「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■3月・29)ニュピ祭礼日の過ごし方


毎日のように供物を作っているロジャースの女性たちだが、この頃、特に忙しそうに大量の供物を作っている。
テラスに座り込んで手先を動かしている女性たちに近づいて「この供物は、何の祭りに使うのですか?」というつもりで、そこに積まれている供物を指さした。
「あれ、あんた知らないのかい?」とでもいうように、「これは、ニュピのための、お供えものだよ」と教えてくれた。 「ニュピは、ノー・イート、ノー・ライトだよ」。手先を休ませずに、お手伝いのワヤンが答えてくれた。
わたしは、ニュピどころか、バリの儀礼のことをまったく知らない。
昨日の昼過ぎ、王宮の前で、正装に身を包んだ大勢の人が何台ものトラックから降りてくるのを、昼食の帰りに見た。ロジャースの女性たちも、朝早くからトラックに乗って海の方へお祈りに行ったようだ。あれも、ニュピに関係するものなのか。

ニュピは、月の満ち欠けと密接な関係がある太陰暦で1年が巡る、サコ暦の祭礼日。サコ暦の最大の祭儀で例年、雨期の終わる3月か4月に訪れるらしい。その重要な日が、明日なのだ。
ガルンガンほど忙しくはないが、それでもバリ人はニュピ当日までに、いくつかの儀礼をこなさなくてはならない。
ニュピ当日は、バリ島のすべての人が外出しないということだ。だから、店も開いていない。もちろん、屋台街もやっていない。
ノー・イートと言っても、まったく食べていけないわけではないだろう。わたしは食料を調達に、ウブドでもっと大きな雑貨店「ティノ」に向かった。
王宮の前では、大規模な儀礼が行われていた。地下の霊を鎮めるための儀礼だということだ。
カジェン通りを出て、ウブド大通りを王宮のある方向と反対に歩くと、すぐ左手に「ティノ」はある。ロジャース・ホームステイが、便利な立地にあることに気づいた。
買い求めて値札を見ると「ティノ」の値札の下に「ティアラ・デワタ」の値札が貼ってある。「ティアラ・デワタ」は、デンパサールにあるバリ島で一番大きなスーパー・マーケットだ。大きなと言っても、日本でなら小規模店舗だろう。ウブドに滞在する者にとって「ティアラ・デワタ」に出掛けるのは、ジャカルタにでも買い物に行く程の距離感がある。これはウブド人も同じようだ。
時々「ティアラ・デワタ」でウブド人に合うことがある。デンパサールは、ウブド人にとって、地方から上京するという感覚に近いものだろう。ウブドは、そのくらい田舎の村だ。
だから、少しくらい値段が高くなっても仕方がないとあきらめている。
ティノに着いたのは、昼少し過ぎていた。すでに、パン類は売れ切れて、残るは菓子類だけだった。食事にはならないが、何も食べないよりはましだろうと、ビスケットとオレンジ・ジュースを手に入れて店を出た。

ロジャースに戻ると、奥の方からガンガンガンガンという、とてつもなく大きな雑音が聞こえてきた。たいまつを手にした、おばあちゃんを先頭にイブとお手伝いのワヤン、そして3人の娘たちアニ、アリ、アユが、手に手に鍋や鍋の蓋を棒きれで叩きながら歩いて来た。末娘のアユは、長女のアニに抱かれている。飼い犬が、後ろからついてくるのがユーモラスだ。
わたしを見て、みんなの顔が微笑んだ。ワヤンが、一緒について来いと手招きする。わたしは、顔の前で掌をヒラヒラさせて断った。
女性たちの行列は、屋敷の隅々をくまなくまわって終わった。隣り近所からも、ガンガンという音が聞こえてきた。
「家中の悪霊を追い出すんだよ」。ワヤンが、また教えてくれた。
ワヤンが「王宮の前に、オゴホゴが出るよ」と教えてくれた。そのオゴホゴなるものが何なのかわからないが、とにかく、王宮まで出掛けることにした。
スゥエタ通りに出ると、山側から、大勢の男たちがシンバルを叩いて行進して来るところだった。そのうしろから、高さ3メートルはあろうかと思われる、巨大な張りぼて人形が乗った御輿が進んでくる。王宮の前には、すでに数台の巨大張りぼてが鎮座していた。これがオゴホゴというものか。
オゴホゴは、妖怪のような、おどろおどろしたものばかりだ。口から血を滴らせた妖怪。首がグルグルと回る妖怪。どれもかなりリアルに出来ていて、バリ人は器用なんだなと感心した。
夜8時近くになると、薄暗い変則十字路は大勢のバリ人であふれた。そのまわりをツーリストたちが興味顔で覗いている。わたしもそのひとりだ。
しばらくして、激しいシンバルの音とともに、1台のオゴホゴが担がれた。オゴホゴはたいまつの明かりにぼんやり浮かび上がり、妖怪のおどろおどろしさをいっそう盛り上げていた。
シンバル音にあおられるようにして、変則十字路でダイナミックに3度回転すると、たいまつを持った子供たちを先頭に、ウブドの西端にあるチャンプアン橋に向かって走っていった。8台のオゴホゴが、次々と出発していった。
そうか、騒がしい音を立てるのは、悪霊を地上から追い払う儀礼なんだ。
追い出したあとは、悪霊が戻って来ても見つからないように身隠すようにヒッソリ暮らす。それがニュピということだ。

