「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」


極楽通信・UBUDウブドに沈没 ≫ 建築現場はショックの連続


前へ次へ



■3月・28)建築現場はショックの連続


今日は、タンパクシリン村で買った材木が運ばれてくる日だ。
わたしは、立ち合って、使用箇所の指示をするつもりでいる。
自転車を駆って軽快に現場に到着。
大工さんたちが昼休みの休憩をしているところだった。全員が、クリスマス・プレゼントをもらった子供のような無邪気な顔で、わたしを見て微笑んだ。わたしも微笑みを返した。
自転車を並木の1本にもたせかけ、トラックの深いわだちの跡に足を取られながら、大工さんたちの近づいていく。みんな中から、オカちゃんが満面の笑顔を見せて声をかけてきた。
「イトサン、木はもう全部切っておいたから」
わたしは「ありがとう」と言いながら、資材置き場の壁に立てかけて天日干してある、たくさんの板を見た。 一瞬、見ていけないものも見てしまったように、視線を避けた。そして、見ていけないものとはなんだったのだろうかと、今度は、まじまじ壁に立て掛けてあるものを見た。
確かに板だ。しかし、わたしが頼んでおいた切り方とは違う。言葉を発することができず、その場に立ち尽くした。まさに、固まってしまったのだ。
わたしの表情を見て、大工さんたちの顔が曇った。
「・・・・・??????」。誰も言葉を発しない。
「今日は、身体の調子が悪いから帰る」と言い残して、わたしは現場をあとにした。
タンパクシリン村で買った木材は、使用目的を決めて切り出しして来た。テーブル用の板は、1枚板で縁を自然のまま残しておいて欲しかった。それなのに、きれいに30センチ幅の板材になっていた。梁のために頼んでおいた太い丸太は、薄い板に変身してしまっている。あ〜ぁ、もう取り返しがつかない。
この事件のショックが消えるのに、1週間かかった。


                      

水平を出すには、細い透明のビニール・ホースに水を入れて位置を決める。これは日本と同じ方法だ。垂直もやはり日本と同じで、分銅を使っている。
寸法を計る時、割った竹に適当に印をつけて合わせていく。これでは、あまりにもアバウト過ぎる。見かねたわたしは、日本から持ってきたスチール製巻き尺をもとに割竹で1メートルの物差しを作り、大工さんに渡した。
ある程度の角材は資材屋で売っているのだが、適当な寸法のものがない場合は、大工さんが縁を斧で落とし必要な角材を作る。板材から細い角材を作ることもある。日本なら、電気丸ノコや電気カンナで一瞬にしてできあがるが、彼らの道具といえば、ノコギリと斧とカンナの3種類だけだ。
長い直線を引く時、日本では墨壺を使う。真っ直ぐの線を引くのに必要な道具だ。大工さんは、墨の入った空き缶に糸を浸し、ズルズルと取り出しては、あっちとこっちで引っ張り合ってピンとはね線を描いている。線はぼけているが用は足している。この黒い液体は、乾電池のカーボンを水に溶かしたものだった。
わたしは墨壺を作ることにした。日本の墨壺は、滑車の部分と墨が浸してある綿の入った壺の部分とでできている。ヒョウタン形をしているのをよく見るが、意匠の凝ったものもたくさんある。
墨壺はできたが墨汁がない。大工さんと同じように乾電池のカーボンを使った。
使い勝手が悪かったのか、わたしの墨壷は、見向きもされなかった。
現場もウブドの村と同様に水道は布設されていない。井戸を掘ることになった。鉄パイフを水圧で地中に50メートルほど挿していく“スムールボール”と呼ばれる井戸掘り手法があるが、予算の安い手掘りで12メートル掘ることにした。これは特別の職人さんが来た。
掘った土をバケツに入れて上に上げる。10メートルも掘り進むと空気が薄くなって苦しそうだ。そして、少しづつ水が溜まってくる。底に溜まる水に潜って土を掘っていく。眼を真っ赤にして井戸から出て来る職人さんを見て、感動と感謝した。

