「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■10月・20) 妖怪ガマンは赤たまねぎが苦手


サクティに家の建築予定地を見に行くと、傾斜の土地に大きな石の基礎組みが出来ていた。
着々と仕上がって行く。完成が待ちどうしい。
今は毎日ブラブラとしているが、そのうち自分に合った趣味も見つかるだろう。
趣味がこうじていくらかの収入になれば幸いだ。
乏しい才能を導き出してくれような予感もする。
夢が見つかり、新しい世界が開けてくるかもしれない。
ウブドの生活がおもしろくなるにつれ、息子との日々の記憶が薄れていく。自分勝手で薄情な親父だ。
これはもう、時の流れにまかせるしかないないだろう。

この頃、ミユキの屋台に頻繁に通ってくる日本人青年がいた。
スポーツで鍛えたと思われる屈強な体格をしている玉村君は、玉ちゃんと呼ばれている。
わたしの偏見だが、美大の生徒はこんな感じだろうなと思わせる世界観と風貌を持った青年だ。
大学の卒業を残り数ヶ月に控え、学生時代の思い出に東南アジア諸国を巡る旅を計画して日本を出た。
最初に訪れたのがインドネシアのバリ島。
ところが、最初の訪問先バリではまってしまったようだ。
このままだと、他の国へは行かず、ウブドだけで卒業旅行は終わってしまいそうだ。
ウブドは、想像以上に居心地が良いところで、いつの間にか滞在を伸ばしてしまう。
そうして、諸国巡りの旅をあきらめてしまう旅行者も多いようだ。
忠告:「バリは、旅の最終に訪れるのが良策」。

