「極楽通信・UBUD」



バリ島滞在記「ウブドに沈没」




■5月・4) カジェン通りの散歩


ウブド第一日目の寝起きは、すこぶる良かった。
ウインナーソーセージのような形をした長細いクッションに、子供っぽいと思いながらも抱きつくように足を掛けた姿勢が意外と楽だったからか、ぐっすり眠れた。
東南アジアの節約旅行でありがちなノミやシラミのたぐいに悩まされることもなく、心地よい目覚めだ。
近くに薮や池があるのに思ったより蚊も少ない。
テラスに出ると、竹のテーブルに薄い食パンが二切れ載った皿とパパイヤ、パイナップル、バナナなど南国のフルーツが盛り合わされた皿、そして褐色のバリ・コーヒーがあった。
これが今朝の朝食メニューなのだろう。
パンの皿には、ジャムとマーガリンの入った小皿がある。
パンの一切れに、見るからに着色料で赤く染まったジャムを塗った。
つぶつぶのないイチゴジャムはどう見ても安物だが、こういうチープなものも嫌いではない。
フルーツの盛り合わせにライムを搾り、パパイヤをひと切れ口に放り込んだ。
甘くて酸っぱい味が口の中でふくらんだ。
清々しい空気の中での朝食は、格別に美味しい。

ウブド滞在1日目は、壊れたシャワーを直すことからはじまった。
宿の主人に言えば直してくれるだろうが、今のわたしには、時間の余裕がたっぷりある。
これくらいのことは自分でやろうという心がけだ。
アーミーナイフで、シャワーのじょうろ部分を分解すると、残っていた水がこぼれて、ズボンの膝に大きなシミをつくった。
じょうろの中には、黒いものが詰まっていた。
よ〜く見ると、それは小さなオタマジャクシだった。
なんと3匹。
死骸だったからいいものの、もし、この狭いじょうろの中でカエルになっていたら、と想像すると恐ろしい。
今の日本では、オタマジャクシを見るのも珍しいことだが、バリでは、なんとシャワーの中にいる。
それにしても、水道からオタマジャクシが出てくるとは不思議なことだ。
さまざまな可能性を考えてみたが、結論は出なかった。
蛇口をひねると水が出る。
こんなことは水道だから当然のことだ。
しかし、ところ変われば水道も変わる。
オタマジャクシが出ることもあるのだ。
問題は水源にあった。
ロジャーズの水源は、水道でも井戸でもなかった。
なんと裏の小川から水を汲み上げていた。
それで、じょうろからオタマジャクシが出てきたわけだ。
裏の小川は、蓮華の咲く池の横を流れる豚の解体作業をしていた上流だ。
下流でなくてよかった。
取りあえず、シャワーに詰まったオタマジャクシは取り除いた。


                      