テーブル事件があってから、大工さんたちはわたしの顔色をうかがうようになった。しかし、ショックな事件はまだまだ続く。
建物のスケッチは、棟梁に渡してある。しかし、彼らはスケッチをほとんど見ていない。見てもわからないようだ。そのために、何かを造ろうとするたびに話合うことになる。
ある日、トイレの壁が建った。わたしが頼んだのとは違っていた。建っている位置がおかしいのだ。ここは一歩も譲れない。やり直してもらうしかない。
「申し訳ないが、やり直してください」とお願いした。すると大工さんは「ティダ・アパ・アパ(大丈夫)やり直すことはかまわないよ」という返事だった。
何がティダ・アパ・アパだ。言われたように工事をしてくれよ。あなたたちはティダ・アパ・アパでも、材料を無駄にし、日当を払うのはわたしだ。それもなけなしの全財産で。
大工さんのティダ・アパ・アパ発言は、日常茶飯事だった。わたしも日本で20年間店舗デザイナーの末席を汚した男。最初はこめかみの血管が破れそうなのを押さえながら「ティダ・アパ・アパ」を受け流していたが、工事が終わる頃にはしっかり慣れてしまい、わたしも「ティダ・アパ・アパ」を連呼していた。
前にも書いたが、バリ人同士はバリ語で会話をしていて、バリ人以外と話す時にはインドネシア語を使う。ティダ・アパ・アパはインドネシア語で、バリ語では「シン・ケン・ケン」、丁寧な言い方では「タン・ナピ・ナピ」と言うらしい。わたしは外国人だから「ティダ・アパ・アパ」というわけだ。
次の日には、トイレの洗面台が1メートルの高さについていた。これでは顔を洗うと手元に水がこぼれてしまうではないか。「少しは考えろ!!」と大声を出して怒りたい気持ちを抑えて「少し下げてくれませんか。女性だと高すぎて手が洗いずらいから」と、顔を引きつらせながら、優しく注文した。
またある日には。ごく自然に何気なく置くようにと頼んでおいた、土間のたたきに小石を敷く作業は、ちょっと見ていない隙にきれいな花模様になっていた。何気なく無造作にというのは、難しい注文だったようだ。これは、取り除いてやり直してもらった。
こんなこともあった。わたしが何気なくそれなりに気を使って置いた縁側の敷石が、いつのまにか、まわりにいくつかの石がついて亀や花の形になっていた。こんな時は、大工が帰ったあとに、蹴飛ばして壊しておく。そうしておくと次の日には「余分なことをしたのかな」と思ったのか思わなかったのかはわからないが、そのままになっていた。
柱やテーブルの足もとも、バリ人の大好きなバリ・スタイルのデコレーションが施されていく。有り難迷惑とはこんなことを言うのだろう。これも、怒るわけにいかず丁重にお断りする。
日本の土蔵をイメージした厨房の建物が完成した。
土蔵の外壁のペンキを塗りはじめた。下地のセメントがまだ乾かないうちにペンキを塗ってしまう。セメントが湿気っているうちにペンキを塗ると、あとで剥げ落ちてしまうため「その仕事はあとにしたら」と言うが聞き入れてくれない。きっとこれがバリ式なのだと、無理矢理納得する。
聞き入れてくれなかったのではなく、わたしのインドネシア語が通じないせいなのかもしれない。それな、らわたしの責任でもあるわけだ。こんな涙、涙の我慢の日が続いていった。
 
工事の工程表がないので、いつ誰が仕事に来るのかかわからない。連絡もないし電話もよこさない。といっても電話は普及していないが。雨が降ったから来れなかった、家で儀式があった、家族が病気だった、などといいわけは様々だ。
それにもかかわらず、わたしの腹立ちは決して長続きしなかった。何と言っても彼らは憎めない善人ぞろいである。仕事に来れば長い時間、本当によく働く。そのうえ仕事は丁寧だ。
そんなわけで、少しずつ寛容な態度に立ち返り、バリ時間にもなれっこになっていった。
なにごとも期待とおりに運ぶと思うのが間違いだ。いつかは終わるのだからそれでよしとしなくては。なんと言っても文化が違うのだ、日本の物差しで測ってはいけないのだ。
早く完成にこぎつけたいという気持ちが、細部にわたって凝った完璧なものにしたいという願望を押しのけてしまう。仕事が遅れに遅れ、職人たちのいいわけが度重なると、なおさら、どこかで手を抜いてでも仕上げを急いでしまう。
開店する日を決めているわけではないので、出来たときが開店日だと思っている。もし期限を決めていたら、胃に大きな穴があいてがいたことだろう。堪忍袋の緒が切れてしまいそうになるのを押さえ、忍耐と寛容をもって眺めることが必要だ。
厨房が道に面しているという変わった設計になったのは、土蔵をイメージした建物を正面にもってきたかったからだ。もちろん日本人は、これで日本食レストランだということがわかるだろう。日本人以外にも、日本をよく知る人ならひと目でわかるはずだ。工事中から欧米人の旅行者が、興味ありげに覗いていく。
庭には、バリ島を模した池を造る予定だ。橋はクタあたりの上に架ける。

