「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■8月・14)ウブドの花嫁


水浴びを終え、久しぶりに屋台街で夕食をしようとロジャースを出た。
変則十字路の前で、突然のスコールに見舞われた。
傘を持ってきていない。少しの雨なら濡れたまま歩いていても平気だが、この大雨ではびしょ濡れになってしまうだろう。こういう時は、雨宿りに限る。
二重屋根の建物の軒先に入った。
眼の前にあるムティアラ・レストランの電灯が点っているが、お客はひとりもいない。店先に立っていた店員がわたしを見つけて手招きをした。
今夜の夕食は、屋台と決めている。わたしは、大きく手をまわして屋台街の方角に指さした。
スコールが小降りになってきた。
1メートルもあろうかと思われる大きな葉っぱを即席の傘にして、老人がひとり、市場の方に向かって歩いて行く。わたしも足早に屋台街へ向かった。
泥水のたまった掘り割りを飛び越えようとすると、溝の縁の足場が崩れ、泥の中へ足を突っ込んでしまった。 わたしはすでに経験ずみで、はきものはゴムぞうりを愛用している。泥沼に足を踏み入れると、ゴムぞうりが吸いついたように、ぬかるみにもっていかれ取り出せなくなる。
泥んこになった足を、水たまりですすぐと、ミユキの屋台へ真っ直ぐ向かった。

屋台には、ミユキと、その隣に日本人女性客がひとり座っていた。
わたしはナシゴレンを注文すると、ミユキにスプーン曲げを見せてくれとリクエストした。
数年前の日本で、スプーン曲げの超能力少年がテレビで紹介されたことがあった。超常現象を起こす人物に、スポットが当たった時代だ。結局は、インチキだったらしい。
先日、ミユキは「わたし、スプーンを曲げられるのよ」と、いとも簡単に言いのけた。きっとミユキのスプーン曲げもインチキだろう。わたしはそういうものを信じないたちだ。
ところが先日、眼の前でスプーンが曲がるのを見せられた。わたしは半信半疑で、今回はなんとしてもインチキを見破ってやろうと意気込んでいる。
「店の子たちが、スプーンが使えなくなってもったいないから止めてくれと言うの。弁償してくれるなら、曲げて見せてもいいけど」
ミユキは、左手に持っているスプーンをもてあそびながら、そう言った。
「もったいぶらずに、やってみせろよ!」
わたしは、ミユキを挑発してスプーン曲げを実演させようと考えていた。
「あなたも同じようにやってごらん」
わたしの手元にスプーンが1本飛んできた。 ミユキの隣に座っていた女性には、やさしく手渡した。
ミユキが右手の人差し指で、スプーンの柄をゆっくりとこすりはじめた。
わたしは真剣勝負でもするように、ミユキの動きを観察した。眼、耳、身体のすべてを集中してイカサマを見破ろうと身構えた。
「触ってごらん」
2分もたたないうちに、ミユキがスプーンをわたしの胸の前に差し出した。
今までミユキがこすっていた柄の部分をさわってみた。柄が熱くなっている。わたしも真似てみるものの、スプーンは暖かくはなっているがミユキのように熱くはない。不思議マークが浮かんだ。わたしはあくまでも疑っている。
もう少し力強くこすれば、わたしのスプーンも熱くなるのかもしれない。
ミユキがわたしからスプーンを取り上げると、スプーンの両端をねじった。スプーンは螺旋を作って飴のように曲がった。
「こんなことは、バリ人なら誰でもできるのよ。ほら従業員が『また、しょうもないことをして』とでも言いたそうな顔をして見ているでしょう」
ミユキの隣に座っていた女性が「こんなことはじめて」と驚いている。彼女の手には、首のあたりから90度に曲がったスプーンが握られていた。
わたしは、螺旋状に曲った食べにくいスプーンで、ナシゴレンを食べはじめた。
「スプーンはもとにもどらないので、伊藤さん、弁償してね」
ナシ・ゴレンをいっぱいふくんだ口で返事が出来ず、わたしは首を縦に振った。
こんなことができてしまうのは、バリのエネルギーのせいだろう。ウブドなら、こんなことが出来ても何の不思議もない。超能力少年のスプーン曲げも、本当だったのではないかと、今は、そう思える。


                      

