どこか獲物を探すかのようにほかの屋台に向いている。
知人でも見つけたのか「じゃあね」と、ひと言い残して、早々と我々の前から姿を消した。
「あいつだけは気をつけろ」
カルタの後ろ姿を睨むようにして、日本人男性が忠告した。
「どうしてです?」
理由がわからず、訊ねた。
「あいつは、旅行者をだます悪い奴だ」
悪い奴だから気をつけろと断定的に言われたが、わたしには、カルタが悪い人間には見えなかった。
話を聞くと、カルタは友だちだからと言って、彼らを観光に誘った。ところが、ウブドに帰って来て、カルタは彼らにお金を請求した。彼らにしてみれば、友だちだからと言って誘ったのだから、好意の無料だと思っていた。ところが意に反して、お金を請求されたのだ。それで怒っている。
今、会ったばかりのバリ人に、友だちと言われたからといって、それが無料になるという理由にはならない。ここは外国で、おまけに日本との賃金格差は大きい。ガソリン代は最低必要だし、もしかすると車は借りた物かもしれない。そうなれば、いくらかは払うのが常識だろう。
いくら好意だからといっても「お礼はいくら払えばいいでしょうか」くらいは、まず最初に訊くべきだと思う。相手が言わなかったからといって、カルタを悪く言うのは、間違っているではないだろうか。はじめに決めておけば、あとになって問題のおこることは少ないだろうに。
日本とバリの、習慣の違いから生じた誤解だ。それがもとで、悪者扱いだ。わたしは、どちらかというとひと癖もふた癖もある、やんちゃな奴が好きだ。少しだけワルの匂いがするカルタを、ひと目で気に入っていた。相手の善意を、認めることも信じることもできない人間になったらおしまいだ。今の世の中に一番大切なことは、人を信じることだ。
この旅では、どんな人間も疑わないと決めた。生まれた時から、人をダマす性質の人間はいない。わたしは性善説を重んじている。ダマされたと受けとめるような、付き合い方をしないようにしようと考えている。もちろん、世の中にまったく悪人がいないと思うほどお人好しではない。甘い考えだと言われようが、これがわたしが決めた、これからの生き方だ。
性格は、その後の環境によって形成される。根っから悪人で生まれたわけでなく、たまたま何らかの巡り合わせで、悪事を働かなければならない状況に置かれているだけだと思いたい。
跡継ぎ(高校時代の友人がそうだった)はしかたがないとしても、自分から進んでヤクザになった奴は許せないが。小学校時代に可愛がってもらった隣の家のお兄さんは、家庭の都合でヤクザになっていたな。大学時代に一度、街ですれ違った時「おれとは付き合うな」と言って、渋い顔で笑顔をみせていた。


                      

数日後の夜、屋台街でカルタの姿を見かけた。
カルタがわたしに気づき、甘いマスクの優しい笑顔で手招きした。テーブルに近づくと、カルタはわたしに向かいの席に座るように促した。
カルタの隣には、ひとりの日本人女性が座っていた。ほかの席に客はいなかった。
「イトウサンさんと同じ、名古屋の人ですよ」
わたしが長椅子に腰をおろすと、カルタは隣の女性を紹介した。
カルタは、ロジャーのようにイトサンと言わずに、イトウサンさんと発音できる。
彼女は自己紹介してきたが、わたしは未だに屋台街では緊張して、相手の言葉をあまり聞いていないところがある。そんなことで、彼女の名前を覚えていない。
今回の旅で同郷の旅人に会うのは、はじめてのことだ。彼女は、6年間のOL生活に終止符を打って、憧れのバリにやって来た。
話が進むうちに、彼女がミュージシャンだったことがわかった。
わたしが名古屋でライブハウスを経営していたことがあると話すと、彼女は、店の名前を知っていた。彼女は、わたしが閉めたあと新装オープンしたライブハウスに出演していた。新しいライブハウスのマスターと、わたしは知人だ。
この店の起こりは、衰退気味の大須の町興しに協力した褒美に、財産家から無償で提供してもらったものだ。戦前はカフェとして使っていたが、戦後は使われないままになっていた。それを大掃除して、クリエーターの集まるスペースとして始めた店だ。
その後、文化的に役立つ方がより良いだろうと、ミュージシャン仲間に説得されてライブハウスに転向した。運営は、ほとんどミュージシャン主導で行われていた。わたしはもっぱら観客だった。
彼女は、バリのガムラン音楽に魅了されロックを捨てて、7ヶ月の期限を決めて滞在していた。
「これからバリ生活を謳歌するんだ」と、熱く語った。
カルタも熱心に聞いて、時折、彼女に質問する。カルタとの会話には、インドネシア語が混じる。彼女は、日本でインドネシア語を学んだというだけあって会話はスムースにみえる。
年齢差は開いているが、共通の知人を持っていることで話ははずんだ。
カルタのおかげで、ウブドに知り合いができた。


                      

カルタは、日本人はみな、わたしの友だちだと思っているところがある。
知り合った日本人ツーリストを、誰彼かまわずホームステイに連れてくる。バリについての質問をする人、長期滞在の相談をもちかけてくる人と様々だ。ウブド暮らしの現地アドバイザーになった気分だ。
「下痢が3日も続いていて心配なのですが、大丈夫でしょうか」と、バリ・シャワーの洗礼を受けて困っているツーリストや「妻が、つわりで、インドネシア料理が食べれなくて困っているのです」と言うハネムーンの夫妻、やはりインドネシア料理が食べれなくなった老夫婦のツーリストをつれて来たこともある。
こんな時、ロジャースの台所にあるご飯をもらって、お茶漬けやおじやを作ってあげた。知人からもらった梅干しや味付けのりをつけてあげることもある。この時の食器は、白地に赤いお椀のマークとAjinomotoの文字が入った浅めのどんぶりと、友人から譲り受けた機内食のトレーから失敬してきた小皿にスプーンにホークにナイフ、そして、わたしの手作りの竹の箸だ。
日本人ツーリストが、バリ北部のリゾート地ロビナにレンタカーを置いたまま帰国してしまった時。レンタカー屋のオーナーは、カルタに救いを求めた。日本人をみんな知っていると思っているカルタは、わたしに救いを求めてきた。パスポートの控えから、日本まで連絡を取って事なきを得た。
カルタは、道で日本人ツーリストに声を掛けてガイドの仕事を得ていた。わたしに、日本語不足を補う手伝いをさせることもある。
ある日、王宮前でカルタが「屋台街で、食事しませんか」と日本人女性2人に声を掛けていた。失敗したのか、彼女たちはカルタから離れていった。カルタは「駄目でした」とションボリしている。ここで、わたしにタッチ交代。
わたしは、彼女たちを追いかけて声を掛けた。彼女たちは、屋台街に興味があったようで誘いにのってくる。屋台街に行くと、カルタがいる。彼女たちは、先ほど振ったバリ人がそこにいるのに驚くが、わたしがカルタを援護する説明をすると安心して、カルタと仲良くなる。こんな風に、バリ人日本人のタッグを組んだことが数回ある。
時には日本語で書かれた手紙を、読んでくれと持って来る。たいていは、旅行中世話になったお礼の手紙だが、なかにはラブレターのこともある。つくづく、カルタが女性にもてることを感心する。
ひょっとすると、屋台で紹介された名古屋から来た女性も、カルタに恋をしてしまったひとりかもしれない。そう言うことがあっても不思議じゃない雰囲気を、ウブドは持っている。


つづく




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