「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■7月・12) モンキーフォレスト通り


今日は、ウブドでもっとも賑やかだと言われているモンキーフォレスト通りを歩いてみようと思っている。
部屋の荷物を少し整理して、ロジャースを出る。
変則十字路の前に立った。

ウブドの十字路1_1

街路樹に隠れて「JL: HUTAN KERA」の表示板が見える。
モンキー・フォレスト通りの正式名だ。
通りの突き当たりに、野生の猿が棲息する森があることから、通称モンキー・フォレスト通りと呼ばれている。
ウブドの数少ない、観光名所のひとつだ。
狭い間口の店が並ぶ、その1軒の雑貨屋で懐中電灯と洗顔石鹸と粉の洗剤、それに竹製のゴミ箱を2つ買った。
イブから借りた固形の洗濯石鹸と同じ物も一つ買った。
借りた物は、返さなくては。
洗剤はできれば無公害なものを使いたいが、包装紙のどこにも成分が書かれていない。
しかたなく適当な物を買った。
ゴミ箱は、それぞれ燃える物と燃えないゴミに分別して捨てるつもりでいる。
料理をしないので生ゴミは出ないだろうが、長期滞在になると何かとゴミが出るものだ。
環境問題に特別関心があるわけではないが、汚水がどこへ流れているのか気にかかり、ロジャーに訊いてみたことがある。
汚水は、トイレの地下に縦、横、高さ2メートルほどの穴が掘ってあって、そこへ流しているそうだ。
自然の浄化漕というわけだが、それで良いのかどうかは疑問だ。
ツーリストが環境を汚染し破壊することは、ありがちなことだ。
にわか自然愛好家と言われようが、できるだけ環境に優しく滞在しようと心掛けている。
道路はアスファルト舗装されているものの、ところどころめくれて穴があいている。
アスファルトは雨に弱い素材だ。きっと雨期の大雨が原因だろう。
路肩は、土が掘られただけの側溝で、大雨が降り続けば崩れてしまいそうに頼りない。
高い建物が見あたらない。
ほとんどが平屋だ。
少し離れれば、建物の背景に緑が繁茂する森が見渡せる。
高層ビルの建ち並ぶ圧迫感のあるコンクリートの街からやってくると、この人間の目線で青空まで見える開放感はたまらなくいい気分だ。
バリには、椰子より高い建物を建てるのを禁止する法律があるそうだ。
森には神々が宿ると言われている。
そんなことから、樹木より高い建物を建てるのは神に失礼だとの考えているようだ。

5分ほど歩くと、右に折れる道がある。
T字路の西北角は、2面を壁で囲い四隅の柱に屋根がのったただけの小さな建物だ。
覗くと、手足を縛られた豚が10数頭床にころがっていた。
100キロ以上はありそうな大きな豚だ。
豚たちは、助けを求めるかのようにブーブーと悲鳴をあげている。
この豚たちは、宗教儀礼の生け贄なんだろう。
バリ人は動物を殺生して食べることで、自分たちが生きていることを知っている。
殺すときにもお祈りをするし、この肉が自分の身体に入りエネルギーになることにも感謝する。
自然のサイクルでバランスを考え、自分もそのひとつなんだと自覚しているようだ。
すでに屠殺され命つきている豚の隣では、足の踏み場がないほどおおぜいの青年たちが豚の解体作業をしている。
共同作業は、バリ独特の相互扶助の慣習だ。
ウダンと呼ばれる鉢巻きに腰布を巻いた正装をしているところをみると、この相互扶助は、宗教儀礼に関係するものだということがわかる。
この村は、毎日のように宗教儀礼があると聞いている。
内臓と肉の塊とが区別されてゆく。
床一面が血の海だ。
殺伐といえば、殺伐とした風景だが、残酷に見えないのは、彼らがあっけらかんとした表情で作業に専念しているからだろうか。
1度に50本は焼けると思われる長い長い串焼き器の上で、つくね状の串が香ばしい匂いを漂わせている。
炭は椰子殻だ。これならさぞかし美味しく焼けることだろう。
もの欲しそうな顔でジーッと見ているわたしに「ひとつあげる」とは言われなかった。
豚たちの冥福を祈って、その場をあとにした。
カセット・ショップのスピーカーから、笛の音が流れてくる。
店の前で立ち止まり、のんびりムードの笛の音に耳を傾けた。
カセット・ショップの名前は「パンダワ」。
そして、天を仰いだ。見上げた空には、わきあがった入道雲が左に流れていくところだった。
雲は、毛むくじゃらの白い猿が、横になって頬杖ついているように見える。
孫悟空がきんとん雲にのって移動するなら、この白猿は寝そべったまま、空を飛ぶ。
そう言えば、インド叙事詩「ラマヤナ物語」に登場するハヌマンに似ている。
ハヌマンは、ヒンドゥー教の神のひとつで、神通力をそなえた猿の神だ。
雲を鑑賞するなんていう趣味が、わたしにあったなんて驚きだ。
この村は、そんなキザなアクションが自然にできてしまうところだ。
すれ違う村人たちの足取りが、雲の上を歩くようにゆっくりとしている。
走っている人や急ぎ足の人を見かけない。
都会で生活していると、時間に追われてせかせかと歩いてしまう。
せっかちな国から来た者にとっては、こんな人の動きも驚きのひとつだ。
時間の感覚を失ってしまうほど、ゆったりとした空気に包まれている。
桜の花が舞い散るような、風船が空を漂うような、時間の流れが心地よい。
わたしも、のんびりと歩くことにした。
歩調がのんびりになると、呼吸もゆっくりになり、わずかな風やほのかな花の香りを感じ取ることもできる。
こんなリズムの生活がしたかったのだ、と身体が喜んでいる。

