「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」





■4月・30)いよいよ長期滞在だ!


ウブド滞在が、1年になろうとしている。
この土地を知るために、最低でも1年間は滞在しようと自分に課した。1年を通じてバリの気候、人々の暮らし、めぐる宗教儀礼の暦、時間の流れと過ごし方、バリ人とのコミュニケーションなど、経験することはたくさんあった。 滞在し始めたは頃、ウブドの村は、わたしが小学校の5年まで住んでいた名古屋の下町に似ていると思った。しかし、風景や人々の顔に似たところはあっても、習慣はまったく違った。
日本の隣国はもちろんだが、1度訪れたことのある国やヨーロッパの村、中近東の村、東南アジアの名の知れた村々などは、訪れたことがなくても情報が豊富だからか、ある程度の想像がつく。ところが、このウブドという村は、日本にいてはまったく想像できない村だった。
この1年間で、わたしの体内温度はウブドに合っていると感じるようになった。これなら長期滞在も可能だろうと嬉しい感触を得ている。先行して、家と店を建てはじめているが、こんな先走りな性格が、ミユキの言うところ“無責任男”のいわれかも知れない。

ウブドでの生活は、まるで物語の中にいるように現実離れしている。
わたしにとっては、夢の中のできごとのように、まったく別の時間が流れる異次元の空間のように感じる。それはどこか懐かしく、魂の故郷のような既視感をともなっている。これがこの村の良さで、はじめて訪れた時に「何かがある」と感じたのはそれだろう。
はじめの戸惑いは、今では心地よく感じるようになった。だんだんと、この村が好きになっていく。異国という緊張感がしないのは、バリ人が日本人とよく似た体型で、おまけに顔も日本人顔が多いからだろう。知人の誰かに似ていて、思わず日本語で声をかけてしまいそうになったこともある。
次第に、ここにいる安堵感さえ芽生えてきた。これまでの価値観が大きく崩れ、自分が無垢な人間に変わっていくようだ。今にも、裸になってしまいそうだ。いっそのこと、赤子のように真っ裸になってしまえば、気が楽かもしれない。生まれたばかりの赤子になったつもりで、ひとつひとつ感じていこう。
村人は、わたしの過去や肩書きにまったく関心がないかのように、訊ねもしない。それはわたしの望むところでもあり、嬉しい対応である。肩書きだけでは、その人の人格は見えない。やはり、面と向かって接してみて、初めて正確な判断ができる。もっとも嬉しいのは、見栄をはる必要がないことだ。心を開いて村人と接していこうと考えている。
ここで、気ままな生活をしている。どうしてもしなくてはならないことがない。好きな時間に眼を覚まし、好きな時間に床につく。断っておくが、これは旅行者だからできることだ。
毎日、なにもすることがない。かといって退屈しているわけではない。実際には、いろいろとあって楽しい毎日だ。 時には、時間をもてあますこともあるが、その時間は、自分自身を見つめ直すにはいいチャンスだ。心を癒すには、もってこいの土地に思える。まさに、暮らしをエンジョイする日々を過ごしてしまう。
村の人々の暮らしは、刺激的だ。時にはじれったいことや不便に思うこともないではないが、退屈を味わったり失望を味わったことはただの一度もない。なによりも、わたしはウブドで心の安らぎを味わっている。
あるフォト・ジャーナリストが「独りを楽しむことのできる人は、自分と話すことができる人、自分自身と出会える人なのだ」と本に書いていた。この言葉に励まされ、ウブドでひとりを楽しむことができるような人間になろうと心に留めた。
長期滞在を決めた、あくまでも来訪者でいいのだ。ここはよその国。けれどわたしには、楽しく暮らせる土地のようだ。生活してしまえば、それは日常になってしまう。わたしはあくまでも、旅行者としてのスタンスでバリに滞在していたい。わたしは、バリの風土、宗教、芸能に興味があるのであって、バリ人になりたいと思っているわけではない。
「人が善いのは、日本では “馬鹿” と言われているのと同じだよ」。その年、名古屋の長者番付に入った友人にアドバイスされるほど、わたしはお人好しだと自己判断する。日本とは、そんな文化の国なのだ。
「40歳までに、ビジネスに成功しなかったら、もう駄目だよ」。友人の奥方に言われたのは、ちょうどわたしの40歳までのビジネス・ビジョンが達成されなかった時期だった。友人は40歳前で、彼女には希望が持てた時期だったのだろう。彼女が言う「成功」は、高額所得を表す。そんな価値観があるのに驚かされた。
ウブドの人々は、人を過去の肩書きや財産で評価しない。年齢も関係がない。今、目の前にいる個人がすべてだと考えるところがある。わたしには、そんな対応が心地よい。
日本では駄目なおやじだったが、ウブドでは、役に立つことがあるかもしれない。そんな気がする。


                      