一夜明けて、ニュピ当日。
朝、起きてみると、いつもの近所の子供たちの騒ぐ声や路地を飛ばすバイクの爆音などがいっさい聞こえない。まったくの静寂。
いつものように、ワヤンが朝食を持って来てくれた。朝食は出ないと思っていたので、嬉しい誤算だ。
「本当は今日一日、火を使うのはダメなんだよ。だから、料理もダメなの」
わたしは大きく首を上下に振って、ワヤンにそうですかと意志表示し、寝起きの一服に火をつけようとした。
「あっ、タバコもダメだよ」。ワヤンは、いたずらっぽい笑顔を含んで言った。
そうか今日は、ノー・イート、ノー・ライト。火も使っていけない日なんだ。
「バリ人はみんな、今までの反省とこれからの1年の幸せを祈って、今日1日何も食べずにじっと座って瞑想するんだ。ホレ、あそこの部屋の前で、おじいちゃんも瞑想しているでしょう。静かにしていないと、昨日追い出したはずの悪霊がまた戻って来てしまうのよ」
そういえば、3度の飯より闘鶏が大好きなお爺ちゃんが、先ほどから厳粛な顔で座っている。そんな姿を見て、わたしもなんだか神妙な気持ちになり、「よし、今日1日、わたしも静かに瞑想してみよう」と思うのであった。
グンマニの姿が、ロジャーのテラスに見えた。
あれっ、今日は外出禁止のはずだが、それでいいのか?
しばらく、ロジャーの女性たちと会話をするとグンマニは、帰っていった。
「夕方の水浴びの時間は、外出してもよいの」と、ワヤンが教えてくれた。いろいろと、ワヤンに教えられるニュピ祭礼日だ。
バリ島中が、電気を灯さないニュピ。
昨夜は、月が姿を消す日。今夜の暗闇は、停電の時よりさらに暗い。夜空には、プラネタリウムの中にいるようにたくさんの星が見える。
今夜は、ロジャーの部屋からテレビの音も聞こえない。
こんな日が、1年に1度あってもいい。世界中が、節電して、灯りの尊さを知る日があってもいいだろう。


                      

ニュピの静寂の中、わたしは今、日本を離れる2日前の5月5日のことを思い出している。
この日、息子と遊園地に行った。
その日のことが、今、鮮明に思い出された。
8歳の息子は、父親が母親と離婚して、日本にいなくなるということを知らない。わたしが遠くインドネシアに行くことを知っているのは、極々わずかな友人だけだ。
これまでわたしは、遊びに行くときは、いつも息子の友たちも一緒だった。今日に限って父子だけ。喜ぶだろうと思って連れて来たのはわたしの身勝手で、無理矢理つれてこられて迷惑しているのか息子の態度がどことなく硬い。うすうす両親の離婚に気づいているのか、それとも、わたしの心の変化を感じとっているのだろうか。
離婚の条件は、息子の意志で父親に会いたくなるまでは会ってはいけない、だった。次、いつ会えるかわからない。もしかすると、これが最後で、もう一生会うことができないかもしれない。 わたしの気持ちを気遣ってか、息子は無邪気に遊んでいる。そんな息子の姿を見つめ、わたしは、その光景を心に焼けつけようと努力していた。