突然、耳をつんざく爆音がモンキー・フォレスト通りの平和な空間を切り裂いた。
黄色にカラーリングされたオフロード・バイクに、この村に不似合いな男女がまたがっている。
男性はドレット・ヘアーに、赤・青・黄色が複雑に混ざった派手なシャツを着ている。
女性は露出度の高い挑発的なファッションの日本人だ。
クタあたりのリゾート地からのちん入者だろう。バイクは2〜3度、大きな音で空ぶかしすると猿の森の方角へ疾走していった。
通りに、もとののんびりとした空気が戻った。
わたしは、このライダーを「バリバリ小僧」と命名した。


                      

ウブドで一番賑やかな通りだと言っても、観光客向けのレストラン、マネーチェンジャー、みやげ物屋が数軒とカセット店が一軒だけだ。
それ以外は、地元の人たちの雑貨屋と食堂が点々とあるだけ。
民家の門塀が目立ち、そこはホーム・ステイになっているようだ。
花屋、靴屋、美容院、床屋など、都会から来た者にとって、ないものの方が多いと気づく。
どこからともなく、お香の甘い匂いが漂ってきた。
家並みが途切れると、左手に広い空き地があった。
背の高い草がのび放題の原っぱだ。
右側は、小学校かと思われる校舎だ。
バレーボール・コートひとつできない猫の額ほどの校庭を、平屋の校舎がL字に囲んでいる。
ウブドの変則十字路からこの地点まで、およそ300メートルほどだ。
校門の前で大声がした。
見ると、白装束の老人が声を荒げている。
眼に見えない何者かに向かって怒っている。
どうやら老人は気がふれているようだ。
学生たちは、毎度のことで慣れているのか、老人を無視するように遠巻きにしている。
わたしは老人を刺激しないように自然体を装って、前を通り過ぎようとした。
ところが、人通りの少ない狭い道路では、どうしても老人の眼に止まってしまう。
案の定、老人はわたしを見つけ、高々と右手をあげてきた。
インディアンがする挨拶のようだ。
つられるように、わたしも右手をあげた。
老人はニッコリしたと思うと、次に瞬間には長い舌を出していた。
ひょうきんなオヤジだ。
わたしは右手をさし出し握手を求めた。
老人が、わたしの右手を包むようにして両手で握手をしてきた。
「ハロー」。
老人の口からいきなり英語が飛び出した。
老人の手は、脂気のないカサカサしたものだった。
こんなふうにして知り合った白装束の老人とわたしは、このあと、道ですれ違うたびに右手をあげ舌を出す挨拶を交わすようになった。
この村の人たちは、白装束の老人のことを話す時、人差し指を上に向けて額に当て時計の針が廻るように動かせ角度をつける。
10度なら少し、45度なら強度のオラン・ギラ(気がふれている人)ということのようだ。
老人は45度を越えていた。
老人は僧侶になろうとして、難しい古文書を勉強しているうちに頭が変になってしまったと聞いている。
気のふれたと思われるバリ人を、これまで何人も見ている。
これは、近親結婚で血が濃いからだろうか。
いつも凧揚げをしているプンゴセカン村の“凧揚げおじさん”は、オランダ統治時代には、通訳の仕事をしていたという。
壊れたギター片手に、ビートルズの歌を曖昧な英語で唄う。
この人も、勉強のし過ぎで頭のネジが狂ったのだろうか。
ウブド大通りで雑貨屋を営むおやじは、大声で独立戦争時代のことをアジっている。
前を通るのが怖いくらい興奮して喋っている。
ひとりごとをつぶやきながら、裸足で徘徊する青年。
男性の一物をもてあそびながら、遠くテガララン村からウブドに歩いてくる男性。
村人は笑うばかりだが、わたしは、見てはいけないものとして俯いて通り過ぎる。
プリアタン村では、屋敷前で虚ろな眼をして長い髪をとかしている女性がいた。
ほかにもいるが、これ以上は、バリ人の名誉のため控えておいたほうがよさそうだ。
日本でなら、即、精神病院に入院という人々が、ウブドでは普通に日常生活を送っている。
バングリ県にバリ唯一の精神病院があるが、そのほとんどがストレスが原因で入院しているそうだ。
バリ人にも、ストレスがあることに驚いた。
「バングリにつれて行かれるぞ」というのは、おかしな行動をする人物に対してバリ人がたしなめる言葉だ。

