「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■ 9月・18) ハヌマン通りの散策


朝7時。この日は、鳥だか虫だの鳴き声で眼が覚めた。
テラスに出ると、お手伝いのワヤンが前に立っていた。
わたしは、覚えたてのインドネシア語で「スラマッ・パギ(おはよう)」と朝の挨拶をした。
朝食と洗濯が終わると、これといってすることはない。今日は、どうやっって時間をつぶそうかと考える。

ウブドの中心地は王宮と市場のある変則十字路で、その半径2キロ圏内がウブドの村だ。1時間も歩けば村を外れてしまう、こじんまりとした大きさだ。
幹線道路のウブド大通りが一本東西を横切り、王宮から南にモンキーフォレスト通り、北にスウェタ通りとわたしの滞在する「ロジャース・ホームステイ」のあるカジェン通りというように延びている。
日本から持ってきたガイドブック「地球の歩き方・インドネシア編」の、まるで手相のような単純な地図では物足りない。しっかりした道路地図を手に入れたい。
ミユキに、ウブドとウブド近郊が一番詳しく載っている地図を買いたいのだがと訊くと、「バリ・パス・ファインダーがいいよ」と即答した。ウブド好きで住み着いてしまったジャワ人、シルビオが出版している地図だ。

今日はパス・ファインダーを片手に、モンキーフォレスト通りと並行して南北に走るハヌマン通りを中心に散策することにしよう。
村人は、上半身裸でも必ず腰布を巻いて太ももを見せない。これも宗教的理由からだろう。わたしもそれに習って、村を歩くときは長ズボンをはくことにしている。履き物はゴム草履だ。
ロジャースを一歩出ると、たむろしている村人が「ク・マナ?」と声を掛けてくる。10メートルおきは大げさだが、彼らの前を通るたび、歩いている限り、ずっと声を掛けられ続ける。帰りには「ダリ・マナ?」と訊いてくる。これも現地の人たちとの大切なコミュニケーションだと考え、わたしは正確に答える。
これが毎日のように続くと、答えるのが少し面倒になってくる。どこへ行こうが自分の勝手だろうと思うが、訊かれれば答えるのが常識。友人にこの話をすると「彼らにとって、それは挨拶のようなものだから『あっち』と言っておけばいい」と教えてくれた。
それではあまりにもそっけないと思い、わたしは「ジャランジャラン(散歩)」とにこやかに答えるようにしている。彼らの人懐っこさが時々、うるさく感じることもあるが、それも含めて、この村はおもしろい。
小さな村のこと、4ヶ月もするとすれ違う人がどこの誰かわかるほど顔見知りが増えていく。その誰もが、顔つきが実にいい。これは篤い宗教心からくるのだろうか。

ウブド大通りとハヌマン通りは、T字路で交わっている。ハヌマン通りの入り口は、モンキーフォレスト通りと同じようにハーモニカの吹き口のような間口の狭い店が左右に連なる。
通りには、屋敷前に雑貨店が点在する。
右手に脇道がある。モンキーフォレスト通りの広い空き地に通じる道だ。通りの名前は知らない。
角には、寺院が菩提樹に包まれるように建っている。
「NUR SALON」の看板がある前庭に咲く、珍しい植物を発見。
花火のように八方に開いた葉の先に、白い真ん丸の花が50ほど咲いている。近くに寄ってみると、なんと花の正体は玉子の殻だった。驚くと同時に大笑いしてしまった。手間の掛かる、ちょっとした遊び心なのだろう。これはモダンアートだ。バリ人の独創性に脱帽。


