「極楽通信・UBUD」



17「お疲れさまでした、居酒屋・影武者」





1991年の7月10日、ウブドの南に隣接するプンゴセカン村に「居酒屋・影武者」は開店した。開店の時は、まだ電気が通っていなかった。
ストロンキング(ケロシン・ランプ)1つとアグン・ラカ・バンガローから借りた小さな発電機で、開店3日間をなんとかしのいだ。お客様には大変迷惑をかけたが、バリらしいと言えばバリらしい開店の仕方だ。電気は、4日目にしてやっと引けた。


影武者


建物の意匠に興味をそそられたのか、バリ南部に長期滞在する欧米人の幾人かが建築中の「影武者」を見学に来ていた。そんな理由からか、開店初日から店は盛況で、厨房に立ったパートナーの由美さんは、たくさんの注文に困惑したのか、数秒間フリーズしたまま動かなかった。
彼女はこれまで、父親と弟の暮らしで3人分の食事を作ったことはあるが、1度に10人以上の料理は初めてだった。数秒後、われを取り戻した由美さんは、まだ満足にメニューを覚えていないスタッフを相手に奮闘し、なんとか注文をこなしていった。懐かしい思い出だ。今では、バリ島で一番美味しい日本食を出している店だと誇れるほどになった。


こうして13年を経て、2004年9月「影武者」は土地の賃貸契約が切れ、返却しなくてはならなくなった。
レストランは、すでに「影武者」の裏で開業している「バリ料理教室:ダプール・バリ(Dapur Bali) 」に併設して営業することになっているので、お客様に迷惑をかけることはないと思うが、これまでの建物は残念ながら姿を消す。
思い起こせば、バリに滞在し始めて6ヶ月しか経っていないのに関わらず、わたしは無謀にも「影武者」の建築に入ったのだ。そのころのウブドは、大先輩である「レストラン・ウブド・ラヤ」を除いて、長期滞在者で商売をしている日本人はひとりもなく、相談相手がいなかった。
ウブドで初めて日本人だけで経営された店だったということで、イミグレーションや警察に目をつけられた。厳しいビザのチェックは、近年まで続いた。
インドネシア語もバリ語も、まったくしゃべることの出来なかったわたしは、身振り手振りと特技とする第六感で、大工に注文を出していった。説明できないところは、大工が帰ったあと、自分で作ったものだ。テーブル、ランプ、長期滞在の友人たちを巻き込んで作った座布団、柱の1本1本まで思い出が詰まっている。
わたしの定位置であった入り口近くのテーブルで、また囲炉裏のある席や奥の座敷コーナーで、多くの人と知り合った。それぞれが今となっては懐かしい。わたしと同様に、多くのツーリストにも「影武者」での出合いが心に残っていることだろう。


13年も時が過ぎると、初めの頃のお客さんが2度目3度目にバリに来る時には、結婚していたり子供がいたりする。バリ人と結婚した人も多い。残念なことだが、離婚している場合もある。
ブティック・ブラン・マドゥーのH美さん、ブティック・プスピタのK織ちゃん、カフェ・アンカサのコテツちゃん、ラ・ビアン・ローズの史朗さんはウブドで店を開いた。深谷陽さんは漫画家になった。みんな、影武者で知り合った人だ。


影武者
☆2003年5月7日初版初刷発行の《踊る島の昼と夜》著者:深谷陽に、「KAMAKURA」として登場させていただいた。バリ関係・推薦本でお求めできます。



スマラ・ラティのメンバーが集っていた時期があった。深夜まで芸能談義をしたことを思い出す。恒例の年末餅つき大会や開店周年記念のジョゲッ・ブンブンなども懐かしい。
影武者の足跡のひとつに、ウブド・イラストマップの配布がある。初版は名古屋のイラストレーター・伊藤ちづるちゃんが手伝ってくれた。これは今でも、ツーリストに好評だ。
そして、ミニコミ誌「極楽通信・UBUD」。1994年2月から1999年6月までの5年間、影武者の常連客を巻き込んで続いた。これだけ続けられたのも、東京の堀さん・えりさんの援助が大きかった。「極楽通信UBUD」がPDFとして復刻し「Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。
また小冊子「バリ人の宗教について」吉田竹也著も忘れることは出来ない足跡のひとつだ。現在、改訂版を計画中。装いも新たに「バリ宗教ハンドブック」として出版する予定である。


影武者」の開店は、ビジネスの成功を望んで始めたわけではない。その土地では、その土地の料理をというのがわたしの信念であった。ところが6ヶ月もすると、わたしは、ココナツオイルで作られた料理が苦手になった。また、ウブドを訪れたツーリストの幾人かがインドネシア料理が食べれなくて救いを求めてきた。自分のために、そして困っているツーリストのためになればいい。こんなささいなきっかけが始まりだ。もちろん生活の糧になれば願ってもないことだが、その時は、利益のことなどまったく考えてもいなかった。
そんなことから、店舗はできるだけ目立たない場所で目立たないようにしようと、ウブドの外れに土地を探した。そして、決まったところが王宮のある交差点から2キロ離れた、辺鄙な村道沿いの田んぼであった。
こうして、ウブドで最初の日本食レストランが開店したのだ。


レストランを開店する立地条件としては決して良くはないが、その頃は、霊峰アグン山の全貌を拝むことが出来、夜は蛍の乱舞が縁側の向こうで繰り広げられた。蛍を掌に包み、お客様の前で「プレゼントです」と開いたこともあった。
1996年にパートナーの由美さんがバトゥブラン村のデド君と結婚した。デド君はバロンの演者で有名な青年だ。由美さんが出産を終えて復帰した時に、わたしは経営権を全面的に彼女に譲った。譲ったあとも、店主づらして頻繁に通っている。育てた我が子を慈しむのも似た感覚で、店の存在を見ているのだ。

当初、わたしのウブド滞在予定は10年であった。その間の生活に少しでも足しになればラッキーだぐらいに考えて始めた店が、あまりある活躍で、わたしのバリ滞在を15年まで伸ばしてくれた。滞在15年という節目に、わたしのバリでの小さなステージの幕が閉じられるというわけだ。その建物がなくなってしまうのには感慨深いものがある。
決して、順風満帆の13年ではなかったが、多くの知人に助けられて続けて来られこと感謝をしています。
皆さん、くれぐれも思い違いしないように。「影武者」は廃業するのではありません。新店舗となって存続するのです。「従業員もメニューも、まったく変わりません。今までは和風のイメージが強かったけど、今度はちょっとビストロ感覚かな」と、店主・由美さんは言っています。


新しい店舗で、また新たな素晴らしい出合いがあることでしょう。この紙面を借りて「影武者」を末永くご愛顧願えることを店主・由美さんに成り代わりお願いしておきます。


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