ウブドの魅力ってなんだろう。
訪れるのは世界旅行の途中に立ち寄るバックパッカーと、文化や芸能に興味を持つ外国人、そして舞踊・ガムランを習いに来ているほんの少数の人々だ。
村人は、なぜ、ツーリストがウブドを訪れるのかは、はっきりとわかっていないようだ。
ウブドの魅力はさまざまで、一言で言いあらわすのは難しい。
日本から7時間のトリップをするうちに、少し心が和むのだろうか。7時間で行くことができる旅先は、他にも多いはず。なのにバリだけが心を癒すのは何故か。
あえてあげるとすれば、芸能、音楽、そして豊富な自然という、村をかたちづくる要素が満たされているところだろうか。生き生きとした文化と伝統が息づいている。なんのカラクリもない、普段着のウブドがツーリストに興味を抱かせるものを持っている。
あらためてウブドを観察すると、緑が豊富で排気ガスのない村。もちろん化学工場などもない。
ビルに挟まれた町並みでなく、青空と木々の見える家並み。視界の半分以上が空。そんなところも落ち着くのではないだろうか。
洗濯機も電子レンジもコンピューターもない。電話が普及していないのもいい。テレビもない、雑誌などの情報も氾濫していない。世界情勢はおろか、日本の情報も入らない。ここでは、そんな俗世界とはまるで無縁だ。彼らの知る世界は、この平和な森と田んぼだけだ。
ここでの情報といえば、他愛もない些細な内輪の出来事だ。だからといって、何の不便も感じないこの不便さが、どことなく気に入っている。
こんな旅行者のノスタルジックな思い入れは、土地の人にとっては迷惑かもしれない。この国を発展途上と考える現地の人にとっては、近代化を歓迎しているだろう。
自然を破壊し、人工的に自然を造り出すのが先進国のやり方だ。
先進国と呼ばれるところから来ると、この島は発展途上の新興国に属している。しかし、この島は後進国ではない。もっとも後戻りするような国はないと思うが。後戻りまでしなくても、自然や良き古さを残した先進はあるのではないかと思う。
どちらの世界に住むことが幸せなのだろう。少なくともわたしは、テクノロジー漬けの生活から逃れたかった。

村には、派手で下品な看板がない。ホテルは自然を壊すことなく、地形を生かした設計がされている。ウブドは村人の無意識のうちに、街作りができていると感じる。
訪れた者には、都会の追い立てられる時間の中で縮んでしまった心をゆったりと伸ばし、柔らかく揉みほぐすことができる場所であり、一日一日の一瞬一瞬に、それが手応えとして実感できる。
しかし、この島に溶け込めるかどうかは、その人次第だ。こんなところで家族と暮らせたら、どんなに幸せだろう。
村人は、閉鎖的でも意地悪でもない。それどころか親切で優しい。時には、その優しく暖かく濃い人間関係が人によっては堪え難いものになる。知り合いが増えると、知りたくもないことや嫌なこともわかってくる。そこには、どこの国にもある醜い部分もある。
個性を強烈に出したり、目立ったりすることはタブーなのだ。自己主張をすることが許されない、バリの集団社会。否定的な感情を努めて表に出さない。これはなかなかできることではない。
人間にはお金では買えないものがある。それは「健康」「自然」「平和」である。ウブドには、その3つが備わっている。貧しいことを恥ずかしがらず、金銭や世俗的なものはそれほど重要ではない。そういう風土がある。
それはきっと、どこの国にもあるのかもしれないが、ウブドはそんなことを早く気づかせてくれる土地ではないだろうか。
現地の生活に入り込む長期滞在の秘訣は、まず、神経質でないこと。不潔、まずい、秩序がないと、いちいち気になる人には向かないだろう。日本の生活習慣を持ち込まない覚悟でないと無理かもしれない。そして好奇心の強い人。そんな人が、


                      