ビニール・シートの屋根に落ちる雨音が大きくなった。スコールの襲来だ。
雨は、屋台の中に容赦なく降りこんでくる。足もとは、みるみるうちに泥の海と化していった。
わたしは、椰子の樹液から作られるアラックと呼ばれる酒をなめながら、それを眺めている。
ライブハウスを営業している期間、1日1本のペースでスコッチを空けていた。ベル・スコッチが強くない酒なのか、わたしがアルコールに強くなっていたのかわからない。肝臓を悪くし、全身のジンマシンでのたうち廻った。治療法は、わたしの大嫌いなトマトジュースを毎日一缶飲む事だった。ウブドの来てからアルコールは,控えている。
大雨の中を、女性と相合い傘のカルタがミユキの屋台に向かってやってくる。
カルタの新しい彼女だな。カルタには、日本女性を瞬時にして虜にしてしまう甘いマスクと、安心させる笑顔を持ち合わせている。
ウブドでもっとも日本語の旨いカルタは、村人にワヤン・ジャパンと呼ばれている。なんでも、昔、日本人の彼女がいたそうだ。
カルタと彼女がわたしの正面の長椅子に座った。傘をさしていても2人はびっしょりと濡れていた。彼女の肩をカルタはハンケチで拭いてあげている。優しい気づかいも彼の魅力で、女性にもてている要因だろう。
「紹介します。○○子さんです」
見覚えのある顔だった。
失礼な話だが、思考しているうちに紹介された名前を忘れてしまった。物覚えの悪いわたしは、よく似た名前の多い日本人女性の名前は、よほど長く付き合わない限り覚えたためしがない。
バリの正装を着ているので、すぐには気がつかなかったが、日本からの飛行機で隣に座った女性に間違いない。あの時、ウブドの花嫁になると言っていた。まさかその相手が、カルタということはないだろうな。カルタには、奥さんと一男一女の可愛い子供がいる。
カルタとは、前回のバリ旅行でウブドに立ち寄った時に知り合ったそうだ。カルタとは恋愛関係にならなくて、同じ時に知り合った、もうひとりのバリ人と恋に落ちた。
彼氏とのコミュニケーションは、片言の英語だったそうだ。相手がカルタでなくて安心したが、それにしても、3ヶ月前に知り合っていきなり結婚とは驚いた。
「結婚式の日取りを決めに、近々、わたしの両親がバリに来ます」
「それはよかったですね。お幸せになってください」
わたしは整理のつかない心もちから、月並みの言葉しかかけることができなかった。
雨音が一段と激しくなり、わたしの言葉がよく聞き取れなかったのか、彼女はカルタと話しはじめてしまった。
わたしは、アラックを飲み干した。
ビニール・シートの屋根から雨が漏り、テーブルの上に滴り落ちてくる。それぞれが、自分の濡れて困る物だけをよける。誰も、驚かないし騒がない。
ミユキがテーブルの端から身を乗り出して、彼女に訊いた。
「彼氏の家には行ったの?家族は紹介されたの?」
ミユキも恋人のことでは苦労している。
「いえ、彼がそのうちにと、言うので、まだ1度も訪ねていません」
「そう、それが危ないのよ。取りあえず家におしかけて、まず、家族を紹介してもらいなさいよ」
彼女は少し不愉快そうな表情になった。
結婚が決まっているのに家にも招待されていない、家族にも紹介されていないのは、おかしな話じゃないか。
そんなことも彼女は気がつかないのだろうか。使い古した言葉だか「恋は盲目」とは、このことだ。
いざ結婚となって、実は、彼には奥さんがいたなんて話を聞いたことがある。
最近まで、バリ人の男性は何人も奥さんをもらうことができた。今でも、お互いが認めればいいと思っているところが見受けられる。
それにいちいち「僕には奥さんがいます」なんて自己紹介する野暮な男もいないだろう。その結果「わたしは、だまされた」と言う女性の声を聞く。
ミユキは、本心から彼女のことを心配しているようだ。
「ザーザーッ」という音とともに、屋根に溜まった雨水が、バケツをひっくり返したように落ちてきた。
あとから聞いた噂話では、例の彼には奥さんも子供もいたそうだ。かなりのショックを受けて日本に帰った彼女は、しばらく精神科の治療を受けたそうだ。


つづく



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