「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■9月・17) 停電は日常茶飯事


ウブドの夜は静かだ。
商店や工場からの騒音、車のエンジン音や電車の音、救急車やパトカーのサイレンといった絶え間なく聞こえる都会の物音がまったくない。名も知らない虫の鳴き声とカエルの合唱が聞こえてくるだけだ。
日中は、陽射しを避けてテラスにいたが、それでも暑かった。日本でなら、この昼間の暑さが夜まで残り、よどんだねばっこい空気となって寝苦しい熱帯夜になっていることだろう。
ウブドの夜は、Tシャツ1枚だと肌寒いほど。日本が夏の今の時期、バリは寒い季節だ。太陽が出る日中の屋外は32度前後だが、室内気温は25度前後。夜には、室内気温が23度に下がることもある。寝る時には、毛布を掛けて寝る。
屋敷寺の方角から、お香の匂いが漂ってくる。お香の甘い匂いを嗅ぐと、心が落ち着く。
ベッドに横になり、小さな窓から見える星空を眺める。
木々や草花の発散する空気が、植物の香りを含んで爽やかな風となって部屋に流れ込んできた。壁ではヤモリが2匹かけっこしている。母屋からは、ロジャーの家族の雑談する声が聞こえてくる。
今夜は、インドネシア語の勉強をしようと辞書を手にした。

突然、部屋の中央にぶらさがっている裸電球が消えた。
停電や電球切れは突然におとずれるもの、別段、慌てることはない。
今の日本で停電は皆無だが、わたしの幼い頃は頻繁にあった。トランジスタラジオと懐中電灯とローソクは、停電に備えての必需品だった。
スイッチを入れると電気が点くことがあたりまえのようになっている、われわれ日本人の生活。電化された製品に埋まって生活している現代人には、手足をもぎ取られたように、ただ茫然とするだけで何もすることができないだろう。せいぜい、電力会社に苦情の電話をかける程度が精一杯だ。
何もすることがなくなった家族が茶の間に集まり、ローソクの灯りのもとで一家団欒の楽しい時間を過ごすかもしれない。ローソクのほの暗い灯りが、家族の顔を微かに照らす。子供たちにとっては、まるでキャンプのようではしゃいだ気分になるだろう。大都会では、数時間の停電が人々を大パニックに陥れるかもしれない。
こんなジョークを思い出した。
「停電になったら何をする?」
「そうだな、何もすることがないからテレビでも観て時間をつぶそうか」
結局、電気に頼る発言をしてしまう。


ロジャース
(※写真:家寺の祭礼・1990年9月19日)


さて、ウブドの停電はどんなだろう。
扉を薄く開けて外を見ると、ホームステイの電灯すべてが消えていた。ブレーカーでも落ちたのだろう。それなら、誰かがブレーカーを元に戻すまで待つまでだ。わたしは、グダンガラムに火をつけ、ベッドに仰向けになった。暗闇に、タバコの火が夕陽のように赤く浮かびあがった。
天井の片隅から「グググ・グググ」という低い音程のハスキーな声が聴こえてきた。続いて「トッケー・トッケー」と叫んだ。7回ほど「トッケー」と叫ぶと「ブー」と一鳴きして終わった。
初めて聴いた時は、どんな大きな鳥が啼いているのかと思った。声の主は、トッケーと呼ばれる身体に赤い水玉模様のある大きなヤモリだった。
この鳴き声が11回続くと、幸運が訪れると言われている。わたしは、今までに11回鳴くのは一度も聴いたことがない。だからと言って不幸になるというわけでもないようだ。
闇が濃いと、匂いと音に敏感になるという。そのせいか、壁つたいに走り回るネズミの足音や蛾の飛ぶ音まではっきりと聴こえる。そして、自然の微かな音も聴こえてくる。
ブレーカーを元に戻すだけにしては、時間がかかり過ぎている。
今まで見たこの村の家屋の電気配線は、すごくいいかげんなものだった。素人工事の露出配線で、いつショートしてもおかしくない。時には、水の中に垂れ下がっていることもある。
ロジャーズ・ホームステイも、細い電線にところどころ絶縁テープどころかセロハンテープで応急処置がされた露出配線だ。ひょっとすると、配線不備の箇所がショートしてヒューズが飛んだのかもしれない。ヒューズ交換ならわたしでも役に立てる。
短くなったタバコを竹筒の灰皿でもみ消し、ベッドから下りた。
おでこの高さしかない低い入り口の重い2枚扉を押し開けて、テラスに出た。
外は恐ろしいほどの暗闇だった。
闇を支配する得体の知れない物がいるかもしれない、と想像したら背中に寒気が走った。思わず背筋を伸ばして深呼吸をした。
見上げると、上弦の月から無数のダイヤモンドがこぼれ落ちたように、夜空いっぱいに星が輝いていた。銀河がシルクのショールのように天を流れ、南十字星の4つの光りが、首をかしげるように見下ろしている。日本にいた時、こんなふうにして星を観たことがあっただろうか。停電のおかげで、思わぬ体験ができた。
村中が停電のようだ。それなら復帰を待つしかない。
日本の停電なら、前もって予告をするだろう。ここでは、停電は毎日のようにある。慌てたり騒ぐことでもない。原因は、強風によって木や竹が倒れ細い電線を切ってしまうからだ。
暗闇の中からロジャーと奥さん、それに子供たちの賑やかな声がする。長い停電に業を煮やしたのか、灯油ランプに灯りがひとつふたつと灯されていく。
オレンジ色のランプの灯りが、スーッと横に動いていった。
子供たちが、各部屋にランプを配ってまわっているようだ。わたしのところには、お手伝いのワヤンが小さなランプとローソクを2本持って来た。
ローソクは日本の停電で使ったことはあるが、灯油ランプの経験はない。
テラスの椅子に座って、ランプの明かりを調節するためのつまみを回し、芯を上下してみた。炎が大きくなると、ススがほやを黒くした。芯を下ろし、ほやの中央に炎を持っていくと、明かりが心温まる色に落ち着いた。
屋敷のあちらこちらで、ランプとローソクの炎が優しく揺れている。
わたしは、ランプを部屋の柱の釘にぶら下げた。部屋が、ほのかに明るくなる。ローソクは使わなくても大丈夫だ。
シンバルの激しい音が、遠くから風に乗って聴こえてくる。どこかで、儀礼がおこなわれているのだろう。