ヌールサロン


さらに、わたしは歩いた。
突然、空が鉛色に曇った。真っ黒な雨雲が近づいてくる。雨音が雨雲の方角から聞こえてくる。乾いた土に水が打たれた時の匂いが、かすかに漂ってきた。
上空が雨雲に覆われると、ザーという音とともに眼の前が雨のカーテンに遮られた。急いで、近くの大きな建物の軒先に飛び込んだ。
シャワーのパイプが壊れたような激しい雨だ。激しい雨はスコールで、しばらくすると止むことをわたしは知っている。短いときは30分、長くて3時間ほどだ。逆にしとしと降る雨は、日本の梅雨のように長い時間降り続けることが多い。
うだるような暑さにべとついていた身体の汗が、一瞬にしてひいていく。生気の失せていた草花が息を吹き返すように、萎えていた皮膚に活力が戻ってくる。
側溝の水の流れが激流となり、見る見るうちに水かさが上がりアスファルトの道まで溢れ出した。今まで歩いていた道が、あっという間に薄茶色の水に占領され川となる。
椰子殻や供物が流れていく。近くの木が、激流に根元からえぐられて道を塞いで倒れた。そういえば「大雨が降ったから」という理由で、約束の時間に現れなかったバリ人がいたが、この光景を見れば納得できる。
バリ人は「プランプラン(ゆっくりゆっくり)」とよく言う。働き過ぎては身体がもたない。急いだところで何になる。また明日にしようじゃないかということらしい。わたしにしたって、急ぐほど重要な約束事は何もない。
雨に霞む景色も美しい。木々の緑は豊かになり、花々は色をいっそう艶やかにする。いつのまにか、ぼんやりと雨を眺めて時間をやり過ごす習性を身につけた。放心状態で雨宿りだ。
軒下で、雨と川となった道を見つめて、スコールの通り過ぎるのを待つこと3時間。黒雲は流れ去り、青空が見えた。
道の両側の並木が直射日光を遮り、適度な日陰をつくっている。その木の幹に、白ペンキ塗りの帯がついている。なんでも、夜、車が激突しないようにとのことだ。とにかく街灯もない村、夜は日本で経験したこともないほど暗い。
口ばしが黄色の白い鳥が5羽、道を歩いている。ガチョウだった。
誰かがつれて歩いているわけではないようだ。車もバイクも、ガチョウを急き立てたりしない。
身長80センチほどの大きなガチョウは両親か。ひとまわり小さいのは、その子どもたちだろう。家族でお散歩だ。お尻ふりふり、よちよち歩く姿が可愛いい。わたしは、あとをついていくことにした。
彼らは側溝に出来た水たまりに飛び込んで水浴びをはじめた。ガーガーと叫び、嬉しいのかはしゃいでいる。
このあとガチョウの家族は、南の端でY字に別れる三叉路を右に向かった。自分の意志で、目的を持って歩いているようにみえる。ガチョウの家族は猿の森のある方向に歩いていったが、いったい、どこから来てどこへ行くのだろう。
わたしは、竹の鳴子が飾ってある「カフェ・クブク」に入った。鳴子はピンジャカンと呼ばれ、田んぼに立てられる。雀を撃退するための道具だが、ツーリストが土産に買っていく。風を受けて、のどかにカラカラと鳴る音に、はたして雀は逃げるのだろうか、と心配になる。
床の高いあずまやに腰を下ろして望む、ここからのライスフィールドは見事だ。
「クブク」はギャラリーも併設していて、オーナーのワヤンが描く怪しげなバリ絵画が展示してある。怪しげなというのは、マジック・マッシュルームで覚醒して描いたと思われる幻想的な絵だからだ。わたしはマジック・マッシュルームを経験済みで、共感する部分があった。
2メートルもある巨大なピンジャカンが、ガチャガチャと騒がしい音を立てて回った。
日中の刺すような暑さが和らいだのを機会に、わたしは「クブク」前の畦道でスケッチブックを広げた。
気に入った場所を見つけてボゥ〜とするには、スケッチブックは格好の小道具だ。
ところが、たちまち人だかりができてしまう。スケッチは、村人とのコミュニケーションにも一役買いそうだが、わたしは下手な絵を見られるのが嫌でそそくさとスケッチブックを閉じその場を離れる。
バリ人のアーチストの制作風景を覗かせてもらうことがあるが、彼らは、気さくに見せてくれる。けっして上手だと思われない人でも、気楽に見せてくれる。わたしはまだ、そんな心境に至っていない。


                      