夕方近くなってミユキの屋台の常連客・西村さんが、玉ちゃんを伴ってロジャースを訪れた。
ふたりは市場の裏にある「S・ハウス」に滞在していて、つるんでいることが多い。
テラスで横になりうたた寝をしていたわたしは、人の気配を感じて眼を開けた。
「やあ、久しぶり!」横になったままそう言って、身体を起こした 。
わたしは、ふたりがテラスに座れるスペースを作りながら「昨日、ロンボクから帰って来たばかりで、この1週間ミユキの屋台に行っていないんだよ。
西村さんと玉ちゃんは相変わらず行ってる?」と声を掛ける。
西村さんは「うん、毎日行っているよ」と答える。
玉ちゃんはわたしの言葉が聞こえないのか、その質問に答えず落ち着かない様子で、「僕は別に怖くはないのですが」とトンチンカンなことを言い出した。
玉ちゃんの腑に落ちない態度を見て、これは何か重要なことが起こったようだと察知した。
「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着いて」
わたしはコーヒーをふたつ入れ、ひとつを西村さんに、もうひとつを青白い顔であぐらをかいている玉ちゃんの膝の前に置いた。
「ところで、いったいどうしたの?」
西村さんは、すでに聞いていて心配している様子だった。
玉ちゃんは、泊まっているホームステイの部屋で昨夜までの三晩に立て続けに起きた不思議な現象の話を始めた。
話はこうだ。
3日前の深夜、ベッドに入り壁面の電気を消すと、天井裏を何かが歩く音が聞こえてきた。
ネズミやトッケイにしては音が大きい。
といって猫の足音でもない。
そんなはずはないのだが、どう考えても人間の足音としか思えない。
足音が止むと、今度は、隅のテーブルがコトンコトンと小さな音をたてた。
玉ちゃんは、窓から射し込む月明かりの中でテーブルを凝視した。
すると突然、テーブルはすーっと持ち上がり、ゴトンと大きな音をたてて落ちた。
この時は、さすがの玉ちゃんもびっくりしたそうだ。
再び、何かが起こるだろうと身構えたが、そのあと不思議な現象は起こらなかった。
翌朝、天井のあらゆるところを調べてみたが、猫1匹出入りできる隙間は見つからなかった。
しかし、あれは絶対人間の歩く音だ。
2日目も3日目も同じことが起こった。
「怖くはないんですがね。正体はいったい何でしょうね?」と玉ちゃん。
ロジャーが暗闇から顔を出した。
われわれの話が深刻そうなだと見て取って覗いたのだろう。
バリ人は好奇心が強く出しゃばりが多いようだ。
玉ちゃんの話を告げると、ロジャーの顔がこわばった。
「それはガマンだ。ガマンが君を誘惑に来たんだよ」
「えっ、何でこんなことガマンしなくちゃいけないの!」
わたしよりインドネシア語のできない玉ちゃんは、ガマンというところしか理解できず裏返った素っ頓狂な声で叫んだ。
「それは、どこのホームステイだ」。ロジャーは興奮気味に聞いてきた。
「市場の裏の・・・」。玉ちゃんの言い終わらないうちにロジャーは「S・ハウスか」と彼の泊まっているホームステイの名前を言い当てた。
わたしと玉ちゃんは顔を見合わせた。
「どうして知ってるの?」
「S・ハウスには、以前からガマンが出るという噂があるところだ」
なんでも家を建てる時に大きな樹を切ったが、お祓いの儀式をしなかった。その時の木の霊がまだ迷っているのだろうということだ。
「ところで、そのガマンというのはなんですか?」
ロジャーによると、ガマンは姿は見えないのだが、女性の妖怪で男性を誘うと言う。
他の村で、男児が神隠しにあったように突然いなくなることがあった。
家族や警察がどんなに捜しても見つからない。
ある日、深い谷底でいなくなった子供が水浴びしているところを友だちが見つけ声をかけたが、その瞬間、子供は消えてしまったそうだ。
まったく知らない村で見かけたという話も聞く。
よくある話だそうだ。
ロジャーのこの話を玉ちゃんに伝えると「別に怖くはないですがね」。
発言は強気だが、どことなく覇気がない。
「玉ちゃん、やせガマンしないでよ」
わたしのくだらない冗談に、いつもならするどい突っ込みをいれる玉ちゃんが、今日はまったく反応しない。
「今夜寝る前に、裸になって全身に赤タマネギをぬりつけなさい。
そうすればガマンは君の身体が見えずどこかへ行ってしまうだろう」
そう言い残して、ロジャーは赤タマネギを取りに台所へ行った。
バリでは、赤タマネギは魔よけになるといわれている。
ドラキュラーや疫病祓いのニンニクのようなものか。 ロジャーの後ろ姿が暗闇に消えると、突然「ドスン」大きな音がした。
わたしたちは同時に、身体を硬直させた。
庭の椰子の実が、地面に落ちた音だった。
「耳なしほう市のような話だが “アソコ” にもやっぱり赤タマネギをぬるのですかね?」
玉ちゃんは困ったような顔を見せて、わたしに聞いてきた。
「もちろんそうだろう。そうしないとそこだけがガマンに見えて持って行かれるかもしれないぞ」
「おどかさないでくださいよ」
ロジャーが戻ってきた。
「これを塗りなさい。どちらにしてもS・ハウスの主人に頼んで、お祓いをしてもらったほうがいい」
玉ちゃんは赤タマネギを持って帰っていった。うしろから西村さんが心配そうについて行く。

次の日の昼過ぎ、玉ちゃんのその後が心配でわたしは「S・ハウス」を訪ねた。
裏庭の切り株を前にして、宿の主人と玉ちゃんが並んでお祈りをしているところだった。
「きのうは何もなかったよ」
玉ちゃんは昨晩、ロジャーに言われたように、全身に赤タマネギをぬり裸で寝たらしい。
お祓いをすませたことだし、これでガマンは出没しないだろう。
「この話、旅行者にはしないでよ」。玉ちゃんに釘をさされた。
主人から「噂が広まって、S・ハウスにお客が来なくなると困るから」とお願いされたらしい。
「夕食にはちょっと早いけど、ミユキの屋台でビールで飲もうか?」。
わたしは元気をとりもどした玉ちゃんを誘った。
ミユキに、玉ちゃんの不思議体験の話をすると、たいして驚きもせず「バリは、いろんな不思議なことが起こるところよ」。
いかにも、自分にも似た経験があるような発言をした。
ミユキに限らず、そういった超自然現象に敏感な人も、そうでない人も、バリに滞在する間に不思議な事・物に出くわすことがある。
この島では、あらゆるものに「精霊」が宿ると信じられ、ことあるごとに供物を捧げる。
その眼に見えないものたちが、何かをしでかしたり姿をあらわす時は、たいてい供物の要求である。小さな供物で済めばいいが、「子豚の丸焼きいっちょう!」と要求される場合もあれば、タバコの銘柄から本数まで、ご指定されることもあるらしい。
女妖怪・ガマンは少々恐ろしげだが、 スタジオジプリ制作のアニメーション「となりのトトロ」に出てくる妖精のようなものも、バリにはたくさんいるに違いない。
玉ちゃんは、きっと「トトロ」に登場する子供たちのように純粋な心の持ち主だったに違いない。ガマンはそんな玉ちゃんに、供物の不足を訴えたのだ。