電気の明かりが点いた。
どこからともなく、拍手が聞こえた。電気が点くことが、こんなにありがたいことなのかと、あらためて痛感する。幸せを感じるのは、案外こんな単純なことかもしれない。
必要以上の明るさはいらない。不夜城のように明るいのはご免だ。すでに、ウブドの暗さが好きになっている。
バリが明るくなり過ぎてしまうと、神々の居場所がなくなってしまうような気がする。
夜道には懐中電灯が必需品だが、そんなことはなんの苦労でもない。
これからは、明かりのありがたさを考え、理解し、エネルギーの問題を考える時期かもしれない。
上空で爆音がする。深夜、日本に向けて飛んでいく飛行機だろう。
文明に取り残されてしまったようなこの村が、わたしには別天地となりかけている。無人島や未開の地なら飛行機に向かって「助けてくれ」と叫ぶところだが、今は「われわれを静かにしておいておくれ」と言いたい気分だ。


                         

さあ、インドネシア語の勉強を再開しよう。
部屋の天井には、毎晩寝る前に暗唱するため、数字にインドネシア語の読み方が書かれた画用紙が貼ってある。サトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッ、リマ、ウナム、トゥジュ、ドゥラパン、スンビラン、スプル。やっと10までの数字が言えるようになったが、11からはまだ覚えられない。大きな数字になったらまったくダメで、買い物にも困る。今のところ値段交渉は筆談だ。
それでも、挨拶だけはインドネシア語でできるようになった。
「スラマッ・パギ=お早うございます」「スラマッ・シアン=こんにちは」「スラマッ・ソレ=こんにちは」「スラマッ・マラム=今晩は」「スラマッ・ティドゥール=おやすみなさい」。こんにちはに2通りあるが、今のところうまく使い分けができていない。
スラマッは、感謝の意味を表す言葉だが、英語のGOODのようなニュアンスも含まれている。
村々の入り口には「スラマッ・ダタン=ようこそいらっしゃいました」「スラマッ・ジャラン=お気をつけておかえりください」と感謝の看板が立っている。
わたしは「スラマッ」という言葉が好きで、「スラマッ・マカン=楽しいお食事を」「スラマッ・サクセス=成功を祈る」などと多様している。
挨拶といえば、日本人は「いい天気ですね」「暑くなりましたね」「雨が降りそうですね」「寒くなりましたね」などと、天気の話をすることが多い。わたしのまわりのバリ人は「スダ・マカン?=ご飯食べた?」と聞いてくる。これは、ご飯を食べられなかった貧しい時代があったからだと聞いている。単に挨拶だから、真に受けて「まだ、食べてません=ブルム・マカン」と答えると相手が困ってしまうので、食べていなくても「スダ(・マカンは省略)=食べて来ました」と答えるのが常識のようだ。
一週間の名称は、由美さんから歌になっているのを教えてもらって、覚えた。
♪スニン スラサ♪ ♪ラブー カミス♪ ♪ジュマット サブトゥー ミング♪ ♪イトゥ ナマナマ ハリ♪  リズムがついているので覚えやすい。インドネシアで最初に覚えた歌が、これだと思う。
♪ノーナ マニス シアパ ヤン プーニャ♪で始まる「可愛いあの子は誰の物」を覚えたのは、いつだったか。


語学力の貧困なわたしは、今でもメニューにある料理が理解できない。
「語学は苦手だ」と言っていては、いつまでたっても、上達しない。
一日ひとつの単語でも覚えれば、1年で365語だ。出掛ける前に、今日使う言葉を一つづつ覚えていこう。今日はこの言葉を使おうと意気込んで店や食堂へ入るのだが、いざその場になると臆してしまう。小さなメモ用紙に、書いて行くこともあったが、やはり臆して見もしない。
先日、ポータブルラジオを買った。
内容はまったくわからないが、BGMとして流しておけば、耳慣れていくうち、いつのまにかインドネシア語を覚えているだろう。 勉強せずに自然に覚えようという怠けテクニックが、文明の利器を買わせてしまった。こうして、なし崩しに買い物をしていくことのないように、と心に誓ったのであります。
バリ人は、バリ人同士の時はバリ語を使っていて、ほかの島のインドネシア人や初対面のバリ人にはインドネシア語で対応している。そういう意味では、バリ人にとってはインドネシア語は、第二外国語のようなものだろうか。バリ語が話せれば彼らは喜んでくれるだろうが、バリ語にはカースト別に数種類あると聞いていて、かえって失礼になることも考えられ、初めから覚えるつもりがない。
毎日、耳に飛び込んでくるインドネシア語を聞いているうちに、少しづつだが理解できるようになってきている。それでも、話すことはできないが。言葉ができないぶんだけ勘に頼り、良いほうにしか考えないので、結果的に良い方向にいっているのかもしれない。このほうがいいのかもしれないと、都合の良いことを考えている。


つづく




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