1990年5月7日。
隣のシートに、20代後半と思われる日本人女性が座った。
小柄で色白、それ以外にこれといった外見的特徴のない女性だ。
わたしは、彼女に向かって軽く会釈をした。
「わたし、ウブドの花嫁になるの!」
喜びを隠しきれないようすで、彼女は話しかけてきた。
ウブドはインドネシア・バリ島の山間部にある芸術の村として有名なところだが、飛行機に隣り合わせた誰もが知っているとでも思っているのだろうか。
「わたしも、ウブドに行くんですよ」
「貴族に嫁いで有名になった女性もいるけど、わたしの彼は平民なの。そんなこと関係ないわよね。愛があれば」
そう言って、くったくなく笑った彼女の顔に、限りなく広がるバラ色の前途が光り輝いているようだった。
彼女は小さなノートのページをめくり始め、会話は一方的に終止符が打たれた。
同席した親しみで返した、わたしの励ましの言葉は、聞こえなかったようだ。
「ゴォーッ」というジェット音を残して、ガルーダ航空機は、定刻通りに名古屋国際空港を飛び立った。
スムーズな離陸だ。
行き先は、インドネシアのバリ島。
帰国予定のない旅立ちにしては見送りの人が少ないのは、知人のほとんどが観光旅行だと思っているからだろう。
ゴールデン・ウィークもあと数日で終わろうとしているというのに、ほぼ満席だ。もちろん、乗客は日本人ばかり。
異国に向けて飛び立つ飛行機の乗客のほとんどが、未知の世界に踏み込む期待でウキウキ気分だと、今の今まで信じて疑わなかった。
しかし、今、わたしは違うことを考えている。誰もが楽しい海外旅行とは限らないということだ。
隣の座席で無邪気に日記をつけている女性とは反対に、別れ話をするために出かける人もいるだろう。
ビジネスで忙しく飛び回っている人や就職、退職などといった人生を大きく左右する、重大な決意を持って目的地へ向かっている人もいるかもしれない。
こんなことを考えるのは、わたしの旅が、日本へ帰らないと覚悟を決めた旅だからだろう。
日本に帰らないと考えるのは、本人の意思だ。
帰りたくても帰れない、やむにやまれぬ事情があるわけではない。
心のどこかに、故郷という安楽の地を持つ安心感もあるだろう。
日本脱出の直接的原因は、離婚である。
無責任のようだが、離婚の原因は自分ではよくわからない。
すでに役所で正式に離婚されている現実をくつがえす努力をわたしはしなかった。
一度、離れた心を取り戻すことはできないだろう。
ひとり息子との離別がたまらなく辛くて、彼と同じ土地に住むことが考えられなかった。
日本国内ではダメだ。近い場所では、未練を断ち切ることは難しい。
いっそのこと、ず〜と遠い外国に行ってしまいたい。
これまで一度も足を踏み入れたことのない異国で、まったく違った人生を送ろう。
まとってしまった“しがらみ”を脱ぎ捨て、残りの時間を過ごそう。
今回の旅は、42歳のおじさんの「寝床(すみか)を探す旅」だ。
新しい土地で愉快に生きていけるかどうかは、まったく予想もつかない。
放浪の旅になるか、安住の地が見つかるのか。
ゴールの見えないスタートが、この飛行機の乗客になった時点からはじまった。
学生時代の友人は、わたしの行為を逃避だと言った。
確かに、ある意味では逃避かもしれない。
友人に、言いわけはしなかった。
すべての責任を回避して、風の吹くまま気の向くまま、今日は野に寝て、明日は山に伏す。
身体の続くかぎり放浪して、どこか静かな山奥のきれいな渓流のほとりで果てる。
それとも、灼熱砂漠で象に踏まれるかライオンに喰べられるか、野垂れ死にするか。
この旅で、日本語を話すことができなくても恋しいとは思わないし、日本人に会わなくても寂しがらない自信はある。
孤独に耐える覚悟はできている。
飛行機が飛び立ってから、私は少し感傷的になってきている。
機体が水平飛行に移り、シート・ベルト着用のサインが消えた。
わたしはベルトの金具をゆるめ、リクライニングの座席を少し後ろに倒し深く腰を沈めた。
眼を閉じると、瞼の裏に昨夜の出来事が浮かんできた。
昨日は、夜が明けるまで友人と酒を酌み交わした。