                      

ミユキはあるバンガローで不思議な体験をしている。
彼女は、日本の大学の文学部で日本の古文を学び、将来、小説を書くんだと言っている。
ボブ・マーレーの「ライオンのうた=SONG of LION」の日本訳の小冊子を持っていた。
多数のアーチストが参加した、ボブ・マーレーからのメッセージを絵本に仕立てたものだ。
彼女は、その本の中の物語を書いていた。
この日も、小説ネタを書き留めようとバンガローの竹製の机に向かっていた。
すらすらと文章が飛び出す日もあれば、この日のようにまったく浮かばない時もある。
とにかく手に鉛筆さえ持てば、何か書くだろうという期待から、白い紙に向かった。
頭の中が白い紙と同じように、無になったと感じた時、不思議なことが起こった。
手が、勝手に動きだしたのだ。
白い紙に何やら書き連ねた。
書き連ねられた文章は、ふだん彼女が使う言葉ではない。
手は動いているが、文字は読むことができる。
それは、そうろう文で書かれていた。
読み返すと、枕草子を筆記しているようだった。
白い紙には、ぎっしりと字が埋め尽くされてた。
5分くらいと感じたが、もっと長かったかもしれない。
これは、幽体筆記とでも言うのだろうか。

この話を聞いた滞在者のひとりB子が興味を抱き、同じバンガローに泊まった。
B子も、そこで不思議な体験をした。
「日本でもそうだったのですが、わたし、霊感が強い方なんです」
彼女は、東北の女性でイタコ体質だと言う。
「前に伊藤さんから聞いた、ミユキさんが幽体筆記したというバンガローに、わたしも泊まってみました・・・・・・・」
彼女の話は続く。
「わたしが泊まった部屋が、偶然というか引き合わせてくれたのか、ミユキさんが泊まっていた部屋だったんです」
ライス・フィールドの中にある、心地よい風の通るバンガロー。
夜には、川沿いに蛍がいっぱい舞っていた。
ベッドに横になっていると、冷気が襲いかかってくるという感じがした。
『いよいよ、出るか!』とB子は身構えた。
安普請の壁を透かして小さな人形が現れた時は、いきなり心臓が飛び出るかと思うほど、ビックリした。割いた竹で編んだ薄い壁は、いかにも通り抜けられそうだ。
人形は、5センチほどのバリのチリ人形に似ている。
チリ人形は稲の女神デヴィ・スリを現し、ロンタル椰子の葉で作られた美しい少女の姿をしている。
これは宇宙人の斥候かもしれないと考えた瞬間、壁から消えて行った。
B子は、もう1度会いたいと思った。
〈次に出て来ても驚かないから〉と誓った途端、また壁から出て来てくれた。
部屋の中を蛍のような動きで飛んでいた。
宇宙人なら、わたしはさらわれるかもしれないと少し不安になった。 しばらくして、今度は扉を透かして出て行った。
しばらくが数秒だったのか数分だったのか、時間の感覚はなくなっていた。
翌日、バンガローのスタッフにその話をすると。
『それならよく飛んでるよ。前の道を奥に進んでいくと突き当たるだろう。その先は畦道になる。畦道の横に祠が立っている。夜になると、よく見かけるよ』
『それって、蛍じゃないの』にわかに信じられないB子は、スタッフに質問した。
『もちろん、蛍もたくさん舞っているけど、飛び方が違うからすぐわかるよ』
そうなんだ、村人は普通に見ている物なんだ。
日本にいる時なら信じなかっただろう。
ウブドで暮らすと、こんな話もありそうな気がしてくるから不思議だ。
ミユキの屋台に集う常連客も、そんな話を信じて疑わないのだった。


つづく


※《「極楽通信・UBUD」ウブド奇聞》: 《妖怪ガマンは赤たまねぎが苦手》を、参照しました。




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