陽射しは、すでに弱々しくなっていた。
この時間なら、外はそんなに暑くはないだろう。
村探索に出かけることにした。
大切な宝物の箱でも閉じるようにドアーに鍵をかけ、ビーチサンダルをつっかけた。
母屋のテラスでは、女性たちがくつろいでいる。
女性たちに、ホームステイの名称「ロジャース」の意味を訊ねた。
宿の主人の名前がワヤン・ロジャー。
それで、ロジャーのホームステイという、意外と安易なネーミングだった。
中でも、ひときわ身なりの良い女性が、「あなたの部屋の世話をするのは、このワヤンです」と無口そうな少女を紹介した。
少女の表情は相変わらず硬い。
少女はロジャーの妹の娘で、今年高校を卒業したばかり。
数ヶ月前から、ここを手伝っている。
少女が無口なのは、ただ外国人に慣れていないだけだった。
身なりの良い女性はロジャーの奥さん、そしてロジャーのふたりの妹。
みんな、わたしよりは若そうだ。
彼女たちから見て、わたしのようなおじさんの1人旅はどう映るのだろう。
数日間、長くて数週間の旅行者だと思っているはずだ。
まさか、終の寝床(すみか)を探す旅だとは誰も考えつかないだろう。
テラス越しに、家族の寝室が眼に入った。
部屋は狭く、床に直接マットが敷かれている。
マットでは、ロジャーの3人の娘たちが昼寝をしていた。
宿泊客にはベッドを用意してあるが、ロジャーたちはベッドを使わないのだろうか。
そんなことを考えながら、女性たちのいるテラスを離れ、門の外へと向かった。
「ク・マナ?」と背後から彼女たちの声がかかった。
言葉の意味がわからず、わたしはただニコニコするだけだ。
英語もだめだが、インドネシア語はまったくわからない。
門を出た。
右に行けば、昨日ウブドに到着した時に来た、市場からへ続く道。
左側は未知の道。
わたしは、未知の方角へ行ってみることにした。
道は、ゆるやかな上り坂。
水浴びしたあとの清々しい身体と気持ちで、歩みも軽やかだ。
路肩に側溝はない。
屋敷との間には、小さな庭が自然の花畑の花壇を造っている。
花壇には、わたしの知らない南国の花々が咲き乱れている。
塀は、土壁だったり垣根だったり、どこも自然素材だ。
その上には、突き抜けるような青空が輝いている。
都会育ちのわたしには、こんなことでも感動してしまう。
家々はどこも敷地が広い。
屋敷と言った風格だ。
広い敷地には、背の高い木々や椰子が林を作っている。
竹林の見えるところもある。
豊富な緑が、優しく眼に映る。
屋敷と屋敷との間には塀も垣根もなく、庭越しに自由に出入りができるようだ。
木々やバナナの茂る林が境界になっているのだろう。
これで安全とプライベートが守られているのだとしたら、素晴らしいことだ。
ひび割れた土塀の門から黒い犬が顔を出し、けたたましい声で吠えだした。
見かけない侵入者に驚いたのだろう。
それが合図だったように、あちこちの門から犬が姿を現した。
親子兄弟、親戚一同なのか、どの犬も黒だ。
黒犬の合唱は、わたしを歓迎しているようには思えない。
怖いのを我慢して、なにごともない顔をよそおい、犬たちの前を通り過ぎる。
犬たちは、わたしがそれぞれの犬のテリトリーを通り過ぎると吠えるのを止めた。
しっかり番犬の役目をはたしている。
崩れかけた土塀に添って、釣り鐘型の竹籠が5つ並んでいる。
そばには男が5人、鶏を大事そうに抱えてしゃがみ込んでいた。
これが噂の闘鶏用の鶏か。
首のうしろを、さすり羽根をしごき、身体をマッサージしている。
「ハロー」。
腰巻き姿の上半身裸の男たちから屈託のない声がかかる。
バリ人の家には、必ず、鶏が飼われているという。
放し飼いになっている鶏は、頻繁にある宗教儀礼のための生け贄用。
闘鶏用の鶏は、籠に入れられ大切に扱われている。
門の階段に腰掛けている女性3人が、数珠つなぎになって自分の前に座った女性の髪をいじっている。
シラミを取っているのかと思ったが、よく見ると白髪を探して抜いていた。

時間は5時を少しまわっていた。
トタン屋根の雑貨屋では、野良仕事を終えたのだろうと思われる男たちが、一服している。
今にも、縁台将棋がはじまりそうな平和な風景だ。
どこかで見た覚えがある。
そう、小学校の5年生まで暮らした名古屋の下町に似ているのだ。
故郷の家に里帰りでもしたような、懐かしいような解放されたような感覚で歩調もおのずとのんびりとなる。
ここは、ぶらぶら歩くにはもってこいの道だ。
上着を、腰布やズボンに押し込んで着ている村人を見かけない。
みんな上から羽織っている。
わたしもTシャツをズボンから引っ張り出した。
だらしなく思えるが、腰のあたりがルーズになって、緊張感がさらにほぐれる。
25番地と書かれた青いプレートが貼られた門を過ぎたあたりで、「カジェン・ホームステイ」という看板が眼に止まった。
途中、何軒かのホームステイがあったが、通りの名前をつけているのはここだけだ。
「カジェン」は、インドネシア独立戦争に参加して殉死した人の名前で、その名誉にちなんで、この通りをカジェンと名づけられという。
カジェン・ホームステイは、彼の生家だそうだ。
カジェン・ホームステイのさらに奥は、先に進むのが拒まれるほど鬱蒼とした木立が立ちはだかっている。
勇気を出して奥へ歩を進めた。
人の手が入っていないとみえる荒れた森は、落ち葉が何層にも積もり、腐葉土となったぬかるんだ地道だ。
森の中を左に大きく湾曲する地道を抜けると、竹林に出た。
これ以上、奥へ進むのが怖くなり、きびすを返そうとした時、竹やぶの陰に牛の姿が見えた。
近づくと、小川のせせらぎで、牛の親子が清涼飲料水でも飲むように、おいしそうに喉を潤していた。
キャラメル色をした牛は、鹿に似た顔つきで愛らしかった。
道は小川にぶつかって途切れた。
行き止まりだ。