数時間前のことが、もう遠い過去の出来事のように想われた。
旅立ちがあと1週間と迫った頃になって、世話になった数人の仕事仲間に、長い旅に出ることの報告をしてまわった。
仲間たちは心から心配してくれた。
「当分会えないだろうから、今夜一杯やろう」
浅野さんが、そう言って誘ってくれたのは、昨日のことだ。
仕事のつき合いしかなかったが、苦労人だった彼は、
わたしの今の辛い心を察してくれていたようだ。
これからを心配して、海外移住の旅を引き留めようと説得してきた。
今日までの、わたしの1年間は、いよいよ明日に迫った旅立ちに希望を抱いての生活だった。
いまさら、心変わりするはずはない。
浅野さんは、わたしの決意が固いとわかると、今度は「タイやシンガポールで事業に成功している友人を紹介するから、そこで仕事を手伝うといい」と言ってくれた。
しかし、それも今のわたしにはまったく興味のないことだった。
誰の援助も受けず、過去の実績や肩書きの通用しない土地で、ゼロからのスタートが切りたかった。
新しく「一」から始めることが、もっとも充実した時間が得られると考えていた。
カウンター越しに、われわれの会話を聞いていたマスターが「あなたの旅立ちのはなむけに、この歌を送りましょう」と、ところどころ色が剥げたアコースティック・ギターを抱きかかえ、渋いかすれた声で唄い始めた。
20歳代の頃に流行った歌だ。
小さな酒場だが、マスターは地元では有名なカントリー・ウエスタンの歌手。
週末になると仲間が集い、ライブハウスのようになる。
42年間の過去は、小さな段ボール箱ひとつに納めて長姉に預けた。
過去を封印したわたしの覚悟を、マスターはどこまで理解していただろう。
しかし、彼の唄った歌は、その時のわたしの心境にぴったりだった。
♪あてなどないけど、どうにかなるさ♪ つられて口ずさんだ私の唇が、わずかに震えていた。
不作法な大声が、回想をうち破った。
機内を貸し切りバスと勘違いしているのは、会社の慰安旅行と思われる一団だ。
日本はその時、得体の知れない好景気が続いていた。
この会社も、その恩恵にあずかっているのだろう。
わたしの過去にも、そんな時代はあった。
大騒ぎをしている彼らにいちべつをくれて、小さな窓から外を見た。
真綿を思わせる真っ白な雲海の隙間から、陽光に照らされて煌めく紺碧の海が見えた。
ガルーダ航空機は、海に突っ込むように急降下し、夕暮れでオレンジ色に染まったデンパサール空港に着陸した。
過去を捨てて日本から飛び出すには、7時間は長いようで短い。
タラップに足を踏み出した。
いよいよ、寝床を探す旅の始まりだ。
いくぶん暑さがやわらいでいるように感じるのは、陽が沈みかけているからだろうか。
熱帯の湿った空気が、粘り着くように身体にまとわりついてくる。
わたしはコットンのサマージャケットを脱いで手にした。
1歩1歩踏みしめるように、タラップを降りる。
後戻りしない覚悟の足取りは、リゾートで来ている乗客の軽い足取りとは違って、重々しく見えることだろう。
タラップを1段1段降りるごとに、汗ばんでくる。
大地に足がついたころには、早くも全身汗まみれになっていた。
空港ビルは建築中で、入ったのは平屋のバラック建てだった。
少しでも激しい雨が降れば、隣の人との会話もままならないだろうと想像できるアスベストの低い屋根に、薄暗い照明が心細い明かりを灯し、天井扇は怠惰なうなり声をあげている。
入国審査のカウンターは、スムーズに機能を果たしていた。
入国審査は、どこの国も威圧的で好きになれない。
われわれは、あなたの国にお金を落としに来たお客さんだ。
もっとにこやかに、友好的な雰囲気で対応できないものだろうか。
たとえば「いらっしゃいませ。おつかれさまでした」。
こんな歓迎の言葉で迎えられたら、たいていの人は、思わずチップを渡してしまうだろう。
もっとも、はじめからパスポートにお金を挟んで渡せば、うつむき加減で事務的に仕事をしていた係官の仏頂面が、いきなり不適な笑顔を見せ、ニッとした口元に生き生きとした声で「エンジョイ・バリ!」なんて、どこかの旅行会社のキャッチフレーズのような言葉をかけてくれるだろう。