スウェタ通りを散策した時のことだ。
王宮の変則十字路を北上し、神や精霊が宿ると言われている巨樹の前を通り過ぎる。しばらく進むと、初めて足を踏み入れる未知の道になった。
屋敷の前には、瑞々しい豊富な緑と名も知らない色鮮やかな南国の花が咲き誇っている。
わたしはガチョウの親子と違って目的を持って歩いているわけではないので、興味を持つと立ち止まる。興味を持つ物は、野の花だったり、アヒル、ニワトリ、ブタなどの動物だったり、人々だったり、建物だったりときりがない。
ドラやシンバルの激しい音が聴こえてくることがある。そんな時は、音源を追いかける。行列に出会うと、それについて行く。子供の頃、チンドン屋の行列について行ったのと同じように興奮する。
道端に、セメントで造られた等身大の農夫の彫像が建っている。ノートと指揮棒を持った正装姿の男性の彫像は、教師なのだろうか。独立戦争の記念碑だろうと思われる、兵士の彫刻もどこかで見た覚えがある。
バリを訪れた初日にウブドへ向かう途中、石彫の村に入る大きなカーブでお父さん、お母さん、息子、娘ファミリーの彫刻を眼にした。これは「子供は2人で充分」というインドネシアの少子化政策のキャンペーンだと知ったのは、ミユキと屋台の常連たちでデンパサールに遊びに行った時に、ミユキから聞いた。バリ人は、啓蒙的な彫刻が好きなのだろうか。
地図に記載されていない小さな道がいくつもある。大きな通りはアスファルト舗装されているが、その他の道は土のむき出しだ。懐かしい匂い、都会とは異なる匂いがする。湿った土や濡れた木々の匂いかもしれない。 紛れ込んだ路地に、意外なことが待ち受けていることが多い。路地は、突き当たりだったり、民家の入り口だったり。村人が水浴びに行く川までの脇道だったりする。
バナナ、パパイヤ、ジャックフルーツ、ドリアンなどなど、果物は手の届くところで実り、思わず手を伸ばしそうになる。
村人にカメラを向けると、彼らは嫌がりもせず、反対に「撮ってくれ」とも言うようにポーズをとる。はにかむ人もいれば、慌てて腰布を直したり髪に手櫛をいれたりと、おめかしする者もいる。
自分が写った写真が欲しいという要求をするわけでもなく、快く撮影に応じてくれる。
撮影が珍しいのか、大勢の村人が集まってきて大騒ぎになってしまった。全員を集めて、横1列に長々と並ぶのを注意して2重3重に並んでもらって記念写真だ。
昼間からのんびりとしている村人をよく見かける。ひょっとすると、この村の男達はわたしと同じ怠け者かもしれない。そうだったら嬉しいな。
「時は金なり」思想は、いつ誰が提唱した言葉だろう。日本でのわたしは、いつのまにか時間をお金で換算するようになっていた。利益も伴わない時間の使い方は無駄遣いと考え、罪悪感さえ感じるようになった。ウブドに滞在始めた当初は、なにもしないことが辛かった。そんな気持ちも、心根が怠惰なわたしは、早期に払拭された。
「神々は、人が死ぬまで働くようにお作りになったのではなく、生活を楽しみ、祭りの日を守り、充分に休息を取るようにお作りになったのだ」。こんな言葉がバリにあると教えてくれたのは誰だったか。
ウブドの人は怠け者ではなく、自由人なのだ。
たむろしている男たちは、タバコをふかし声高に談笑し、地酒を飲んでいる。
男たちの着ているものは、色が褪せて黄ばんでいる。いくつも穴のあいた服を着ている人もいる。どれも洗濯はしてあるようだ。彼らの姿は決して貧相には映らない。平和に満たされた顔つきだ。
足もとは、素足かゴムぞうりだ。靴下も靴も履くことはないだろう。もちろんこの村で、スーツにネクタイなんて姿はない。もし、そんな姿の人物がこの村に現れたら、さぞ、不釣り合いで滑稽に映ることだろう。そう考えるとスーツ姿は、都会人に名刺のようなものだろうか。わたしは、名刺を持ちたくないと思った。
集会に使うらしい建物で、村人がテレビに見入っている。
この光景は、30年前の日本と似ている。
テレビが普及していなかったわたしの子どもの頃、銭湯にあるテレビを観るのが楽しみだった。番台の頭上に置かれたテレビを、ラムネを飲みながら裸姿で見上げたものだ。そんな光景がまだこの村にある。
いまだに電気が通っていない村も近くにあると聞く。電気がなければテレビも見られない。信じられない話だが、車の中古バッテリーを電源にしてテレビを見ている家もあるらしい。
ウブドのテレビ普及は、つい1年前だという。ウブド初のテレビ所有者はウブド王宮で、村人が初めてテレビを見たのは、ウブドのホームステイ第一号だったオカ・ワティで、番組はボクシング中継だったそうだ。
先日、ロジャーの家族が寝起きする部屋のテラスにテレビが設置された。もちろん画像は白黒だ。
国営テレビ「TVRI」の一局だけで、夕方4時頃から始まり9時頃には終わっていたと思う。ひとつ番組が終わると、しばらく画面は砂嵐が続き、次の番組に入る。番組は、途中で突然終わったり、違う番組に変わってしまう。
比較的早い時期に我が家に来たテレビは、NEC製の白黒画像だった。ブラウン管の前面に、凸面のプラスチック・レンズを取り付けると、カラーのように見えたのを覚えている。見終わると、ゴブラン織りの豪華な埃よけ布をかけたのを思い出した。
今の日本なら、1家に1台はもちろんのこと、家庭によっては各自の部屋にもあるほどの所有率だが、ここでは持っている家が珍しい。
番組は新聞に載っているそうだが、毎日配達に来る日本と違って、好きな時に店で買っている彼らに番組が把握されているとは思われない。それほど真剣に見ていないかも知れない。
日本のテレビ番組「おしん」が放映されているようで、「おしんは元気にしているか?」と聞いてくるバリ人がいた。おしんを友人に持っている日本人は、まず、いないだろう。わたしは、説明ができないので「元気そうだったよ」と答えておいた。
情報の少ない世界で生活していた彼らが、テレビを観るうちに、今まで知らなかった文明を知っていくのだろう。そうして、彼らはそれを手に入れたくなってくる。今後どんどん電化され、数年のうちに文明国との格差は縮まっていくことだろう。
さて、散歩の続き。
ところどころの門や塀に、宿を商っていると思われる小さな看板のかかっている家がある。
単にに民宿だが、ホームステイ、ロスメン、ゲストハウス、アコモデーション、ハウス、イン、ペンションなど、さまざまな名称がついている。ツーリストに注意をひかせるためだろう。日本のマンションの名称と同様、幼稚な発想だ。差別化はクオリティに力を注ぐものであって、名前の違いではない。
どのくらいの宿があるのか、暇にまかせて調べてみたことがある。その結果、この小さな村に100軒もの宿があった。部屋数にすると、果たしてどのくらいになるのだろう。
しばらく見ないうちに、新たに宿泊施設ができていたりする。毎日のように次から次へと増えていっている。この村が、観光化の波に乗って動いているのがわかる。
帳面片手にホームステイの前にたたずむわたしを見つけた友人から、この国で許可のない調査は許されないと聞いて、趣味のような調べ物は断念した。
5人以上の集会は届けなくてはならないし、人の集まるとこには必ず、秘密警察が出入りしているらしい。人類学を専攻している友人が「政府を批判する発言をする者は、逮捕されるよ」とスハルト大統領の独裁政治の体質も教えてくれた。まだまだ厳戒態勢だ。