大勢の友人が、旅行中の貴重な時間を裂いて店の手伝いをしくれた。ありがたいことだ。
いつも屋台街の奥の屋台でアラックを飲んでいる“臼井君“が、昼間は「居酒屋・影武者」の工事を無料奉仕してくれた。厨房や物置の小窓に、竹の桟を入れる仕事を全部一人でやってくれた。
いつのまにやら大工たちと仲良くなり、テガランタン村の彼らの家まで行って、アラックをごちそうになっている。酔いつぶれると、そのままテラスに泊まってくる。優しさの滲み出た顔に、ひょうひょうとしたつかみどころのない青年だ。
サン・アユからバリ舞踊を習っていた“まみちゃん”は、40枚以上の座ぶとんに刺し子風の刺繍をした。彼女を中心にして数人の女の子が、紺地の座布団カバーに赤い糸で縫い込んでくれた。任せていたら、すべて違う模様になっていて、面白かった。夜なべをして作ってくれた彼女たちから「これは野麦峠だ」と言われ、大笑いした。「野麦峠」の意味がわからない人、ご免なさい。
スマラ・ラティのアユからバリ舞踊を習っていた椰子の木“あっこちゃん”からは、手打ちうどんの作り方を手ほどきしてもらった。楽しい思い出になった。
日本の絣をモチーフにしてバリ伝統の手法でイカットを織っているドイツ人男性・クラウス氏の渋い薄茶色の布を使って、ユニホームを作ろうと思う。クラウス氏は骨太で気難しい性格のドイツ人で、わたしがウブドで知り合ったバルディの友人。バルディもアイコーさん同様に “和尚” の弟子で、サニアシン名を使っている日本人だ。
デザインは、スエーデンから来ている女性で、クラウス氏の仕事を手伝っているガブリエル嬢にお願いした。ガブリエル嬢は、身長1メール80センチ以上ある大柄な女性だが、繊細なセンスの持ち主だ。日本の着物をアレンジして、バリ人女性のしなやかな体型にフィットしたものにして欲しいと頼んだ。
わたしは照明器具やテーブルなどを作った。ウブドのほとんどの店は、竹カゴや麦藁帽子を代用した照明器具を使っていた。2〜3種類のスポット照明はあるものの、お洒落な照明器具は売っていないようだ。気に入った照明器具は自分で作るしかない。わたしは、竹を利用して照明器具を作ることにした。
日が沈んだ時間になるとコプリンは「スダ・マラム(もう夜だよ)」、暗くなったら仕事をしない方がいいよと伝えにくる。
このところ、コプリンのいれたコーヒーを啜りながら時間をつぶすことが多くなった。
田圃のかなたにある椰子林の上にそびえる雄大なアグン山の風景を見ていると心が落ち着く。当然だが、大工さんたちのひんしゅくをかった日から、わたしはアグン山を見ながらの立ち小便はしていない。
田園風景は色彩の宝庫だ。空は紺碧で、緑は多彩なグラデーションを織りなし明るい黄色や朱色の花がアクセントになっている。
夜になると、満天の星空に無数の螢がキラ星のように輝き、優雅に舞う。そして、家を建てているサクティ村ほどではないが、ここも蛍がいっぱい飛び交う。それはそれは、幻想的な風景だ。


つづく



前へこのページのTOP次へウブドに沈没


Information Center APA? LOGO