「極楽通信・UBUD」



30「ベースボール・イン・バリ」





今年(2006年)に入って、「カフェ・アンカサ」のオーナー・コテツちゃんに誘われて、バリ日本人会の野球チームに参加させてもらっている。チーム名はJ,z。JはJapanのJではなく、バリ南部の地名JimbaranのJらしい。
メンバーのほとんどがバリ南部(ヌサドゥア、ジンバラン、クタ、サヌール)の人たちで、ウブドからはコテツちゃん(37才)とリタイヤ組の吉田さん(69才)と私(58才)の3人だけだ。全員が野球大好き青年たち(全員が若いわけではないので、心意気が青年)で、ユニホーム姿も勇ましい。
ウブド在住の日本人は、バリ人、インドネシア人の男性と結婚した日本人女性が大半をしめ、若い男性が少なく、最近はリタイヤ組が増えている。バリ南部は、海外で意欲的に働こうとする青年が多いようだ。皆、それぞれが大きな志を抱いてバリに滞在している人達だ。

毎週日曜日にクタにある軍隊のサッカー・グランドで、朝9時30分から練習をする。グランドに、手作りの小さなバックネットを張り、ベースを並べる。グランドには雑草が生え、ラインは引けない。もちろん、ピッチャー・マウンドもない。
イレギュラー・バウンドの続出。そんな悪コンディションにもめげず、彼らは、好きな野球が出来ることに満足しているようだ。私自信も、スポーツは好きだが、得意なほうではない。どちらかと言えば、何でも器用にこなせるだけの一見スポーツマン・タイプだが。
私は90年にバリに来た。その時、私の荷物には、グローブが4つと軟式ボールが2つ入っていた。知り合ったばかりのバリ人にキャッチボールをせがみ、付き合ってもらったことがあった。その時の彼らは、太陽は暑いし、グローブも蒸すと言って嫌がり、それきりで終わってしまった。そんなことで、バリで野球をするのをあきらめていた。
バリ滞在16年目にして、念願叶ってバリで野球ができることになった。なんと20数年ぶの野球だ。しかし、時は遅く、58才の老体は、まったく身体が言うことを利いてくれなくなっていた。今は、メンバーに迷惑を掛けないように参加するのに精一杯だ。メンバーが皆、優しく、年寄りをいたわってくれるので嬉しくプレーをしている。

私の野球歴は小学校4年生の頃、地区対抗試合のために急遽集められたメンバーのひとりだった。それもあまり練習をしたという記憶はない。それと30年前頃の数年間、しばらく早朝野球チームに参加していたくらいだ。その時のチーム名前は「ガラクターズ」。まさに名前の通り、種種雑多のメンバーが集まっていたチームだった。我々のリーグは、「ガラクターズ」以外は、すべて商店街のチームだった。
夜明け前に球場に到着し、陽が昇り始める頃にプレイボール。試合は7回戦。社会人のチームなので、ほとんどが仕事を持っている。出社時間が迫ってくると、時間切れで終了となる。
メンバーが足らない時は、見学に来ている人や、ジョギングの途中の通りすがりの人を助っ人に頼むこともある。意外と、皆、素直に参加してくれた。日本人の男性なら、たいてい野球を知っていた。バリ人では、助っ人を頼むわけにはいかないだろう。
当時、ライブハウス「コマンド」を営業していた私は、ほとんど毎晩酒を飲んでいて、二日酔いで試合に出ることも珍しくなかった。寝ないで直接、球場に向かったことも多い。J,zのメンバーも、ほとんど前日飲み明かして野球をやっている連中だ。今の私は、さすがに前日に飲むと、野球は出来ない。
「ガラクターズ」のメンバーは、「コマンド」関係者と私の中・高・大学時代の同級生。私の同級生は、高校の時、硬式野球部員だが、補欠の補欠だった。勝利を狙う時は、補欠級の同級生に応援を頼むこともあった。新聞に勝敗の載る、上のランクのリーグでは、バイト代を出して、高校球児OBを助っ人を頼むこともある。
私が卒業したのは、名古屋にある中京商業。現在の中京大中京高校だ。国体やインターハイがあると、クラスの半数が大会に出場して、いなくなるというスポーツ校だ。
私は野球部とはまったく関係のない美術部(商業デザイン)で、のほほんと高校生活を送っていた。この時期から、私の「頑張らない人格」が形成されつつあったように思う。

J,zもガラクターズと大差のない気のおけないメンバーで、一緒にプレイをしていて楽しい。バリでの野球チーム数はきわめて少なく、他に日本人チームのDD(ダブル・デッカー)とインドネシア人チームがあるのみ。これらとの対戦も数ヶ月の一度。通常は、J,zの紅白戦となる。
草野球と言えども、試合となるとちょっぴり緊張する。まったくと言ってよいほど緊張することの無いウブド生活には、ほどよい刺激剤だ。
守備についている時、サウナに入っているような息苦しさには閉口するが、バリでの野球は楽しい。練習のあとの打ち上げ昼食会も、また楽しい。無理をしない程度に参加していきたいと思っている。


2007年、1年間在籍したバリ軟式野球チームから背番号をもらった。
「何番が希望ですか?」と聞かれて、私は「7」と即答した。幸い、空番だった。そして、背番号の上には、[ITO-SAN]とプリントする予定だ。
伊藤で「110」、名古屋出身だから「758」、愛知県のマーク・丸八から末広がりの「8」も考えた。しかし、やはり「7」だ。
「7」を選んだのは、自分が7月生まれだからだろうか、それとも、ラッキーセブンと言われるからだろうか。漢字の七のバランスが好きだが、それらが理由ではないような気がする。子供の頃から、ただなんとなく好きだった数字が「7」だ。


ユニフォーム




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