戻り道、カジェン・ホームステイ前の森の中から、同じ言葉を何度も繰り返す魚河岸の競りにも似た騒がしい声が聞こえてきた。
わたしの旺盛な好奇心は、1本釣りされた魚のように森の中に誘われた。
森に入る道は、ひんぱんに人の往来があるのか踏み固められた土の道だ。
森の中には、切り開かれたちょっとした広場があった。
大勢の男たちの人だかりが二重三重となっている。
男たちの背中越しに中を覗くと、二羽の軍鶏が地上高く跳躍しているところだった。
幸運にも、バリの伝統的慣習ともいえる闘鶏の現場に遭遇だ。
男たちは、チン入者のわたしにはまったく気づかないようすで殺気立ち、賭博者のような刹那的な危機感に満ちていた。
軍鶏の動きに合わせて同じ動作をしている男がいて、笑えた。
軍鶏は、右足首に10センチほどの鋭利なナイフを縛りつけていた。
闘鶏はバリの儀礼のひとつということだが、彼らはそれを生け贄儀礼だけにとどめずギャンブルにしてしまったのだ。
男たちの喚声があがった。
勝負がついたようだ。
二羽が跳び上がったかと思うと、着地した時には一羽が倒れている。
一瞬のうちに勝負が決まる時もあれば、血みどろの長期戦のこともある。
どちらかが戦意を喪失して逃げまどうと、籠に入れられて勝負を決められる。
二羽とも狭い籠に入れられて、死を賭けての闘争だ。
鶏はどんなことを考えて戦っているのだろう。
ちょっと知りたい気もする。
はじめて見る闘鶏に、最初は興味本位で覗いていたわたしも、鶏の気持ちを考えると、自分が戦っているような錯覚に陥り、あとずさりしてその場を去った。
森を抜けると、カジェン通りに並行して南北に走るスウェタ通りに出た。
右手に行けば、王宮のある変則十字路に行けるはず。
スウェタ通りもカジェン通りと同様に、インドネシア独立戦争で殉死した英雄スウェタ氏の生家があり命名されたいう。
当時、20歳そこそこの青年だったと聞いている。
しばらく歩くと、水色の円筒形タンクの前に人だかりが見えた。

“給水塔”

バケツを手に、婦人や女の子が並んでいる。
水の配給を待っているようだ。
水道の普及率が悪いと聞いているが、彼女たちの家には井戸もないのだろうか。
水浴びや洗濯は川で済ますとしても、飲み水や炊事に清潔な水が欲しい。
彼女たちは、重いバケツを頭に乗せて帰っていく。
大きな樹の前に立った。
ウブドに降り立った時に、変則十字路から見えた巨樹だ。
古くから大きな樹には神や精霊が宿るといわれている。
前に立つと、その理由がわかったような気がした。
巨樹は荘厳だ。
変則十字路から西の空を見ると、道の中央に太陽がゆっくり沈んでいくところだった。
今まで見たこともない、真っ赤に燃えた大きな大きな太陽だ。
あたりの木々がレモンイエローに縁取られ、家並みは夕焼け色に染まっていく。
この地が暗闇と化す前の、太陽からの華麗なフィナーレのプレゼントだ。
ホームステイに戻ると、テラスの女性たちは剣のような長い葉っぱを切っていた。
通り過ぎようとすると、「ダリ・マナ?」と女性たちが声を掛けてきた。
わたしは言葉の意味がわからず、ただニコニコするだけ。
女性たちの作っている物を指先で示すと、全員が「セレモニー」と甲高い声で答えてくれた。
儀礼のための供物を作っているのだろう。
小さな供物の数々が器用に作られていく。
供物作りに、老婆がひとり増えていた。ロジャーのお母さんだと、3人の女性が声を揃えて教えてくれた。
この家は、女系家族なのだろうか?


つづく




※カジェン通りのコンクリート製石畳は、1975年以前から作り始めているようだ。
この石畳作りはなかなかユニークなシステムになっていた。
およそ80センチ正方分のコンクリート畳一枚分が(朧げな記憶によると)5万ルピア。
村人やツーリストの有志がこれを買い上げ、寄付するのだが、寄付した者はその80センチ四方のコンクリートに自由に文字を入れる(掘る)ことができるのである。
実際に見てみると、おのおのの名前やちょっとしたメッセージ、日付などが思い思いに掘られていておもしろい。
わたしのロジャース滞在の時にも寄付を募っていたのだが、5万ルピアが惜しくてわたしは寄付をしなかった。
今になってみれば一枚くらい買い上げて記念にしておけばよかったと、悔やんでいる。

※2012年のカジェン通りの模様は、極楽通信《カジェン通り(Jl:Kajen)》をお読みください。


※カジェン通りの動画(撮影:2015年12月28日)




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