「居酒屋・影武者」は基礎工事も終わり、柱が立って建物の大まかに輪郭が浮かび上がってきた。
サクティの家がまだ完成していないので、店の敷地内裏に小屋を造ってもらい、そこに引っ越すことにした。
約1年間世話になった、ロジャース・ホームステイともお別れだ。
ロジャーのお母さんに、プンゴセカン村へ引っ越すと言うと、「どうして、そんな遠いところへ行ってしまうのか」と悲しい顔を見せた。ビザの取得でシンガポールに行く時には、なんの反応もしなかったロジャーのお母さんは、2キロ先の村へ行くだけで涙を流した。まったく知らない異国は想像できないところ。隣村だと距離感がつかめ、とても遠いところだと感じてしまうのだろう。
影武者の裏で生活するようになって、バイクを買うことにした。中心部まで2キロの道のり、これをいちいち歩いていてはたまらないと考えたからだ。ガソリンは、近くの雑貨屋で瓶に入って売っている。
バリ滞在の土地がウブドだったことが、わたしには幸運だった。
バリに導いてくれた、名古屋の知人に感謝している。
屋台で知り合ったミユキの存在は大きい。彼女の紹介でオカちゃんを知り、「居酒屋・影武者」を建築し、アグン・ラカさんという保証人にも巡り会った。「ウブドに沈没」には登場しないが、このほかにもたくさんのウブド人を紹介してもらっている。
最初に意気投合したバリ人が、ワヤン・カルタだったことが、ウブド滞在の大きな引き金となった。カルタと知り合うことによって、ウブドの人々がわたしのウブド滞在を心地よくするためにアシストしてくれた。
そして、ウブドで知り合った日本人ツーリストすべてが、わたしをこの地にとどまらせてくれた要因になった気がする。
ウブドで知り合った日本人ツーリストの友人が、時を経て再び訪ねて来ることもある。
わたしの消息を、日本の友人が知り、訪ねて来るようにもなった。
日本で会えなくても、ウブドで会える。
そして、さまざまに人に世話になった。
取りあえず、あと10年、ウブド滞在をすることにしよう。
離婚が引き金になっての「寝床探しの旅」だったが、思い返せば、人生の再出発と思われるほど魅力的で高揚感がある。離婚はしたが、こんな人生も善いなと考えている。
「居酒屋・影武者」ロゴとマークは、ミユキの屋台で知り合ったイラストレーターの山根さんに頼もうと思っている。
いよいよ「居酒屋・影武者」の開店に向けて出発だ!


ー沈没ー




■おわりに


最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。
長かった!。

「ウブドに沈没」は、1990年5月〜1991年4月までを記録に残すという意味で始めた、わたしの回顧録。
小さな石を積み上げるように重ねては、途切れ途切れの記憶を、ジグソーパズルのように嵌めていった。
構想は10年前からあった。少し書き溜めたが、2度のパソコンの故障で原稿が消滅した。気力が喪失したが叱咤激励して書き足していった。しかし、曖昧な記憶で充分には書くことができなかった。得意でないことをするのはしんどいものだ。

この後は、どうなったんだろうと気になっている読者の方も多いだろう。
「居酒屋・影武者」は、1991年7月10日開店した。
機会があれば、影武者開店からのエピソードも、いつか書きたいと思っている。期待しないで待っていてください。
バリ島ウブド滞在の最初の10年は、あっという間だった。
過ぎてみると、わたしには少しの生活の手がかりができ、もうしばらく生活できる状況にあった。バリの神々が私に、滞在を許してくれたのだと感謝した。
振り返ってみれば、持ち金は1年できれいさっぱりなくなった。それでも、なんとか生活ができた。伸びきった生活で、集中力は散漫になり、おかしな表現だがなまけものが板についてきた。
サクティの家は、10年目にカルタの兄弟から契約更新の催促を受けた。わたしはすっかり永遠に借りられると勝手に解釈していた。
「それは、カルタが決めたこと。われわれは知らなかった」。わたしは納得できないまま延長せずにそこを出た。正味、3年ほどしか住んでいない。
住居はその後、ニュークニン村、トゥブサヨ村と転々とした。
オカちゃんは、カルタの妹で元影武者スタッフのラティと結婚。今は、孫もいる。
由美さんは、バトゥブラン村のバロンの踊り手・デド君と熱烈恋愛の末、結婚した。今は、二児の母だ。「影武者」を受け継いでいる。
1990年に日本を発つ前夜、飲み明かした浅野さんが、亡くなったことを友人から国際電話で知った。出発前の不安な心を癒してくれたことに、ひとことお礼が言いたかった。23年間、1度も連絡しなかったことを今、悔やんでいる。

わたしの息子は、長姉と連絡を取り合っていた。
日本を出て10年目に、会いに来てくれた。空港に迎えに行った。大きくなって、あどけなさの少なくなった顔を見て、10年間の空白は大きいと感じた。
「お父さんは、僕の知っているお父さんのままだった」と感想を残して帰っていった。
夫として父親としては失格だったが「俺の人生も捨てたもんでもないな」と思えていた。
わたしにとって離婚、息子との別離は、結果的には良い方向に向かった。寝床を探す旅も落ち着いたようだ。そして、息子が訪ねて来たことで再会も果たした。お母さんの育て方がよかったのだろう、息子は立派な青年に育っていた。
「お父さんのしていること、日本にいた時と変わらない」の息子の言葉にわたしは、彼がわたしの生き方に賛同はしないまでも、心悪くは思っていないことを感じた。わたしは、性格も生き方も変えるつもりはなかった。この言葉で、息子はこんな親父を嫌いではなかったのだと安心した。
その息子も結婚し、一児の父だ。わたしの孫ということだか、嫁さんにも孫にも、まだ会っていない。
わたしの人生はこんなもんだ。
そして、23年も、あっという間だった。
42歳は、65歳になった。
わたしの「寝床(すみか)を探す旅」は、成功だったと思う。




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