学校の先はなだらかな下り坂で、左右には田んぼが広がっている。
道はしっかり舗装されていないのか、やたらと埃っぽい。
田んぼの向こうには、椰子の並木が見える。
椰子の葉のシルエットが櫛のような明確な陰影をあらわし、南国の美しい夕暮れの演出に一役かっている。椰子並木の足下は、たいてい渓谷になっていて、下には豊かに水をたたえた川が流れている。
子どもの頃、猿に襲われたことのあるわたしは、猿が苦手だ。
今日は勇気を出して、猿の森に入ってみることにした。
森に入ると、そこは野生の猿が生息するにふさわしいほどの原生林だった。
さっそく、苔とツタのからまる巨樹から猿が飛び降り歓迎してくれた。
わたしは、あまり歓迎されたくない。
猿は人間慣れしていて、ツーリストからバナナを手渡しでもらっている。
ツーリストの耳にぶら下がっているイヤリングや眼鏡を引ったくっていく、悪癖のある猿もいると聞く。
日本の「猫に小判」「豚に真珠」と同じ意味で、インドネシアに「猿に花」「猿に鏡」という言葉があるらしいが、真っ赤なハイビスカスの花を耳に挿した猿も粋だし、鏡を覗いて髪の手入れをする猿も可愛いではないか。
「猿にイヤリング」これも案外似合うかも知れない。
巨樹は、バリ語でビンギン、インドネシア語ではブリンギンと呼ばれている。
菩提樹の一種でヒンドゥー教の聖木だ。猿の森の巨樹は、樹齢500年と言われている。
横に伸びた枝から、気根が幾筋も地面を目指して垂れ下がる。
地面に到達した気根は、やがて、成長して幹のように太くなってゆく。
枝がたわむほどの豊富な葉は、太陽の陽射しを遮ぎり、ビンギンの樹の下は昼でも薄暗い。
森を吹き抜ける風に、枝々は葉の重さに耐えかねるように揺れる。
樹には精霊が宿るといわれるが、揺れる姿は悪霊が手招きしているとしか思えないほど、わたしには無気味に思えた。
ビンギンの向こう側は、小さな渓谷になっていた。
垂れさがった太い気根を利用して、渓谷に吊り橋が架かっている。
足もとが隙間だらけの吊り橋を渡ると、右手10メートルほどのところに苔むした祠がある。
祠と川の間にある細い土道を奥に進んでゆくと、岩場が見えた。沐浴場だ。
浸食された岩に足をとられそうになりながら、沐浴場に下りる。
時間が早いのか、今は誰もいない。
夕方になると村人たちで賑わうことだろう。
岩の間から流れ落ちる湧き水は、冷たかった。
眼の前を、青い鳥が渓谷を崖に沿って滑空して行った。
沐浴場を離れ、猿の出現に緊張しながら奥へ入った。
深閑とした森の奥に、木々の緑と同化するように苔むした寺院が姿を現した。
どれくらいの年月、こうして佇んでいるんだろう。
浮き世から隔離されたかのような空間は、瞑想的だ。
計りしれない過去の空間にまぎれ込んだような、そんな錯覚に陥った。
姿勢を正し背筋を伸ばし、大きな深呼吸をして、胸いっぱいに空気を吸いこんだ。
心が洗われるようだ。
緊張が少しずつ解けていく。
濃い緑の木々に覆われた自然に抱かれて、癒されていく。
何かの力に導かれるようにして寺院の前の階段にひざまずき、両手を顔の前で合わした。
わたしは「今回の旅が、幸運に恵まれますように」と祈っていた。