                      

今度は、ウブドの西を探索した日のこと。
上り坂の途中、小川に入っている数人の若い女性の顔が見えた。
小川は、ウブドの西端チャンプアン橋に向かう道の上を通っている用水路に繋がっている。
女性は3人。
洗濯でもしているのだろう。女性たちの顔がわたしを見て笑顔になった。わたしも微笑みを返した。
あと残り3メートルと近づいたところで、女性たちが裸なのに気がついた。女性たちは、腰まで水につかって水浴びをしていた。だから上半身は何も着けていないスッポンポン。
裸でも集団になると度胸がつくのか、彼女たちはあっけらかんとしている。
白昼、公衆の面前でうら若き女性たちの裸体を見るのは生まれて初めてのこと。こんな初体験に42歳の中年オヤジは狼狽している。恥ずかしくて顔を背けた。横を通り過ぎる時に話しかけられたが、足早にその場を去った。
ほっと胸を撫で下ろし20メートルも進むと、道が途切れた。「えっっっっっっ!」
彼女たちの前を通るのは嫌だが、戻るしか方法はないようだ。
戻り道でも、声を掛けられた。ひょっとすると「この先、行き止まりだよ」と教えられ、「何かあった?」と声を掛けられていたのかもしれない。
背後で、女性たちが囃し立てる声が聞こえたような気がした。
川端に腰を下ろして、彼女たちと会話をする勇気があれば、楽しい時間が共有できたかもしれない。写真を撮らせてくれたかもしれない。自分の勇気のなさにガックリ。

バリ・パス・ファインダーが、1990年5月に日本訳のB5版小冊子「バリ島・海のない村へ」として出版されていた(6,000ルピア)。小冊子を手に、シンガクルタ・コースを4時間かけて歩いたこともある。チャンプアン橋を越え、ペネスタナン村、カティッランタン村、シンガカルタ村を経て、ウブドの南・ニュークニン村に抜けるコース。
ニュークニン村に行くには渓谷を渡る。渓谷に架かる竹の橋はサーカスブリッジと呼ばれ、自転車は担いで渡ることになる。わたしは、清流を見下ろしながら歩いて渡った。
地図上でまったく距離感がつかめなかったのが、こうして歩いてみると、広いのか狭いのか、遠いのか近いのか、高いのか低いのかがよくわかる。立体的に村を理解していくのを感じる。
ウブドは、これといった観光スポットはないが、どこを歩いてもそれなりに期待に応えてくれる。絶対失望することがない。
結婚式や宗教儀礼などにも遭遇した。心を引き留める『何』かがある。こんなところが、ツーリストを引きつけている要素なのかもしれない。
地図に載っている道を片っ端から歩き、制覇した道は一本一本鉛筆で黒く塗りつぶしていった。一度歩いた道だからといって、もう歩かなくてもいいというわけではない。2度目には、また違った出会いがあるはずだ。


つづく




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