1989年前の夏のことだ。この年の日本は、猛暑が続き日射病で倒れる人が例年になく多かった。
わたしは、うんざりする暑さに目眩を覚えながら、期限が切れていたパスポートを取得するために必要な住民証を交付してもらいに役所に来た。
途中、乗用車とバイクの追突事故を目の前で見た。うだるような暑さの中の渋滞で、ドライバーも苛立っていたのだろう。渋滞から解放されてスピードを出し過ぎた事故だ。事故を見た日は、いつも嫌なことが起こるのがわたしのジンクスだ。こんな日は、できるだけ落ち着いて行動することにしている。
昼の3時過ぎ、こういう時間に役所に来られるのは主婦が多い。普通に生活をしている者にとって、役所というところはあまり用がない。
手にした受付番号が「417」。ヨイナとは縁起が良い番号だ、とちょっと嬉しい気分になった。電光掲示板の赤い数字が、わたしの受付番号417を表示した。待合いの長椅子から腰をあげ、受付カウンターに向かった。カウンターで受付番号カードを渡すと、引き換えに住民証が手渡された。
わたしは、住民証を見て驚いた。戸籍の名前が旧姓の伊藤に戻っている。わたしは婿養子だった。いつのまにか離婚している。わたしの知らないうちに、わたしは離婚していた。おまけに一人息子は、わたしの承諾もなく妻の両親の養子になっていた。
事故目撃直後に、いきなりこんな屈辱的な場面に遭遇するとは。「417」は「ヨイナ!」の妻側からの断定通告だったのか。
今どき日本の社会で、離婚なんて話はちっとも珍しくない。しかし、まさか自分がその当事者になるとは思ってもみなかった。それにしても、本人がまったく知らないうちに、こんな重大なことが勝手に進んでいたなんて。
悪夢のような現実に、落ち着こうにも落ち着けない。力の抜けた身体は今にも崩れそうだ。
「わたしは離婚した覚えがないのですが、どうなっているのですか?」
カウンターの前で住民証を力いっぱい握りしめたわたしは、受付の女性に訊ねてみた。少し興奮したうわずった声だったかもしれない。
女性は、気の毒なことになりましたねとでも言いたそうな顔で「奥様と奥様のご両親が見えてサインしていきました」と応えた。日本の役所は、本人の承諾がなくてもこんなことができてしまう。人の良さそうな受付の女性に怒ってもみてもはじまらない。
わたしは独身に戻った住民証を手提げバッグにおさめると、世間から裏切られたような疑心暗鬼な気分で役所をあとにした。
数日後、日時を一方的に指定されて家庭裁判所に呼び出された。この日時に出頭しないと、すべてを相手方に委任したことになる。任意出頭だが、これでは万障繰り合わせのうえの強制出頭と同じことだ。
犯罪者にでもなった気分で、家庭裁判所の門をくぐった。
「あなたたちのお子さまは、まだ小さいですからお母さんが育てることになります」と弁護士は言う。
「お子さまが自分の意志で、お父さんに会いたくなるまで会わないでください」
これがもっとも悲しい言葉だった。
「片親でも子供はぐれずに育つものです。心配はいりません」
こんな言葉は慰めにもならない。
妻の妹には「財産目当ての結婚なんでしょ」と罵声を浴びせられた。これまでの人生で、この言葉が一番傷つけられた。そうか義妹は、わたしが居ると遺産が減ると考えているのだ。その時、初めて気がついた。わたしの義妹に対する気持ちとあまりにかけ離れていたのに驚いた。
そう思わせてしまったことに責任を感じるが、わたしにはまったくそんな意思はない。義妹は病弱だったため、わたしはそんな義妹を妻とともに生涯面倒をみるつもりでいた。
親子姉妹で追い出しにかかられては、たとえ元のさやに納まったところでうまくいくはずはないだろう。
「別れて欲しい」ただそれだけしか聞いていない。「来る者拒まず、去る者追わず」の消極的な人生を送っているわたしは、よく理由がわからないまま離婚に承諾した。こうして10年間の結婚生活に終止符が打たれた。
わたしは40歳にもなって、いまだにうだつの上がらないインテリア・デザイナーだ。6人兄弟姉妹の末っ子に生まれ、末っ子の特権のように甘やかされて育ち、ひ弱な一面がある。離婚の原因は、自分の生活力のなさにあるかもしれないと反省している。
しかし、人間の価値は経済力だけではないはずだ。この一家で、わたしの考え方や感性などといった資質については、まったく評価されなかった。これは、サクセスできなかった男の言い訳なのだろうか。
わたしはこの7年間、仕事が多忙で、あまり息子と過ごす時間が取れなかった妻の代わりに子どもとともに毎日を過ごしていた。わたしにとって息子と離ればなれになることは、奈落の底に突き落とされるように辛いことだった。会えないのなら、地続きである日本にいることも辛い。どうせ辛いのなら、いっそ海外に出て辛さを紛らわそう。
40を過ぎた男がひとり、あてもない旅に出るにはそれなりの覚悟がいる。そんな覚悟を起こさせるほど、会いたくても会えない息子のいる土地を離れたかった。
そして今わたしは、バリ島ウブド村でニュピの風習にドップリ浸かり、暗闇のベッドの上で瞑想している。


つづく




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