                      

7月25日は、わたしの43回目の誕生日だった。
カルタが、わたしの誕生日を祝おうと、屋敷に招待してくれた。
屋敷はカルタの奥さんの実家で、スゥエタ通りにある。
カルタは今、ここに居候しているようだった。
玄関を入ってすぐ右手のテラスのある建物に、カルタの家族は住んでいる。
奥には、きっと屋敷寺や家長の住む建物や儀礼のためのあずまやが、並んでいることだろう。
バリの屋敷は、日本のように一戸建ての中にいくつも部屋があるのではなく、テラスのついた小さな家屋がいくつも点在しているのが普通のようだ。
それは、慣習にのっとって配置されていて、どこも同じレイアウトだと聞いている。
ロジャーと玄関が反対だが、屋敷寺は聖なる方角(ウブドの場合、北東にあたる)を向いている。
不浄なトイレは、屋敷寺と反対の方角にあるという。
日本にいても誕生日を祝った事がないわたしが、遠くバリ島で現地の人々に祝ってもらえるとは、旅行者冥利につきるというものだ。
ミユキの屋台の常連も数人駆けつけてくれた。
豚の丸焼きをメインにしたバリ料理のごちそうが振る舞われ、カルタの家族の舞踊が披露された。

誕生会

なんと、王宮の定期公演でラマヤナ舞踊劇でシータ姫を演じてわたしを魅了した女性は、カルタの奥さんの妹だった。
名前は、愛称で“グンマニ”。
バリ舞踊ファンの男性には、マドンナ的存在だ。
彼女は、得意のタルナジャヤを演じてくれた。
縁が取り持つとは、こういうことを言うのだろう。
わたしは強運の男かも知れない。
バリスを披露してくれたのは、グンマニの恋人だった。
ぬか喜びに終わってしまったが、カルタのおかげで近しい間柄になったことは確かだ。
父親グンカには、ふたりの奥さんがいて、そのひとりの娘がカルタの奥さんで、グンマニとは腹違いの姉妹になる。
バリでは、複数の奥さんを持つことが許されていた。ふたりの奥さんは、同じ屋敷内で生活している。
グンカ(Anak Agung Gede Raka Cameng)は、日本のパーカッショニスト・YAS-KAZ氏にバリの太鼓(クンダン)を指導した人だと伝え聞いている。王宮のお抱え歌舞団「サダ・ブダヤ」のクンダン奏者だ。
バリは男社会だ。
跡継ぎは男性で、男子が生まれない妻は離婚されても逆らえないし、ほかに妻をめとっても文句を言えないという。
とにかく男子を産まないことには、第一夫人も格下げになってしまうのである。
カルタの奥さんは、どんな待遇の家族なのだろう。
第一夫人の娘だといいけどと思うのは、外部から見た偏見だろうか。
昔は、日本でも「3年子無きは去れって」と言われていたようだ。
これは男児でなくても子供が生まれれば良しだから、バリよりはゆるい風習だ。
グンマニは20歳のはずだが、まだ高校に通っている。
幾度か海外公演に舞踊家として参加して忙しく、留年したのだろう。
高校の制服姿で友人と帰宅するグンマニの姿をロジャースの前で見たことがある。
ふたりとも、艶っぽい高校生だ。
制服姿を見られるのが恥ずかしいのか、苦笑いで通り過ぎていった。
この時の友人とは、スマララティのリーダー・アノムの妹のオカちゃんだった。
カルタの娘・カデッも友達と歓迎の踊りを踊ってくれた。
豚の丸焼きも美味しかった。
思いがけない異国での誕生会に、感動と感謝!


つづく



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