「極楽通信・UBUD」



36「メッキされるウブド」





ついこの前まで(2007年)モンキーフォレスト通りに、猫の額ほどの田んぼが2ヶ所残っていた。
その1つ、アパ?の北隣、アシタバの前(写真左)の田んぼが、最近、埋め立てられて建築工事がはじまった。
これで残すは、サッカー場前の1ヶ所(写真右)だけとなった。


空き地 空き地


1990年、サッカー場を越えたあたりからモンキーフォレストまでは、ライスフィールドが広がる中に、建物がポツポツとある風景だった。
年々、建物は増え・・いつのまにか、田んぼがまばらとなり・・今では、1ヶ所を残すのみとなった。
これが姿を消せば、サッカー場を除いて、モンキーフォレスト通りの両側は、すべて建物で埋め尽くされる。
今のウブドの目抜き通りは、赤、黄、橙、などカラフルな色が眼につくようになった。
これは都会になったということだろうか。
だからといって、嘆き悲しんでいるわけではない。


久しぶりにウブドを訪れたツーリストは、ウブドの変わりように驚くだろう。
年とともに都会化が進み、3年もウブドを離れていると、その変貌には驚愕するはずだ。
当時を思い起こすのも難しいほど、かつての風景は影が薄くなった。
まさか、こんなに変わるとは思ってもみなかっただろう。
古い物すべてをいとおしみ残そうとすることが正しいとばかりは言えない。
それぞれバリに魅かれる対象は違うと思うが、それぞれ、一目惚れのようにウブドを好きになる。
ドキドキ、ウキウキ。
土地を好きになるのは、恋人を見つけた時に似ている。
あばたもえくぼ。すべてが好きになってしまう。
土地もそこに生活する人がいれば生き物と同じだ。
土地でも恋人でも、時間が経てば、何かが変わる。
それが自然でもあり、生きている証拠でもある。
その変化が、気に入らなかったら別れるしかない。
お互い、良い方向に変化することはあってもよいと思う。
飽きてしまった。こんなはずではなかった。
そんな感覚は、個人の問題だ。
はじめて訪れたツーリストからは「イメージしていたのと大違いだ」こんな声をよく聞く。
ツーリストは自分の住む国との、ギャップを楽しんでいるところもある。
ツーリストの思い入れは、その土地の人にとっては迷惑なものかもしれない。
村人にとって、道路の整備や建物が耐久性の強いコンクリートに変わることは、たぶん歓迎される近代化だろう。
地元の人は電化されて便利で喜んでいるだろう。
ウブドがツーリストのための民族博物館とでも思っているのだろうか。
ツーリストというのは常にかってなものである。


ヴォルター・スピースを中心とした外国人画家たちが滞在していた1920年代が、芸術の村としてウブドが誕生した時代だった。
長い成長期を経て今は、バリ芸能が集中するコンプレックスのような村となった。
私がウブドに訪れた当初は、バリ人の経営する店がほとんどだった。
それが、数年するうち、私を含めた外国人長期滞在者や、バリ人以外のインドネシア人の経営する店が増えていった。
24時間営業のコンビニエンス・ストアーが2件開店(2003年10月)したほどだから、
もう、田舎の素朴な村とは違う。
スゥエタ通りにあるレストラン「テラッゾ」のでかい黄色いネオン看板は、ウブドの俗化の兆候を象徴しているようだ。
俗化の根源は、ウブドの観光地としての人気だろう。
私もその都会化に加担している一人かもしれない。
人間と同様、注目されれば村もおのずと変わっていくものだ。


モダンな店が増えた。
ホテル、レストラン、ブティックは、地元の人が利用することは少ない。
ツーリストを対象とした店が増え、確かに、門や塀、家寺が見えなくなった。
それは、道沿いの土地が開発されていくからだ。
が、それは、表面だけのことだ。
裏道に入ると、宗教、芸能、文化が根強く営まれ、ウブドらしい風情は未だに垣間見ることができる。
慣習や生活はまったく変わっていないのだ。
それは心配いらない。
共同体が健在である限り、本質はそう変わるものではない。
日本のように激変することはないだろう。
わたしはそれを、ウブドがメッキされた状態だ、と形容したい。
無粋な言葉を使うことを許してほしい。
本来の素材を覆い隠してメッキされる。
観光地というメッキにおおわれた状態だ。
単に表面が変わっただけの、メッキされたウブドをツーリストは見ているだけのことだ。
このメッキは「メッキがはがれる」という時にも使われる。
しかし、ここで言うメッキは、決して中身の悪いのを隠すために表面だけを飾るという意味ではない。
これらのメッキは、住民が自ら飾り付けるのではなく、外部の人間、いわゆる外国人長期滞在者やジャワ人などの、バリ人にとってはよそ者といわれる人種によってほどこされるのだ。
これは、観光地という磁力によって付着していくメッキだ。


世界中、どこへいっても同じデザインの商店設計になってきているように感じる。
グローバリズムのもたらす効率性は、ある意味で素晴らしいことだ。
しかし、画一化を進めてはいけない。
各民族に生まれ美しく花開いた宗教、芸能、文化、慣習などは、効率よりも遙かに価値が高い。
これからは、ローカリズムの時代。各民族に生まれた宗教、芸能、文化、慣習などを、世界中の人々が互いに尊重しあい、それを育てていく。
どこにもある、画一化された街ではなく、ウブド独特の個性あるメッキがほどこされていくことを期待したい。
難しい問題だが、自治体がデザインのチェックをする機関を持つべきだと思う。
そんなツーリストの心配もよそに、バリがバリであり続ける限り、ウブドはウブドらしく変身していくだろう。




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