不透明なお金の使い方が嫌いなわたしは、そんなことはしない。
機内預かりの荷物が流れてくるベルトコンベアーは、ガタガタと今にも壊れそうな音をたて、牛か人力で回しているかと思ってしまうほどゆっくりだ。
ベルトコンベアーのまわりは、目当ての荷物を待ちわびる人々でごった返している。
ベルトコンベアーが、見覚えのあるバックパックを乗せて壁の奥へ消えていく。
緊張からかドンくさいのか、自分の荷物を見逃してしまった。
手にした時には、ほとんどの乗客が税関に向かって歩いていた。
税関係官の厳めしい態度は、警察官のようで嫌いだ。
何度経験しても緊張する。
何も悪いことをしていないのに、どうやって係官を誤魔化そうと思案してしまう。
関所を通過しようとする弁慶も、こんな心境だったのだろうか。
ここでもひと言「おつかれさまでした。
何か違法の物はお持ちではありませんか」と優しく訊かれれば、「実は、麻薬を持って来てしまいました。
預かってもらえますか」なんて、思わず社交辞令を言ってしまうだろう。
バックパックと着替えの詰まった大きなザックを税関検査の長いテーブルの上にのせた。
税関係官は、わたしの緊張を無視するように、まったく荷物を見ようともせず「行っていい」と言わんばかりに顔をそむけた。
税金のかかる物や違法な物が何1つ入っていない、公明正大なわたしのバックパックとザックは、あっけなく税関を通過した。
どうして係官は、何も持っていないことがわかるのだろう。
肩すかしをくった思いだ。
検査のテーブルの向こうは、ガラスの2枚扉だ。
夕闇を背景にした人だかりが映っている。
出迎えの人々だろう。
わたしに、そんな気の利いた人はいない。
バックパックをかつぎ、ザックを手にした。
ザックでガラス扉を押し開き、ロビーに出た。
薄明かりの中で、肩がぶつかり合うほど大勢の人間がうごめいている。
酸っぱい体臭と人いきれで、息苦しくなってくる。
暗がりで見る褐色の顔に、思わず危険を感じるような鋭い眼が光っている。
気後れする恐怖を振り払い、人混みをかき分けてタクシーを探した。
「寝床探しの旅」の第1候補は、バリ島の東隣にあるロンボク島北部のスンギギ海岸か離れ小島ギリ・トラワンガンだ。日本からロンボク島への直行便はない。
もっともオーソドックスな手段は、まずバリ島まで行き、そこから飛行機かフェリーを利用する。
バリ島に立ち寄るのなら、ロンボク島に渡る前に1週間ほどバリ島観光をしていこうと考えていた。
ロンボク島に行けば嫌がおうでも、毎日海とご対面となる。そんなことから、バリ島では山あいの村を訪れることにしていた。
タクシーに乗り込み、鋭い眼の運転手に「ウブドゥ」「ウブド」「ウブッ」幾通りかの言い方で告げた。
運転手は、強盗団の一味のような凶悪な人相で「ノー」と一言。
そして「クタ、クタ」と繰り返した。
ウブドに行きたいと言うのは通じているはずだ。
しかし、運転手はクタへ連れて行きたいようだ。
英語を話すことのできないわたしは、カンに頼るしか方法はない。
そんなことから「〜のようだ」という判断になる。
理由はわからないが、言葉の通じない悪党面と押し問答もないだろう。
やむを得ない、今夜はクタで一泊だ。
「イエス!」と不機嫌な声で答えていた。
運転手は、無言で車をスタートさせる。
車は日本と同じ左側通行だった。
ヘッドライトが、舗装されていないガタガタの土の道を照らした。
前方に見える道路以外は、漆黒の世界だ。街路灯も家々から漏れる明かりも見えない。
これから待ち受ける旅の苦難を暗示でもするのか、巨大な闇は、このまま夜明けを迎えないようにさえみえる。
どこに連れて行かれるのか、さらけ出された心臓にトゲでも刺されたような痛さが襲ってきた。
まったく知らない土地に足を踏み入れたことは、何度も経験していることだ。
どこへ連れて行かれようと、男一匹どうにかなれの境地になっているはずだが、闇がこんなに精神を不安にさせるとは思ってもみなかった。
タクシーは、あるホテルのエントランスに止まった。
運転手は、終始、険しい表情を崩さず正規の料金を請求した。
つづく